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壱 計略(1)
悪路を馬で駆け抜ける。
水瓶をひっくり返したような大雨は、バラバラバラとすさまじい音を立てて竜秦 の皮製斗蓬 へ降り注ぎ、粘土質の悪路をさらにぬかるませていた。
すべてが滲んだ世界だ。
馬の息遣いは荒く、苦しそうに白い息を鼻から吐き続けている。この疾走がいつまでもつかは、分からなかった。
「速度を落とせ、竜秦。馬がもたん!」
背後から子遵 の鋭い声が響く。
竜秦は舌打ちし、少しだけ手綱を引いた。
それでもできるだけ早く村に着きたい気持ちは変わらない。前傾のまま馬を急かし続けた。
玄奘京から遠く離れた沌田村から一人の男が城内に現れたのは、夕刻近くであった。
夜通し走ってきたという男は、城下の大路もようやくの態で走ってきたのだろう。竜秦が見た時には、全身びしょ濡れで被服はぼろぼろ、髷もほどけ、足袋も草履もほつれて哀れを誘うほどだった。そのために足先は擦れて、血だらけだった。
そのいでたちに不審を抱いた門衛がとても城内に入れられないと判断したのも、無理はなかった。男は城門の前で無碍に引き止められた。
「我が邑に恐ろしい妖魔が出たのでございます!」
男は大声を出して、祓魔をその場で願い出たという。知らせを受けた竜秦は、話を聞きに子遵と共に城門へ降りた。当直で館内に残っていたからだ。
男の話によれば、頓田村に出没している妖魔は夢魔の一種だった。夜更けに邑へ現れては、寝入っている村人を操って殺し合いをさせる。その死人の肉を食らって滋養を得るという、悪質極まりない妖魔だった。
男自身も昨夜、妻と娘をそのために失っていた。
愛する家族が目の前で殺し合うさまを思い出したのか、話す間にもぼろぼろと泣き崩れた。
「一刻の猶予もならんな」
そう呟いた子遵に、竜秦は一も二もなく同意した。
祓魔は二人一組で行う。ゆえに子遵と共に出立した。それから何刻を走り続けたであろう。日は暮れ、視界の闇はどんどん深くなっていた。
涅槃木の林道ではところどころに根が飛び出し、馬を走らせても転んで怪我をさせないか、気が気ではない。
ようやくの思いで林を抜けても、今度はぬかるんだ畦道が続く。左右には田畑が申し訳ない程度にぽつぽつと点在するばかりだ。
雨がザンザンと打ちつけ、粘土質の土のあちこちに黒い水たまりができている。これもまた非常に馬を走らせにくい。それでも竜秦は最速力で馬を駆った。
やがて小さな集落が見えてきた。
出入り口と思われる柵の開口部には、「頓田村」と書かれた古い札が下げられている。鼻息を荒げている馬から降り、竜秦は手綱を引きつつ集落へと踏み入った。
粗末な家が並ぶ小村だ。悪天候と夜間のためか、村民は一人として表へ出ていない。
玄奘京へ報せに来た男の話では、寝入れば無意識に殺しあわなければならないことが分かっている彼らは、できるだけ眠らないようにお互いに励ましあっているという。
だが当然、それにも限界はあろう。睡魔に負けて眠った者から殺しあうのだ。まさに悪夢の始まりである。
妖魔の気配はすでにあった。不気味なその存在感はぬめるようにあたりに漂っている。
竜秦が確認するように目を向けると、子遵の視線とぶつかった。
子遵がしっかりと頷き返す。彼も妖魔の気配を感じとっているのだろう。
無数の雨粒が暴力的に降りしきる。家から漏れる灯りはぽうぽうと浮かびあがるだけでたよりにならず、視界はほとんど利かなかった。どこからいつ夢魔が出没するのか、見当がつかない。油断はできなかった。
不意に大きな悲鳴が聞こえた。
同時に、数軒先の戸口が乱暴に開かれる。
飛び出してきたのは寝間着姿の男だった。軒先の数歩でつまずいて、「ぎゃっ」と声をあげながら両手を地面につく。
男は立ち上がる余裕もなく振り返り、背後を仰いだ。全身を恐怖にわななかせながら後退りする。
続けて出てきたのは、緑色の炎のようなものを全身に纏った女だ。女は男と同年代で、二人は夫婦に見えた。
女の目は固く閉ざされていて、表情はしんと沈んでいる。包丁と思しき刃物を手に、一歩また一歩と、ゆっくりと男へと歩み寄っていた。
「目を覚ましてくれ!」
恐怖に叫ぶ男を無視して、女はさらに近づく。男の目の前まで来ると、躊躇う様子もなく刃物をふりあげた。
祓魔剣を抜くのは竜秦よりも子遵の方が早かった。
呪 と共にまばゆい閃光が放たれたかと思うと、女にまとわりついている緑の炎を真二つに斬る。
断末魔に似た鋭い悲鳴を女があげると、薄緑の不気味な炎はゆらりとたちのぼって霧消する。妖魔から解放された女は、全身から脱力したかのように地面へと倒れ落ちた。
