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第十四章:其の四:濡れる睫毛、淡く消ゆ
***荻窪の現在***
荻窪が語り終えたとき、部屋の中にはアオマツムシの声さえ届かぬような、濃密な静寂が満ちていた。
高梨は、自分が纏っている浴衣の裾(あわせ)を、指が白くなるほど強く握りしめている。
「……出せない答えを、抱えたまま。だから先生は、時を止めてしまったんですね。」
高梨の声は、夜風に解ける霧のように細かった。
顔を上げた彼の睫毛には、溜まりきった雫が街灯の光を吸って、真珠のように淡く光っている。それが頬を伝って落ちる直前、高梨は無理やり口角を吊り上げた。
「僕は、先生だけです。……たとえ、先生の瞳の奥に、僕ではない誰かの影が、先生の心に残っていても。」
その言葉は、愛の告白というよりは、決別を告げる引導のように荻窪の胸を貫いた。
「高梨くん。」
荻窪が伸ばした手は、高梨の頬に触れる直前で止まる。
高梨が静かにその手を、氷のような指先で押し戻したからだ。
「先生。僕は、雄二郎さんにはなれません。……そして、先生にとっての『青春』にも。」
高梨はそれでも涙を流さなかった。一度だけ閉じたまつ毛に濡れたような跡があったが、涙を流すことはしなかった。
「高梨くん、私の話を聞いてくれ──、」
荻窪がもう一度高梨の手を取ろうとして、今度は避けられてしまう。
「僕にも、僕にも時間が必要です、先生。」
そう言った高梨の眉は八の字に歪んだ。高梨からしてみれば、隠されていた真実を、一気に明かされたかのような気がするのだろう。
「それはどういう……、」
立ち上がりかけた荻窪を冷えた手で制すると、高梨は三度目、壊れそうな硝子細工のように微笑んだ。
「いまは、僕には先生の気持ちが分かりません。」
そう言うと、高梨は静かに立ち上がった。
「今日は帰ります、ごめんなさい。先生。」
いまここで、高梨を引き止めなければ、彼はこのまま戻ることはないのではないか、と思った。しかし、手を伸ばすことはできない。
高梨がそれを望んでいないからだ。
静かに居間から出ていくと、その足は書斎に向かった。間もなく、背広に着替えてきた高梨は、居間に突っ立っていた荻窪に、会釈する。
まるで、最後の別れのように。
「待ってくれ、高梨くん!」
荻窪が声を荒げて手を伸ばしたが、それはやはり、高梨によって躱されてしまう。
しかし、高梨はその荻窪の手を自ら握った。
「先生、僕のわがままを聞いてくれてありがとうございました。僕、先生のこの手が好きでした。」
そう言って、頬に当てた。
ほんの数瞬高梨の温もりを感じられた手は、すぐにまた離されて、そのまま背を向けられる。
さようならは、なかった。
頬に手のひらを当てたとき、高梨の瞳には水の膜が張っていた。もう少しで零れ落ちそうなほど、溢れそうになって。
濡れる睫毛を伏せ、無理に作った微笑みさえも消えたその背中は、夜の闇に吸い込まれるように淡く、おぼろげで。
荻窪には、彼がこのまま二度と捕まえられない幻影となって、消えてしまうような錯覚に襲われた。
手のひらに残る高梨の体温だけが、荻窪に残される。茫然としたまま、脚の力が抜けて気がつけば膝から崩折(くずお)れていた。
意識のないままぼたぼたと涙は頬を伝い、顎から床へとこぼれ落ちていく。
高梨を失うことがこんなに、こんなにも辛いことだとは荻窪は思いもしなかった。
行かないでくれ、そう、懇願することもできただろう。だが、荻窪はできなかった。
高梨の瞳に、自分が映っていなかったから。
震える両手で顔を覆う。
嗚咽が止まらない。
こんなにも、高梨に惹かれていたのだと、今更ながら気がついた。
「雄二郎、俺は、お前をそういう風に思っていなかったんだ、すまない。」
荻窪は、小さくそう、つぶやいた。
いまやっと、雄二郎に返事を返すことができた気がした。
──濡れる睫毛、淡く消ゆ。
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