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第九章:其の一:見る影紅く、去り際白く
音楽というものが蓄音機やラヂオから聞くことができるようになったことで、市民の生活はこれまで以上に鮮やかになった、そんな時代。完全に和服ではなく洋服も取り入れられた装い、それぞれのおしゃれを楽しみながらも、時代の波に翻弄される、そんな頃のお話──。
そろそろ梅雨が始まるのだろうかと思うほどの湿度の高さ。梅雨のころは正直言ってとても寒い。はぁ、と吐く息が白くなる日もままある話。
荻窪(おぎくぼ)は湿度の高さとどこかひんやりとした空気をまといながら、廊下をのそりのそりと歩いていた。時のころは、もうすぐ夕方になるころか。
遠い通りからは「豆腐~豆腐~」と豆腐を売り歩く声が聞こえていた。
大きなあくびをひとつして、荻窪はその音に気が付いているのか、いないのか、なにかを探すようにうろうろしている。
ああ、ここにあったのか。と見つけた先は、台所からすぐの部屋である居間であり、探していたものは白猫のちびの、散歩用の牽き綱(ひきづな)だ。
いつぞや、担当編集者の高梨が遊び半分に散歩へ連れて行ってから、ちびはすっかり散歩の虜だ。
この寒いのに、しかも雨も降り出しそうだというのに、散歩へ連れて行けと耳元で「にゃあにゃあ」鳴かれてしまったのでは、連れて行かないわけにはいかないだろう。
やれやれ、余計なことを教え込んでくれたもんだ、と苦笑を浮かべた荻窪は、牽き綱(ひきづな)を片手に、いまかいまかと玄関で待機しているであろうちびのもとへと、ほんの少し急ぎ足で向かった。
「待たせたね、ちびや。」
男は玄関でりんと座っているちびの紅い首輪──これもかの白皙(はくせき)の美青年がちびに買い与えた──に牽き綱(ひきづな)を括りつける。
ちびは急に走ったりすることはなく、ゆったりと外の匂いを嗅ぎながら、景色を楽しんだりするのが好きなようだ。
荻窪は少し重みのある玄関の引き戸を開けると、空を見上げた。いますぐではないだろうが、今日の夜には雨が降りそうなくらいの重い雲。
ついでに近所の定食屋で夕飯でも買って帰ろうかと思いながら、荻窪はちびに軽く声をかけて歩き出した。
ちびは急ぐこともなく、とことこと荻窪の歩く速度に合わせて歩く。尻尾はぴんとしてゆらゆらと、とても楽しそうに。
時折草の匂いを嗅いだり、虫を追いかけたりはするものの、よく聞いていた虫をおもちゃにするとか、食べてしまうとかそういったことはまだ、したことがなかった。
「楽しいかい?」
ちびの牽き綱(ひきづな)は常に緩やかな弧を描き、お互いの距離が離れることはない。少しでもひっかかりを感じると、ちびは立ち止まって振り返り、荻窪を待つのだ。
「にゃっ。」
こっち、とでもいうように、ちびが鳴く。荻窪の考えてることが分かるのか、はたまた偶然か、ちびはいつもの定食屋の方角へと足を向けていた。
荻窪はその動きに一瞬感心するが、すぐにはたと気がつく。ちびはもしかすると、ごはんの匂いを嗅いで歩いているのかもしれないと。嗅ぎなれた匂いがするの方へと自然と足が向いているのかもしれなかった。
賢い子だな、と思うのと同時に、覚えることが楽しい、嬉しい、美味しいという嬉しいものにつながることでよかったと、荻窪は胸をなでおろしていた。
ぴんと立てたしっぽをゆらゆら振りながら、ちびが少し先を歩く。それをゆったりとした足取りで荻窪が追う。それは雨が降りそうな匂いがする中で、優しい時間の形でもあった。
ちびがふと止めた足の先、そこには荻窪が馴染みとして通う定食屋がある。いまの時刻は夕方から夜にかけて。その定食屋も開店中だ。
がらりと入り口の引き戸を開けると、店内は相変わらず賑わいを見せている。気風の良いおかみさんが切り盛りしている定食屋は、常に混み合っていた。それでいて、争いの起きない平和な空間。
荻窪は入り口から顔だけ出すと、店内で忙しく働いているおかみさんへと声をかけた。
「香世さん、こんにちは。夕飯を一人分……いや、二人分と猫一匹分、持ち帰りでお願いできるかい?」
香世と声をかけられたおかみさんが振り返ると、少しだけ驚いたように目を開き「ああ、先生か」と鼻で息をつく。
猫がいることも承知、だから店内には入ってこない。それくらいの常識は持ち合わせている男の、昔馴染でもあるのだ、香世は。
「はいよ、少し待っとくれ。」
香世は気軽にそう返事をすると、弁当箱におかずを詰め始めた。もちろん、傍らには猫用に味を付けずに焼く魚を用意して。
香世はいつぞや、誰かから聞いたことがあることを記憶の彼方から引きずり出して、猫のためのごはんも用意するのだった。
だが、魚を焼くことから始め、骨を取り除き、白米をおかゆのようにして与えられるようにするために、少し時間がかかる。
それでも外で待っている男はなにも言わずにただ、出来上がるのを待っているのだ。
「難儀なこった。」
思わずつぶやいてしまった香世は、小さな息を吐き出すと仕方がないね、というようにお弁当を二人分と猫用のお弁当をこしらえて、外で待っているであろう男のもとへと歩いていった。
がらりと扉を開けると、しとしとと降り出していた。
「ああ、香世さん、ありがとう。いや、雨が降ってきちゃってね。」
ははは、と困ったような笑いを漏らす。大きくてごつい手には、ちびを抱き上げていて。ともすれば羽織の中にしまいこんでしまいそうな勢いだった。
「なら、うちの傘を貸そうかい?」
香世がそう言い終わるか終わらないか。
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