男は尻もちをついたまま、何が起こったのかわからないような当惑の表情を浮かべている。突然現れた竜秦達を見上げるまなざしにすら、まだ恐怖の色が残っていた。
「あ————…」
声すらまともに出てこない男に、竜秦は声をかけた。
「我々は都の祓魔師だ。この邑に妖魔が出るとの通報を受けて駆け付けた。彼女にとりついていた妖魔は死んだので安心していい」
男はおそるおそる女に近づいて様子をうかがう。女は土砂降りの雨の中、泥まみれになりながらも穏やかな寝息をたてていた。
男が女の手をとる。
「妻は、死ぬのでしょうか?」
彼女を亡くしたくないという思いが伝わってくる、切々とした響きだった。
竜秦は男に答えた。
「気を失っているだけだ。目覚めれば、いつもの彼女に戻っている」
「そうですか……」
ホッと吐息した男から緊張が抜ける。
男はまだ小刻みに震えていた。腰をぬかしたらしく、立てないと言う。竜秦は肩を貸して男の立ち上がるのを助け、子遵には女を屋内に運ぶよう命じた。
男を框に座らせる間に、子遵が女を板の間の布団に横たえた。
「助けてくださり、ありがとうございます」
深々と頭を下げられ、竜秦は首を横に振った。
「仕事だ。礼など言う必要はない」
とはいえ、本当の祓魔はこれからだった。あまりのんびりもしていられない。
子遵と共に表に出た。村落の奥にあるこんもりとした丘から、残りの妖魔の気配が色濃く漂ってくる。
「あっちか」
「ああ。斬ってみた限り、夢魔としてはかなり強力だった」
「油断は禁物というわけか」
村落を抜け、再び騎乗した。
丘はそう離れていない。石ころだらけの痩せた土地にところどころ逞しい涅槃木が育ち、大きな枝に葉を広げている。その合間を縫って坂道を登っていくと、不意にゾッとするような悪寒に襲われた。
「——止まれ、竜秦」
子遵に言われるまでもなく、馬の足はすくんで動けなくなっていた。
馬を降りた。
六体か、七体か。
妖魔はいずれも涅槃木の上にいる。
あたりは暗闇だった。
土砂降りの雨に打ち付けられている黒い葉陰から、薄緑色の炎がちらちらと見える。
ここが夢魔たちの根城なのだ。この丘に棲みついて、気まぐれに頓田村へ降りては狼藉を働いているのだろう。
「ヒ…、ヒ…、ヒ…」
気味の悪い声が耳に届く。金属の磨れるような不快な音だった。
竜秦の前に一体が躍り出た。
猿に似た胴体に、蛙の頭部。全身の大きさはほぼ人間と同じだ。
竜秦の首を狙って前足を振る。指先にある爪は鎌のように鋭い。当たれば頸動脈ごと肉を引き裂かれるだろう。
祓魔剣を抜き、呪を唱えた。一刀で前足を振り払い、返す刃で妖魔の胴体を真二つに斬った。
斬った途端、まるで祓った夢魔が背中にのしかかったかのように、上半身がガクンと重くなった。
思いがけない衝撃を食らった竜秦は半ば驚きながら膝を落とす。腕が震え、剣を落としそうになった。
子運の言っていたように、この夢魔は強力なのだ。しかも竜秦が想像した以上に。
竜秦は顔をしかめ、舌打ちした。
二体目が視界に入る。
子遵が竜秦の前に躍り出て斬る。
すぐさま二体が一斉に子遵へ襲いかかる。いくら子遵でも分が悪いが、助太刀に立とうにも竜秦の足はまだ力を込めることができなかった。
真横から一体に襲われ、慌てて呪を唱えた。
刃がいなせたのは指先だけだった。すぐさま、もう片方の鈎爪が竜秦へと襲い掛かってくる。
(くそっ、殺られる!)
そう感じた瞬間、子遵の祓魔剣が妖魔を斬った。他の一体が子遵の首から肩にかけて切りつける。子遵の首元から鮮血が吹き出した。
「子遵っ」
焦った竜秦の口から悲鳴が漏れた。
それでも子遵は動き続ける。結局、その一体と最後の一体は子遵が祓った。
竜秦は一体のみの祓魔に終わった。子遵は五体だ。邑で一体を祓っているので、計六体を退治したことになる。
戦いが終わった時、竜秦はまだ立つことができなかった。雨の中で地べたへと両手をつき、へたり込んで、上体を支えているのがやっとだった。
「肩を貸そう」
子遵が竜秦の肩を抱こうとする。竜秦はその腕を押しのけ、きつく顔をしかめた。
「お前も怪我をしているのに」
「見た目ほど、深い傷じゃないよ」
子遵は優しく笑う。
こういう子遵を見ると、強さとは優しさなのだと思い知らされる。いつも、悔しいほどに実感させられる。自分には無いものだと。
子遵の手を借りてようやくのように騎乗し、朦朧としそうな意識の中でなんとか手綱を捌く。
祓魔終了の知らせをするために邑長 の家に寄らなければならなかった。
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