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第八章:其の二:白く烟りて、足跡二つ
***荻窪の日常***
手拭いと着替えを渡し、高梨をいつものように私室へと送る。濡れてしまった高梨の背広は、洗濯屋に出すか──、荻窪は衣紋掛に高梨の背広の上着を掛けながら、考え耽った。
「先生、僕、ご迷惑をかけるつもりじゃ……、」
源氏襖の向こうから、衣擦れの音とともに高梨の申し訳なさそうな声がする。襖をがりがりと引っ掻くちびが見えて、荻窪は無意識に源氏襖を少しだけ開けた。
「迷惑だなんて一度も思ったことはないから、安心しなさい。」
ちびが私室に入る姿を見届けてから視線を上げれば、そこには高梨が薄紺色の着物を身につけようとしている姿が遠目に映る。
「す、すまない! わざとではないんだ!」
薄闇に見える高梨の「日に焼けないんですよ」と言っていた白い肌が浮き上がって見えた。こちらには背中を向けていたため、背中にはうっすらと筋肉の動きまで、陰という形を使って如実に見えてしまう。
見てはならないものを見た、そう感じた荻窪は、慌てて手のひらで視界を覆い、背を向けた。
鼓動は信じられないほど早鐘を打ち、否定することができなくなりそうだ。
衣桁(いこう)に掛けられた濃紺色の着物に触れると、荻窪はどうしていいか分からないように、軽く掴む。
「すまない……。」
こぼした声はかすれていて、苦みが含まれていた。
痛くてたまらないのは心なのか、それとも過去の傷なのか。
すぅ、と源氏襖が開いたかと思うと、薄紺色の着物に着替えた高梨が姿を現した。
「ちびが入ってきたので驚きました、僕が襖を閉め切ったのでちびは困ったでしょうね。」
片手にはちびを抱いて、ははは、と乾いた笑いを洩らす。
「先生、この着物──先生のではありませんよね?」
高梨がつい、と袖口を摘んで荻窪を見上げた。
荻窪より白く細い腕を袖口から少しだけ、出してみせる。
ここしばらく視線が僅かに噛み合わなかった時間が続いてからか、急に真っ直ぐに見つめられて言葉が詰まった。
答えられないまま、高梨を見つめる荻窪の顔が歪む。
「大きさが違いますもんね。先生の着物なら僕には大きいはずだから。」
ちびを下ろすと、高梨は泣きそうな、困ったような、傷みを抱えた笑みを浮かべた。
***荻窪の怪談***
男がふと目を開けると、そこは雪の中ではなかった。ぱちぱちと木が燃える音、すぐそばに誰かがいる気配。かたりと小さな物音がして、そこがだれかの家の中だということを知る。
かさりと衣擦れの音がして、だれかが近づいてきて。
男の顔を覗き込むように上から白い顔をした女が姿を現した。顔の色も白ければ、髪も白い、しかし、うら若い女だった。その瞳は血のように赤く、しかし、決して不気味な風合いを醸してはいなかった。
「ああ、ようございました。気が付かれましたか。まさかこんな吹雪の中、外を出歩くなんて無鉄砲にもほどがありますゆえ、ね。」
ほっとした声色と、どこか笑いを含んだような声。その二つが交じり合う違和感を覚えつつも、男は夢でも見ているのでなければ、自分は命を救われたのだと理解した。
だが、あの山に人が住んでいたなんて聞いたことがない。
いや、知らないだけかもしれない。すべてが白く染まった世界の中で、方向を見誤り、いつもとは違う方向にきてしまったからだ。そう思うことにして、気持ちを落ち着けた男は頭の中によぎる一抹の不安を振り払った。
「まずは体が温まりますゆえ、こちらの汁物をお飲みくださいな。」
す、と差し出された手は、男が体を起こすために支える手だということに一瞬遅れて気が付いた。すまんな、と口の中でもごもごとつぶやきながらその手を握ると、なんとも、驚くほどに温かい。人間の体温よりもずっと温かいのだ。正直、どきりとした。温かくて柔らかなその手を握り、ゆっくりと体を起こした男は、ようやく、その小屋の全貌を見る。
粗末な小屋だ。
女がひとりで暮らすには少々心細いと感じるほど粗末な。
生活感もあまりなく、そもそもの物が少なすぎる。隙間風がありそうなのに、まるでなく、ぼろぼろの小屋なのに、険しい冬の嵐なのにもびくともしていない。
そしてなにより。
女の身なりがきれいすぎた。くすりと笑っていそうな口元を白い手と白い着物の袖口が覆い隠す。その着物や仕草などはどこぞの姫様のようにおしとやかで気品さえ感じるものがある。
「あんた……、」
なにものだ、と言おうとした男の前に、女は湯気の立った汁物を差し出してきた。ほら、まずはこれを飲め、とでもいうように。
「まずはその、冷えた体を温めたほうが良いでしょう?」
その声色にはやはり、どこか楽し気な音が含まれていた。
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