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第六章:其の一:熱風もまた、冷のうちなり
その昔、軽く半世紀は昔の話。電話を掛ければ電話交換手が取り次いでくれるくらい古い話で、バスガァルもちらりちらりと姿を現したころ。手紙がまだ五厘から一円で出せた時代だ。
熱帯夜、というのはこんなことを表すのだろうな、というくらいねっとりと暑さが肌にまとわり付く夜だった。
荻窪はあまりの暑さに耐えかねて、いつもきちりと身にまとっていた着物を脱いでいる。かわりに、涼しげな夏の召し物である藍染の浴衣を着ていた。
風のない夜だ。やはり涼しいとは言い切れない。庭に高々とそそり立つ木々の葉音もわずかながらでも、聞こえない。
涼を求めて、わざわざ昼寝してまで夜間起きていようと思っていた荻窪は、大きなため息をつきつつ手にしていた扇子で風を起こした。
しかし、それもまた、熱帯夜に熱された空気が送られてくるのだ、涼しいはずがない。ただなにもせず、じ、と座っているだけでもだらだらと汗は落ちてきた。
こういう日はひと言に尽きる、「暑い」。
それだけしか浮かばない。こうも暑くては、話のひとつすら浮かばない。このまま扇子を片手に温い風を起こしていても、なにも浮かんでは来ない。
ここいらでひとつ、涼を運んでくる雨のひとつでも欲しいところだが、そんな気配は微塵もなかった。
この暑さの中、高梨の顔を思い出すだけで心なしか涼しく感じられ、荻窪は薄っすらと瞳を閉じた。そして、深く息をつく。
このまま彼を頭の片隅へと置いておいたら、どんどんと涼しくなるのではないかと思えた。しかし、この暑さはそんなものではとてもではないが、涼しくなんてなりはしなかった。
この暑い時期、荻窪はいつもこの熱風に妄想を削り取られていた。この時期がもっとも、集中力が欠けてしまうのだ。物語を連ねようにも考える端から暑さによってそぎ取られ、話が続かない。
荻窪が書いているのは怪談だったが、薄ら寒い話さえ暑さに負けてなかなか顔を出しそうになかった。このまま過ぎてしまえば、今度こそ原稿を落とすことになりかねない。耳を澄ませてもなにも聞こえず、荻窪は実に困った、というように大きなため息をついた。
暑さを利用しようにも、思考をそぎ落とされてしまってはどうにもならない。
白猫のちびは暑さを凌ぐためにどこぞへ姿を消しているし、黒猫のみけは定食屋の店主の香世が引き取ってくれた。
みけを香世に預けるときは充分に高梨と相談しあい、面倒を見られるのは荻窪はちびがやっとであることも分かってくれていた。
あれから季節は夏になり、香世に譲り渡したみけも幸せそうに暮らしているのは、定食屋を訪ねるたびに見て取れる。
看板猫になりつつあるみけは、常連客にも人気があるようだ。
今日は高梨も来る気配を見せず、暑さに思わず畳に仰向けに寝そべってしまう。
見上げれば、そこには衣桁(いこう)に掛かった濃紺色の着物が、荻窪の仰ぐ扇子(せんす)の風で緩やかに波打っていた。
同じ紺色といっても、色が違う着物は何枚かある。それは当然ながら荻窪のものではない。
高梨に貸したそれも、紺色の着物の一枚ではあったが、薄めの紺色だった。
衣桁にかかっているのは、濃いめの紺色だ。
似ているようで、似ていない。
『ああ……、高梨くんだったな。』
思わずつぶやいてしまったときの、高梨の表情は怪訝そうであり、どこか傷みを含んでいた。
刺すような視線と、荻窪の手を慈しむかのような触れ方をしたのを、いまでもこの手に感触が残っている。
あれから何度か「ちびに会いに」来てくれていたが、荻窪のことをあまり見ていない気がした。
話をするときもどこか、視線が外れている。
いつもの高梨とは様子が違う、と明らかに感じざるものだった。
会いたいような会いたくないような、そんなざわめく気持ちで文机から見える外を眺める。
視線を外す高梨の向こう側で、写真のない写真立てが、見えない誰かの居場所を頑(かたく)なに守り続けていた。
荻窪がゆっくりと目を閉じる。忘れないように、心にのし掛かる重みを確かめるように。
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