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第十章:其の一:淡く果てるや、燃ゆ心

 時代はまだ、戦争真っ只中──、誰が知るだろう、その尊い命が、名もなく霧散した、その行き先を。  涙と心の隙間をえぐるように、鋭い刃を突き立てて。  ほんのつい先程、自分の担当編集者である高梨を自身の家の風呂場へと送った荻窪は、こんなことをしていいのかといまもなお、気持ちにはまるで余裕がなかった。  いつもなら、「それじゃ、帰りますね」と明るい声を残して帰るはずの高梨が、今日は家に泊まると言ってきたのだから。  しかも私室に泊めろという。  何がしたいのかと問うつもりもないが、かと言ってなにかをするつもりなど毛頭ない。荻窪にはそんな度胸はなかった。誰かを傷つけるくらいなら、貝のように口を噤んで、海に沈んでいられたらいいのに。  だからこそ、高梨がどうしても泊まると言い張れば、その様子から察してしまう。なにか伝えたいことがあるのだろうということを。  そして荻窪は、この明朗活発な担当編集者を、自分の手から逃したくないのだと痛いほどに知っていた。自身の柔肌に食い込むかのようなその、強烈な存在。粗野で快活、自分とは正反対にいた純朴な高梨が、いまではなにかを伝えようとしているその姿を、どうして無下にできようものか。  自分にもまだ、そんな欲があったのか、とさえ驚く。すんでのところで今回もまた逃げてくれればいいのにな、と、希望を抱く。  その時硝子扉を一枚隔てた向こうから、小さな水音がぱしゃりと響いた。  荻窪はその音にはっとする。   いつまでも風呂場の前に立っていた自分自身に。   高梨が入浴中に風呂場の前に立ち続けるとはなんとも恥を知らない男だと思われても仕方ない。  荻窪は体を拭くための手拭いをそっと取りやすい位置に置くと、風呂場を後にした。  風呂の中には湯船からなかなか出るに出られず、顔を赤くした高梨が一人、そっと顔を両手で覆っていることなど知る由もなく。  ***荻窪の過去──親友の話***  焦げる匂い。  小銃の音、どこかで爆発するような、耳をつんざく破裂音。  湿り気を帯びた土の匂い、舞い立つ埃と汗臭さ。  怒号が切れ間なく飛び交う。  昼なのか夜なのかすら感覚は朧げで、すでに視界も怪しくなってきていた。  数人で掘り下げた穴に身を隠し、一体どれくらい時間が経ったのか。  手にした小銃と脇へ置いた銃剣が涙で滲んだ。  ──ああ、戦いとはこういうものなのだ。  男は溢れそうになる涙を手の甲で拭った。  記憶の中にいる愛しい人の姿を思い浮かべては、いままで戦ってきた。  かの人が落ち着いて暮らせる世界をと、そう望んだ。  だが、いまの自分はどうだろう。  血の匂いにえづき、想い人を脳裏に描いては震える指を整える。  男は震える手が握る小銃を掴み直した。  生きて帰るつもりだった。  笑って、帰ったぞ、そう言うつもりだった。  ──でも、できないかも知れない。

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