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第六章:其の二:熱風もまた、冷のうちなり

 がちゃり。  ごとん。 「先生? 起きていらっしゃいますよね?」  窺うかのような小声とともに、廊下を軋ませながら歩く足音が聞こえてきた。  すぅ、と雪見障子が開き、そこには詰め襟シャツを着た高梨が、片手に何かを持って立っている。  いつも着ている背広ではないんだな、と寝転がっているために逆さに見える高梨をぼんやりと見つめた。  そして、こんな姿を見せるわけにはいかないとでもいうように、慌てて身体を起こす。少し乱れた胸元の袷(あわせ)をしっかりと直してから、荻窪は改めて高梨に向き合った。 「こんばんは、高梨くん。」  その後の言葉が続かない。よく来てくれたね、久しぶりだね、そのどれもが違う気がした。  言葉を探して立とうと身体を動かせば、衣桁に掛かっていた紺色の着物にぶつかってしまう。 「ああ、すまなかった。」  着物に手を当てて思わず謝り、荻窪はひとつ、深く息を吐き出した。  まるで、正妻と愛人の間に立つ夫のようだ、とふと思う。  高梨にそっと視線をやれば、目があった途端ににこりと微笑まれてしまった。 「先生、熱くて参っていらっしゃると思って。編集長からこれを譲っていただいたので、よかったらと思って持ってきましたよ。」  ことり、小さな音を立てて床に置かれたそれは、近代的なものだった。 「扇風機です。初めて見るでしょう?」  僕も初めて見ました、と付け加える。全体的に見てもそんなに大きくはなかった。高梨が片手で持てるほどの大きさだから、一尺(約三十センチ)ほどくらいだろうか。 「ほう、扇風機か。初めて見るな……。これはどうやって使うものなんだい?」  荻窪は会話の糸口を見つけたように、食い付いた。高梨もここしばらくどこかぎこちなかった荻窪との距離が、扇風機を通じて少し緩和された気がしたのだろう。肩の力が抜けているようだった。 「ああ、これはね、電源を差して……、」  そう言って電源コードを天井のソケットへと伸ばそうとする。  だが如何せん、手があと少しのところで届かない。じたばたしている高梨を横目に、荻窪はゆらゆらと立ち上がり仕方なしとでもいうように、彼の手からその電気コードをそっと受け取った。 「これをここに挿せばいいのかい?」  高梨がやろうとしていたことを荻窪が、代わりにやろうとにょっきりと手を伸ばす。思わず態勢を崩しそうになり、ちょうど傍にいた高梨にがしりと掴まってしまった。  高梨を背後から鷲掴みにするように、がっしりと。抱きしめた、なんて表現は生ぬるい。  びくりと体を震わせた高梨は、背後の荻窪の湿度を感じながら、ただ首を縦に振るしかなかった。 「すまなかった、わざとではないんだ。」  ぐ、と伸ばされた手から伝わる体の動き。暑いからと背広を脱いでくるんじゃなかったと、白いシャツ一枚の高梨はゴクリと喉を震わせた。  かちり。  ソケットに挿入されたコードから電気が供給されると同時に動きだす「扇風機」。  当然冷たい風ではないのだけれど、パタリパタリと扇子を仰ぐよりもずっと涼しさが増した。  汗を伝う首に当たる風。  すぅ、とそれが冷気に変わる。人ではないものが起こす風は思いの外広く波紋し、部屋の中に風を送り込んだ。  荻窪がゆっくりと高梨の身体から手を離し、身体を離す。そして、文机に向かって座ると、何事もなかったかのように扇風機の感想を述べた。 「ほう。これはなかなかすごいな。高梨くん、いいものを持ってきてくれたね。」  流れる汗が扇風機の風によって、冷やされていく。  先ほど感じた熱も汗も、何もかもを冷静にさせてくれるような、そんな風に荻窪は心から安堵した。  扇風機が巻き起こす風の通り道をなぞりながら、ほう、と息を吐く。  風は衣桁に掛かっている濃紺色の着物もばたばたと仰ぎ、まるで着物が暴れているかのように見せていた。 「ぼ、僕も座りますよ、先生。」  コホン、と小さな咳払いをして、高梨はいつもの場所にいつものように座る。  それはまるで、文机(ふづくえ)を背に座った荻窪と真っ向から向き合うような形になり、高梨は背中に先程感じた湿度を思い出して、じわりと首が熱くなった。高梨は所在なさげに熱くなった首に手を当てる。  ほんの僅かな時間、荻窪と高梨は向き合った。が、先にその視線を切ったのは荻窪だった。文机に向かって座り直す。  しかしその目は、先程の暑さでうだるような、凡庸(ぼんよう)とした目をしていなかった。  なにかを思いついた、そんな瞳の種類をしていた。そうなったら、荻窪は一段落終えるまで文机から離れることはなくなる。  いつも高梨が見つめる、物書きとしての荻窪の背中を見せるのだ。  そのたびに、高梨は「また始まったな」という期待と、話しかけてくれるという期待ができなくなることに、淋しさと嬉しさの両方を噛みしめることになる。  執筆中の荻窪の背中は、思いの外丸まってはおらずす、と伸びている。正した姿勢の先にある、いま高梨からは完全に死角になっている瞳にはなにが写っているんだろうか。  ***荻窪の怪談***  闇夜、月明かりも刺さぬ、指先すらも見えぬほどの闇夜。  明かりはどこにも灯らず、静かに闇だけが満ちていた。  その満ちた闇に包まれた部屋でこの家の主である男が一人、寝苦しそうに寝返りを打つ。  もそり、ごろり。  寝苦しい。  何度目か分からない寝返りを打ってから、彼はゆっくりと体を起こした。  枕元の上にある床の間に、何日か前に知人から譲り受けた掛け軸をかけてからだ。  つい、とそちらに目を送る。  闇夜だ。見えるはずがない、と思いながら視線を送ると、掛け軸に描かれていた後ろ姿の女の首がゆらりと傾いたように見えた。  そんなはずはない。  男は座り直した。改めて掛け軸を見ようと足を踏み出そうとしたとき、静かだったはずの部屋の中から奇妙な音がする。  きりきりきりきり、こりこりこりこり。  なんの音だ? と耳を澄ませてみても、そんな音を立てるものなどあるはずがない。  この掛け軸以外はいつもの部屋だ。  男は辺りを見回して、もう一度掛け軸に目を戻した、その時。  後ろ姿だったはずの女の首が、奇妙に歪んだ状態でこちらを見ていたのだ。  無表情で。

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