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第五章:其の一:水面に浮かぶや、赤尾びれ

 ようやく、割烹着(かっぽうぎ)が定着し始めた時代。自動車など未だ高嶺の花で、人々の足といえば鉄道か、あるいは人力車が珍しくもない時代だった。  屋根を激しく叩く雨音が、徐々に強さを増してきた。初春の嵐だろうか。冷たさを纏う雨粒は夏場と違い、やや硬さを残す。  やや歪んだ硝子にも容赦なく雨は叩きつけ、その雫はだらりと流れ落ちていく。  成形時のままに凍りついた硝子の揺らぎなのか、判別し難いほどであった。  そんな天気の中、荻窪(おぎくぼ)の書斎にはいつものように石油ランプが灯り、文机に向かう姿があった。  火鉢のそばにはいつもはない、陶器でできた金魚鉢──。  さしもの荻窪にも、友人と呼べる人間が何人かはいる。そのうちの一人が、二、三日家を開けるから面倒を見てくれないか、と押し付けてきたのは二日前だ。  名前を紅男と紅子という、と教えられても、荻窪から見たらどちらがどちらなのかは分からない。  更紗(さらさ)の琉金が二匹、静かに水底を漂っていた。  色味の白いのが紅男だったか……それとも逆か。水換えと餌を与えてくれと頼まれて、荻窪は仕方なしに引き受けた。  ずんぐりとした体に、ひらひらと長い尾びれが実に優雅だ。まるで襦袢(じゅばん)を靡(なび)かせて歩く遊女にも見える。  猫の世話をできるんだから頼めるだろ、と呑気なことを言って置いていってしまったが、猫と魚は犬猿の仲──もとい、猫魚の仲か。  どちらにしても、興味を示すちびのいたずらを防ぐために、焼網を乗せて石で固定する以外方法はなかったが、ちびが大人しくなったから、これはこれで成功か。 「どっちがどっちか分からんが……、人が近付くとごはんがもらえると思うのか。」  荻窪が覗き込めば、金魚たちが寄ってくる。ぷかぷかと口を開け閉めして、えさをねだる姿が「愛らしいんだよ」とは、友人の談だ。  ずんぐりとした体つきは可愛らしいと思えなくもないが、噂に聞けばこの金魚、水槽に合わせてどんどん大きくなっていくんだとか。  見た目とは裏腹に大食いで、わりとなんでも食べるとも聞く。  えさをやりすぎるなよ、と注意はされているが欲しがる姿を見ればまた与えたくなる。しかし、健康に害が出るならそこは我慢すべきなのだろう。 「ちび、これはお前のごはんではないから手を出してはだめだよ。」  荻窪の真似をするかのように、一緒に隣でのぞき込んでいた白猫のちびを抱き上げると、そう告げる。  ちらりと、成猫になってもなお、玻璃(はり)のように透き通った青い瞳を荻窪に向けると、ふい、とそっぽを向いた。 「いい子だ。私は少し仕事をするよ。」  ちびを火鉢のそばの座布団に座らせると、荻窪は文机に向かう。  いつものように手の中で万年筆を転がすと、原稿用紙と向かい合った。  ***荻窪の怪談*** 「もし……。」  背後から女が声を掛けてくる。まだ昼間だというのにも関わらず、雨雲のお陰で鬱蒼とし薄暗かった。その日はちょうど雨が強く降る日のことで、川は増水し、危険極まりないその橋の上でのことである。  俯き加減に頭にかぶった笠が風で飛んでしまわないようにと、手で押さえつつ足早に歩いていた一人の若者が、ばたばたと路面に落ちる雨音の向こう側からか細い女の声が聞こえたような気がして、振り返った。しかし、背後にはなにも居ぬ。  若者は気のせいか、と思い直し、また足を踏み出した。ばたばたと響く雨音のその奥でまたもや、「もし」と呼ぶ声がした。やはり聞こえる。男はふたたび振り返った。 「もし……。」  か細い女の、呼ぶ声。若者は振り返りざま、いったいどこから現れたのかと思うほどに艶やかな紅色の着物を着た女を、その視線の先に見た。女を包むかのようにゆらりと揺らぐ青の焔(ほむら)は、幻か、それとも現(うつつ)か──。  若者はその女の妖艶さにごくりと唾を飲み込んだ。 「もし……、あちらの町へ行くのならわたくしを連れて行ってはくれませぬか?」  す、と青白い指が橋の向こう側を指差した。静かでいて、どこか断れぬ声。陽も照らず薄暗い中雨で霞むその視線の先、女の口唇が薄らと弧を描いた。  若者の視線はその口唇に釘付けで、声も出せずに小さく頷くのみ。若者が頷くそれを見て、女はふわりとはっきりとした笑みを浮かべて見せる。 「ああ、よかった。断られたらどうしようと思っておりました。」  女は青白いその手を若者の腕へと伸ばすと、するりとその手を掴んだ。思いのほか、ひやりとして、濡れているからかどこかぬるりとしたそんな感触が若者の腕に伝う。  女に掴まれたその場所からぞわりと鳥肌が沸き立つような、そんな感じがした。よほどこの雨に打たれていたのかと思いはするものの、それを払拭するような冷たさだ。一歩歩くごとにずるりとなにかを引きずるような音がして、若者はひやりと汗が頬を伝う。  濡れた手のひらは、腕を通すと不気味な手触りだ。まるでねっとりとした粘膜に覆われたかのようなその手のひらだけが、存在を明確にしているかのようだった。  ──いま、俺の腕を掴んでいるのは先ほどの女だっただろうか。  そう思わずにはいられないほど、女は気配を感じさせなかったのだ。一歩がすごく長く感じる。普段ならものの数分で渡り切ってしまうその橋も、今日に限ってはなぜか遠い。  いい加減橋が終わってもいいだろうに、と思ったとき、ようやく橋の終わりが見えてきた。もうこの橋が終わる。やっとこの手から開放されるのだ、そう思った矢先、ぬるりとしたその手が想像を超えるその力で元来たほうへと引きずり出した。 「行かせはせぬ……、行かせはせぬ……、ここから先には、行かせはせぬ……!」  搾り出されたその声は、先ほど聞いた声とは違って聞こえた。地面の底から響いてくるような、重々に恨みのこもっているような。若者は女を見ぬようにきつく瞳を閉じると、思い切り腕を引っ張った。なかなかそれでも腕は抜けぬ。何度か引いて、ようやく、すぽりと。  音を立てるかのように、女の掴んでいた腕が抜けた。痛みに顔をしかめつつ、こけつまろびつしながら橋を渡り行く。渡り切って、背後を振り返ってみてみれば艶やかに濡れた髪を口元へと咥えた女が、悪鬼のごとくこちらを見据えていた。歪んだ口唇がわなわなと震え、見据える瞳が青色に見えた。 「口惜しや、口惜しや。」  小さくつぶやいたかと思うと女は紅い着物を翻し、荒れ狂うその川へと身を投げた。  荒れ狂うその川に身を投じた女の後を追うように、若者も橋の上からそれを見下ろした。ざぶりざぶりと音を立てながら、濁流と化したその川は流れていく。先ほど、女が着ていた着物の欠片すら見えず、若者は呆然とその波を見つめるばかりだった。  ──女が落ちた。否、自らその川へ身を投じた。それは若者の目の前で明らかに起きたことだ。若者は人の気配すらないその川の周辺で「女が川に落ちた」と叫んでみるがやはり、誰もいなかった。

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