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第四章:其の三:ちょろり光るや、猫の目ふたつ
***荻窪の日常***
「ああ、待ちなさい、ちびや。」
玄関から聞こえた小さな物音に反応したのか、ちびが荻窪の膝から降りて走り出す。
とにかく小さいものだから、一度見失うと探すのが大変で仕方ない。
荻窪は慌てて万年筆を置くと、廊下を小走りにちびを追いかけた。
ようやく抱きかかえてみれば、玄関から入ってきた高梨の、ぎょ、とした顔が見て取れる。
あの小さな物音は高梨だったのか、と思いながら荻窪は、「すまないね、まだ全部を書き上げていないんだ」と申し訳さなそうに告げた。
しかし、高梨は荻窪から目を離そうとはせず、その言葉にも珍しく反応を示さなかった。
おかしいな? とよくよく見れば、視線はちびに釘付けだ。それも、かわいいから、なんて理由ではないことは、顔を見れば明白だ。
八の字眉は困惑、やや見開かれた目は恐怖、半端に開いた口元には、戸惑いと逃避の気配が滲んでいた──。
「もしかして高梨くん、猫がだめだったかい?」
荻窪が困ったようにそう問いかけると、高梨は、は、としたように取り繕った。
「そ、そんなことはありませんよ。ただ、僕あんまり動物と触れ合う機会がなかったので……、ただの食わず嫌いなだけです!」
強がりを言っているのはよく分かる。
「苦手なものは仕方がないが……、この子はきみに悪さをするような子ではないよ。──きみがこの子に悪さをしない限り、だがね。」
荻窪がちびの背中を撫でて、ちらりと高梨を見やった。ますます八の字を描くその眉で「僕が動物をいじめるように見えますか?」とため息まじりに問いかける。
「そうは見えないから安心しなさい。──ちびや、高梨くんにご挨拶しようか。」
つい、とちびを高梨の目の前に差し出せば、ちびが穏やかな表情で彼を見つめた。しばしの間、高梨は固まったままちびを見つめ、ちびはまた、高梨がどういう生き物かを見定めようとしていたのかもしれない。
「ん、んん! 猫の目というのは、ずいぶんきれいなものですね。」
高梨が廊下を先に歩く荻窪の後ろを付いて行く。
高梨が、ひっ、と息を呑んだ瞬間にちびもさっと荻窪の手から飛び降りて、書斎へと走っていってしまった。
鈴でもつけようか、と悩みながら歩く荻窪は、「ああ、あれは子猫の頃の独特な色合いだそうだよ」とぼんやりと答え、書斎へと入っていった。
***荻窪の怪談***
『にゃあぁあおぅうう。』
夜半になるとどこぞから猫の声が聞こえてくる。地の底から響くように、じとり、じわりと地鳴りのように。恨み辛みを訴えるかのような、もしくは悲しくてたまらないというような。
夜な夜な、丑三つ時になるとどこからともなく聞こえてくるのだ。男は何度も何度もその猫の声の主を探したが見つからず、困りきっていた。なにか大変なことが起きているのなら、助けてあげたいのに。思いはするが、猫の居場所が分からずに、やきもきしていた。
しかし、嫁は違った。あの、尾を引くようなあの鳴き声。どこかで聞いたことがある。毎夜毎夜こうも鳴かれてしまっては、だんだんと恐怖が沸きだし、恐ろしくて声のするほうなどとてもじゃないが、見ることができないでいた。
「なあ、あの声の猫はどこで鳴いているのだろうなぁ。怪我でもしているのか、それとも病気かねぇ?」
布団の中に潜り込んで出てこない嫁をちらりと見つつ、男は心配げに──しかし、のん気に──口にする。
『にゃぁああああぉぅん。』
ひ、と息を呑み嫁は両手を合わせて狂ったように口にする。震える唇で念仏を唱えるが、その声は皮肉にも、かつて自分が嘲笑った猫の鳴き声と重なるように震えていた。
どうかもう許して、と心の中で許しを請うが声の主には通じないのだろう。どうか助けて、と訴えた猫の声を無視した嫁に、命だけはと請われて、はいそうですか、と返せるわけでもあるまい。
日々、猫の声はだんだんと近づいてきているのか、最近ではそこらの庭で声がするようで。嫁は恐ろしくてたまらなかった。
もう二度と、猫は、動物は殺さないから──。
請えど請えど、猫の声が収まることはなかった。
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