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第四章:其の四:ちょろり光るや、猫の目ふたつ
***荻窪の日常***
背後があまりにも静かだ、と気がついた荻窪は文机から振り返ってみた。
高梨が火鉢の横で寝そべるちびに、恐る恐る手を伸ばし、そのせ背に触れる。猫の被毛は成猫ですら柔らかいものだが、子猫のときはさらにぽわぽわしているものだ。
高梨は、まるで壊れやすい細工物に触れるかのような手つきで、人差し指をちびの背に乗せた。
ちびも高梨の背広に手を伸ばしては、軽く爪を引っ掛ける。まるでなにかを確認するかのように。
本来、猫は人見知りする生き物だ、知らない人間が自分の縄張りに入ってきたら、逃げるか威嚇するか。初手で友好的な猫はあまりいないと聞いていた。
確かに、過去、荻窪が猫と出会ったとき、その猫はものすごい勢いで姿を消したものだ。何度か行くうちに慣れてきて、姿を見ることができるようになったものだったな、と思い耽る。
高梨とちびのやり取りは、ちびがまだ子猫だからなのか、高梨がそういう穏やかさを持っているからなのか……。互いに確認し合うような雰囲気だった。
やはり、高梨は雰囲気が柔らかいのだろう。
荻窪は自然と笑みを浮かべていた。お互いに確かめ合うような動作を繰り返している二人が、和やかで。
***荻窪の怪談***
男はその日、帰宅することはなかった。どこか遠いところまで出稼ぎに出てしまっていて、今日明日中に帰るという確証はない。
次に会えるのはいつになるのやら。嫁は、怯え切っていた。毎夜毎夜嫁を追い詰めるかのような猫の叫び声に、憔悴していた。
助けて、と叫ぶがその声は猫には届かず。必死に拝んでみてもそれが通用することはなかった。
嫁は幾多の命を奪ってきていたから。男が救った小さな命を、嫁は無残にも切り捨ててきた。
弔いの言葉ひとつかけず、ただ土くれの中に打ち捨てていただけなのだから。汚いものを扱うかのような、ひどいやり方で骸を土の中に埋めていただけだ。
『にゃぁああああおぅ。』
声は止まることはない。どんなに嫁が心を入れ替えようとも、後の祭りなのだ。声はすぐそこに近づいてきていた。みしみし、と廊下を踏みしめる音がする。障子につ、と猫の耳が浮かび上がる。一歩ずつ確実に、猫は嫁の傍まで来ていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……もう二度と動物は殺しません……ごめんなさい……、」
もう、無駄だ。どんなに許しを請うても、許されないのだ。猫を殺した報いだった。がたがたと震えながら布団の中で丸く丸まって、必死に祈る。助けて、助けて、どうか殺さないで。もしも神様がいるのなら、助けて。
だが、そんな祈りはなんとも自分勝手な祈りでしかない。
『にゃああぁおぉおん。』
ず、となにかを引きずるような音と、爪の影が障子に映る。嫁がおそるおそる布団から顔を出したその瞬間、ばり、と短い音を立てて障子が破れた。想像しているよりもずっと大きな鍵爪が、破れた障子からにょきりと覗き。嫁はひ、と息を呑んだ。もう、目が離せない。恐怖に凍り付いて、動くこともできない。
「あ、ああぁああ、ああ……、」
ただ、搾り出すように呻くだけだ。
覗いていた爪がするりと引き抜かれ、障子はぽっかりと穴を開ける。ゆらりと影が動いたと思うと、その穴からぎろりと猫の瞳がきらりと光った。
中の様子を見ようとしていたのか、それとも、嫁がいることを確認しようとしたのか。満月のように金色をした瞳が、部屋の中を物色するかのように左右へと動く。
その瞳を見て、嫁はもう完全に動くことを忘れてしまったかのように、硬直した。恐怖のあまり声すら出ず、逃げることもできないままだ。ようやく、猫の目が嫁をとらえた。
焦点があったかのようにぴたりと動きを止めると、残忍さをかもし出すように、薄く細められ。ぺろりと赤い舌が舌なめずりする。
『見つけた。』
そう、言っているかのようだった。
もう、だめだ──。
嫁は、逃れられぬ運命を拒絶するように、固く、固く瞼(まぶた)を閉じた。
***荻窪の日常***
荻窪が万年筆を置く頃には、すっかり日も暮れていた。ちびのごはんをやらなければ、と慌てて立ち上がって振り返る。
気がつけば、いつの間にか高梨の膝にはちびが乗り、背中を丸くして眠っている姿が目に飛び込んできた。
荻窪の慌てた姿を見た高梨はといえば、少し笑ってから「しぃー」と言うように口に人差し指をたてる。
ふと見れば、高梨の膝の上で丸くなるちびがいた。
──眠っているのか、なら、起きてからにしよう。
荻窪はふぅ、と息を吐き出した。つい、時間を忘れて書いていたようだ。
「先生、原稿できたんですか? 良かったら見せてもらえますか?」
そう小声で高梨が、荻窪を覗き込む。
「あ、ああ……。これだよ。」
なぜか居た堪れない気持ちになった荻窪は、高梨から視線を逸しつつ原稿を手渡した。
そろりと手を伸ばして受け取った高梨は、ちびを起こさないように細心の注意を払って原稿を捲る。
ぱらり、ぱらりとゆっくり捲られる原稿を読む高梨を、荻窪はそっと視界から外した。
「先生……、この黒猫は……悲しいですね。」
ちびの背中を撫でていた高梨の手が止まる。猫がどういうものなのかを知ったばかりの高梨の、声が悼む。
「きみはいままで、猫というものを好いてはいなかっただろう? それでもそう思うのはどうしてだい?」
低い問いかけは、誤魔化しは効かないと告げているかのようだ。
「動物は……無垢です。無垢が故、起きた出来事でもあるのかなと思いまして……、僕は……、この嫁を擁護するつもりは毛頭ありませんが。」
ちびがふと眠たそうな顔を、荻窪に向けた。
「んに。」
お腹が空いたとの訴えだろうか、ちびが小さく荻窪に声をかける。
「ああ、無垢だからこそ可愛がられもするし、こういったひどい目にあうこともある……。だけどね、如何なる時もそんなことはしてはならないんだよ、高梨くん。」
ゆっくりと立ち上がると、荻窪はちびのごはんを用意するために、台所へと向かった。
──ちょろり光るや、猫の目ふたつ。
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