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第八章:其の三:白く烟りて、足跡二つ

 ***荻窪の日常***  高梨はいままで、気が付かないふりをしていてくれたのだろう。その着物の存在を、その写真のない写真立てを。  時々遠くを見つめる荻窪を、そして、心ここにあらず、といった体で物思いに耽る自分を。  痛みの抱えた笑みはすぐに消え、す、と火鉢の前に腰を下ろす。 「先生、今月も原稿をよろしくお願いしますね。落とされちゃかないませんよ。」  軽口を叩いてみせた。荻窪の担当編集者という使い古された仮面を被り、歪(いびつ)な笑みを作ってみせた。  この瞬間まで荻窪は、高梨の心の奥底に澱(よど)んでいた想いに、あえて気づかぬふりをしてきた。しかし、隠しきれなくなった感情が溢れ出すかのように、荻窪の心域へと触れようとするその「手」の熱さが、今は痛いほどに伝わってくる。  ​荻窪はまだ、過去という名の「亡霊」に囚われたままだ。手放してはいけない重い記憶と、「自分は幸せになってはいけない」という呪い。それらすべてが、喉元まで出かかった言葉を、氷のように冷たく凍らせていく。 「あ、ああ……今月も、できるだけ締め切りを守るから、大丈夫だ。」  ​返したのは、あまりにも薄情な、上っ面の言葉だった。  それが高梨をどれほど追い詰め、削っていくかを知りながらも、荻窪は火鉢の灰をかき回すことしかできなかった。  文机に向かう荻窪の背中に、高梨の視線が刺さる。いつものように、だけど、いつもより深く。  まるで逃げ道を塞がれているような圧迫感に、荻窪は息を詰めた。  愛用の万年筆を手に取ると、いつものように手のひらで弄ぶ。そうしているうちに荻窪は物足りの中へと誘われていった。  ***荻窪の怪談***  男は断り切れず、その汁物が入った器を手にとった。じんわりと温かいそれは野菜となにかの肉が数切れ入っていて、日銭で生活する男にとってはあまりにも贅沢な汁物だ。  肉が入っている、ただ、それだけで魅力を感じて思わず、その汁を飲み干した。  じんわりとした熱さが喉を通り、胃へと降りていく。ああ、なんて美味しいんだろう。実感があとからじわりじわりと込み上がってきた。  ああ……自分は助かったのだ。  そんな安堵感がようやく押し寄せてきた。  安堵してからようやく、この女どころか、この空間がどこかおかしいことに気がついた。 「落ち着きましたか?」  くすくすと笑い声が聞こえてきそうなほど、楽しそうな声が耳元で響いた。よくよく見ればこの女、まつ毛も白い。  着ている着物も白い。色があるのは少し釣り目気味の赤い瞳だけだ。  なのに、この軽妙さ。気味が悪いと片づけるにはどこか軽すぎる──。

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