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第八章:其の一:白く烟りて、足跡二つ
異国情緒漂う建物が増えてきたような、そんな時代、町並みを楽しそうに行き交う女学生の矢絣(やがすり)の着物や見慣れぬ横文字のメニウを立てかけた洋食屋なんかが、ちょろちょろと顔を出し始めたそんな時代の話だ。
和洋折衷があふれ出した町並みの中、どどんと和風な屋敷と言うにはやや小振り、少し贅沢な家に住む荻窪(おぎくぼ)が、のそりと、外を見るためにちらりと布団の中から顔を出した。一緒に布団の中で眠っていた白猫のちびも、「起きるの?」とでも言いたげに顔を出してくる。
荻窪はまず障子を開けた。 冷えた板の廊下に思わずつま先立ちになって。ぶるりと思わず体を震わせた。
その奥にある硝子戸を引き、さらに外側の雨戸をほんの少しだけ開ける。
途端に、刺すような白い光が部屋へ流れ込んだ。
「んにゃん。」
背後から眠たそうなちびの鳴き声がして、荻窪ははたと振り返り、白猫のちびに声をかける。ちびは青い瞳を細めて、荻窪を見ていた。まるで、なにをしているの? とでもいうかのように。
「寒いから少し奥にお行きなさい。」
先程まで一緒に布団を温めていた仲間だったちびは、その一言を理解したのか、こてんと首をかしげながらも尻尾をぴんと立てたまま、部屋の奥へと歩いていく。
荻窪はそれを見届けてから雨戸を開けて、ぶるぶる震えながら硝子戸を閉めた。少しだけ外の様子が見えるように、障子だけはわずかに開けて改めて外の雪景色をしげしげと眺める。
外気温は完全に遮断することはできないが、少しは冷たい吐息も防げるだろう。
硝子戸の向こうは、一面の白。たった一晩でこんなに積もったのか、と思わせるほどの量だった。
あとで玄関前だけでも雪をかいておかないと。荻窪は面倒くさそうにため息をついた。
寒かったのはこのせいか、と荻窪は半纏(はんてん)に腕を通すといそいそと火鉢に火を入れに向かう。なにせ、本当に寒い。
昼少し前に起きたはずなのに、なんでこんなにも冷えるのかと思って外の様子を見た結果、大急ぎで暖房器具を付けに行く、という選択をした。
ぶるりと体を震わせて、火鉢の前で体を縮こませ、手を炙るように温める。
ほんのりと、ようやく温かみが戻ってきただろうか、かじかんでいた指が動きやすくなってきただろうかと、何度か指を握っては開いた。
ああ、指の感覚が戻ってきた、と感じ、朝の支度をしようかね、と立ち上がる。まずはちびに朝餉を作ってやって、自分は身なりを整えるか──と私室を見れば、いつの間にか癖になっている、僅かな隙間。
猫が出入りしやすいようにと、ぴたりと閉めることを止めた荻窪の記憶と、猫の世話の仕方を教えてくれた過去が不意に重なった。
それに気がついて、思わずため息が出る。あの時、猫を飼うなんて思いもしていなかったし、まさかこんなに鮮明に覚えているなんて思っていなかった。
ちびを世話していくに連れ、昔の記憶がそれは鮮やかに蘇ってくる。台所でちびに朝餉を与えながら、荻窪は遠い過去を見つめるように、目を細めた。
「……寒いね、ちびや。」
はくはくはく、と、ちびのごはんを食べる音だけが、ただ響く。
ちびが食べ終わるのを見届けた荻窪は、玄関前だけでも雪かきをしなければ、と居間から廊下へ抜けて、私室へと足を向けた。
外套(がいとう)を取りに行って、確か土間に藁靴(わらぐつ)を置いていたな、などと考える。
面倒だな、と思いつつも雪国ならでの毎年恒例行事にも慣れてはいた。
雪かきをするための準備も整い、さてそろそろ行くかと玄関に向かう。扉を開けようとしたその時に、外からの物音に気がついて、驚いて勢い良く扉を開けた。
「おはようございます、先生。雪、すごかったですね。」
高梨が荻窪の家の前の雪をかいてきた。
彼の外套は荻窪家の塀の上に掛けられており、雪かきという重労働のために、頬まで赤くなっている。
玄関前の狸の置物の雪帽子も、丁寧に払われてあった。
「きみは……っ、何をしてるんだ、まだ昼なんだぞ?」
驚きを隠せない荻窪が、言葉を詰まらせる。
高梨はそんな荻窪に、そうですね、とただそれだけを返した。いつもは真っ直ぐに視線を向けてくる高梨の視線が、僅かに逸れる。
荻窪は高梨の外套を塀から下ろすと自身の腕にかけた。
「ちゃんと出社してからの、外回りですよ。」
ざっ、とスコップで雪を掬う。門の内側に雪を投げる。その動作を何度か繰り返す高梨に、荻窪はそんなただ茫然とするしかなかった。
「ああ……その……、ありがとう、助かったよ。家に入りなさい。汗だくじゃないか、そのままでは風邪を引いてしまうから。」
スコップを置いた高梨の腕を掴む。
やはり、この前と同じように、高梨の身体がかすかに揺れる。拒絶なのか、動揺なのかは分からない。
荻窪はそんな高梨に気が付かないふりをして、家の中に引き入れた。
荻窪の家の中では、書斎が一番温かい。いつもそこには荻窪が鎮座して原稿を書き、ちびが微睡んでいるからだ。
書斎に押し込むと、荻窪は私室へと手拭いを取りに行く、ついでにいつものように着替えも持って。これももう、何度目になるのか。
高梨はいつも、天候が荒れると心配して顔を出しに来るから──。
すぅ、と源氏襖を開けると、所在なさげに座る高梨と、火鉢の横に添えられた座布団に丸まるちびの姿があった。
寝子とはよく言ったものだ、荻窪は小さく笑いをこぼした。
***荻窪の怪談***
真っ白な暴力が目の前の視界を攫っていく。耳に届くのは、殴り付けるような風の音、ばちばちと当たる雪の音。
寒いというよりは、痛みが強い。
ああ、こんな天気になるのなら出かけなければよかった。
男はそう独りごちた。
この男、つい先日、まだうら若い嫁を迎えたばかり。少しは楽をさせてやろうと、ひと山離れた町まで仕事を探しに行ったのだ。日雇いで何日か家を開ける予定でいた。
ようやくひと仕事終えたあとの懐は、いつもよりもずしりと重かった。
男はその重たさに、嫁がどんな反応をするのか楽しみで想像をふくらませる。そうしていれば、まだこの雪にも耐えられる。そう、思っていた。
だが、世界が白一面になったとき、完全に方向感覚を失う──そのことを男は幸せな生活を送る間に忘れてしまっていたのだ。
「ああ……、」
遭難。
この二文字が頭をよぎる。目の中に飛び込んでくる雪の塊がさらに視界を奪う。
だめかもしれない、自分は完全に判断を誤ったのだ、男は痛みとかじかむ手足を縮こませながら、雪の中に埋もれていった。
手足の感覚が徐々に薄れていく。もう、目を開けようとしてもその力さえない。
男はここまでか、と諦めにも似た心境で意識を手放した。
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