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第八章:其の四:白く烟りて、足跡二つ

 ***荻窪の日常***  ちびの、ごろごろと喉を鳴らす声だけが響く。  高梨に撫でられているのか、それとも膝に乗って甘えているのかは分からない。  だが、この音を耳にしていると不思議と気持ちは落ち着いてくる。  後ろを振り返る勇気はまだ、なかった。  高梨に、どんな顔をしていいのか分からない。あんなふうにじくりと染み出す痛みの笑みを見せられてしまっては、荻窪とて茶化して返すこともできなかった。  ──なんとも不器用だ。  あの頃と何ら変わらない自分の心に、ため息が出る。  そんなため息に敏感に反応するのはもちろん、高梨だ。 「先生? 行き詰まりましたか?」  くすり、小さな笑いをこぼした。そうだ、と言えばいつもみたいに怒るだろうか、それとも違う反応をするのだろうか。 「あ……いや、ちびが喉を鳴らす音が聞こえたんだ。だからもしかしてまた、きみの膝に乗って甘えているのではないかと思ってね。」  万年筆を指先でくるりと回した。  ちびは甘えん坊だ、いつも荻窪が甘やかしているせいかもしれない。  この、小さくて白い生き物があまりにも可愛くて、たまらないというのは本当だ。 「かまいませんよ、ちびは軽いですし。僕の膝は気持ちがいいのでしょうかね? ──なんなら先生、試してみますか?」  そのひと言に驚いて振り返れば、高梨がしてやったり、という表情をしていた。  ああそうか、振り返らない自分に対して、少しだけからかいを含めた発言をしたら、振り返ることを知っていたのか。  荻窪は困ったように笑みを浮かべた。 「そんなことをしたら、私は朝まで起きないで寝てしまうが、原稿はいいのかな?」  からかいにはからかいで返す。  荻窪は低く笑った。  一瞬きょとんとした高梨も、赤くなった顔を片腕で隠して、そっぽを向く。 「早く原稿を書いてください!」 『からかわなければよかった』と顔にしっかりと書いてあり、荻窪はくつくつと笑った。  ***荻窪の怪談***  その冬はとくに雪が多かった。山は雪に囲まれ、冬眠しない動物たちは食べ物を求めてさまよった。飢えと寒さは人間も動物も公平に襲い掛かる。それなのに、遭難しそうになった男は生き残った。  その瞳だけが異様に赤くやや釣り目の女のおかげで、吹雪が収まってから無事に下山もできた。  だが。  その日から十日も経ったころだろうか。  男は知り合いであるとある猟師から、風変わりな話を聞くことになる。 「珍しいキツネを射止めたんだ。これは高く売れるぞ。なんたって全身真っ白な毛並みなんだからな。こんな珍しいキツネは初めて見たよ。」  そのキツネの話を聞いて、男はぞわりとした。  あの雪の日に助けてくれたのは、もしかして──。赤い瞳をしていなかったか、と聞く勇気はなかった。  キツネがどうして自分を助けてくれたのか分からない。  どこかで会ったことがあったのかも、分からない。  だが、あのどこか軽妙な女の様子はどうしても、猟師が射止めたというキツネと重なって仕方がなかった。  ああ、こんなことになるなんて──。ただ、男はそう思い、涙を流すしかなかったのだ。 『うふふ、帰るときはお気をつけてくださいな。』  鈴を転がすような笑い声、無邪気でかわいらしい声と何事なかったかのような、それ以上に楽しそうに下がった目じり、赤い瞳。  男はこの先、きっとこのキツネの存在を忘れることはないだろう。  ***荻窪の日常***  高梨は食後に渡された原稿を読みながら、静かに息を吐いた。 「先生、残酷ですね。」  最初に出た感想はそれだった。それ以外になかった。自然の節理と言ってしまえばそれまでだが、高梨の脳裏にはもしもこの知り合いの猟師に白い女が助けてくれた話をしていたら、そのキツネは助かったのではないか、と思えてしまう。 「それじゃ、高梨くんはなぜあのキツネは男を助けたんだと思うんだい?」  感情か、それともひとときの戯れのためか。  それとも、人間という存在の恐ろしさを知らなかったのか。 「無知は罪じゃない。だけどね、知ろうとしないのは罪なんだよ。」  高梨に視線をゆたりと向けた荻窪がそう、小さくつぶやいた。いつもなら高梨もここで引き下がっていただろう。だけど、今日は違った。 「でも先生、救えた道もあったでしょう?」  いつもよりも感情的になってしまう。それは荻窪の見えなかった部分が見えてしまったからなのか、ちびには見せる優しさをなぜ、この物語には活かせないのか。  いや、怪談だから優しさを出す必要はないのは分かっているのだけれど。それでも、どこかで引き下がれないでいる高梨に、荻窪はゆっくりと視線を向けた。 「救えたとして、だ。厳しい冬を乗り越えるだけの力があったかどうかは別だろう。」  いつも快活な高梨の眉が八の字に歪む。今日に限ってなぜか少し強情な高梨を、荻窪は少しいぶかしく見た。わずかに揺れる視線の先には座布団の上で丸くなって眠るちびの姿がある。  ──ああ、そういうことか。  荻窪はひとり納得すると、仕方がないように高梨の横に並んで座った。そして、そっと肩を抱くようにつかむと、ゆっくりと撫でる。 「すべてを助けることはできないんだ。でもね、救える命もあるんだよ、分かるだろう。」  ちびは荻窪に救われた命だ。  そしてとても大切にされている猫でもある。  高梨はそれらの違いを理解できるまで、ただ黙って荻窪に体を預けたまま、ゆっくりと息をついていた。  泣きそうで泣かない高梨の、少しだけ乱れた呼吸が落ち着くまで、荻窪は時間をかけてゆっくりと、そっと寄り添い続けた。  ──白く烟りて、足跡ふたつ。

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