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壱 計略(2)

 板目模様の天井が視界に入った。初めて見る天井だった。  見知らぬ部屋で、慣れない布団に寝かされている。  横には小ぶりな囲炉裏があって、開いたばかりの目にはその火の赤色が眩しい。ぼやけた視界の焦点をなんとかあわせると、囲炉裏の角をはさんで子遵が座っていた。 「目が覚めたんだな。具合はどうだ」  気付いた子遵が、ほほえんで訊ねてくる。  外からは騒々しい水音が届く。まだ雨が降っているのだ。  ゆっくりと起き上がった。  頭が重く、こめかみに少しばかり痛みがさす。見渡せば、そう広くない板の間だった。左にある框の下に土間が続き、数種の瓶と小ぶりな竈が設えられている。瓶の上には竜秦と子遵の斗蓬(マント)が丁寧に広げて干されていた。 「ここは⋯」 「邑長の家だ」  あっさりとした返答を受け、竜秦は呆気にとられた。  続いた子遵の説明によれば、祓魔終了の報告に邑へ寄った時には、竜秦は馬上で気を失っていたらしい。さらに子遵の怪我にも気付いた邑長が、ここに滞在して疲れをとるように強く勧めてくれたのだ。当の邑長と妻は、さんざん子遵に礼を言ってから、数軒先に住んでいる息子の家へと出かけて行った。おそらく、休息をとる竜秦と子遵が気を使わないように配慮したのだろう。 「ありがたく寄らせてもらった」  軽い調子で伝えるので、竜秦は眉をひそめた。 「遠慮するべきだったな。こんな迷惑をかけて…」  とはいえ、子遵の怪我の原因も、騎乗で気を失ったのも、自分だ。すべては己の力不足だと思うと、苦いものが胸の中に広がる。 「この雨だ。俺も正直、助かった」  子遵の口調には相変わらず悪びれる様子がない。確かに事実でもあった。仕方がないな⋯と、竜秦は溜め息をついた。  子遵は首元に布をあてている。その下の祓魔装束は少なからぬ血に染まっていた。 「出血はどうだ」 「収まりかけてる」  子遵がそう答えるなら、出血はまだかなり続いているのだろう。 「見せてみろ。化膿してるかも確認してやる」  重い体を引きずるようにして、子遵の傍に寄った。 「自分では包帯ができなくてさ…」  子遵が上半身の装束を脱ぐ。  筋肉の張り出た逞しい肉体が囲炉裏の炎に照らされ、滑らかな皮膚がちろちろと紅く輝いた。  喉元から鎖骨の上部にかけて、三寸ほど斬られている。重い物で撃たれて裂けたような深い割創だった。場所が場所なだけに、確かに包帯を巻きつけにくい場所だった。 「化膿はしていないな。念のために軟膏を塗ろう」  祓魔に怪我は付き物だ。妖魔も実態を伴えば清潔ではなく、攻撃された際に受けた傷が化膿する恐れもある。そのため、予防のための軟膏は常備していた。 「竜秦と一緒に仕事すると、こういうオマケがあるから嬉しいんだよな」  腰袋から軟膏を取り出して子遵の傷口に塗りつけようとすると、子遵がそんな軽口を叩く。 「アホらしいことを抜かすな」  軽くいなして乱暴に塗り込めた。 「うっ、痛っ、痛いなあ。——痛いよ、薬師さん。もう少し優しく塗ってください」  嬉しそうな顔をわざとらしく歪めながら、ふざけたように言う。 「黙れ。誰が薬師だ」  くだらないウソ泣きに呆れた竜秦は、塗り込める指に力を加えた。 「ひゃっ、あたたたたた…!」  顔をしかめ、今度は本気で痛がる。  腰帯の一つを包帯にして、傷口を押さえるように巻いてやった。作業をしている間、視界に入る子遵の肉体に竜秦は正直、感心した。子遵とは長らく婚約関係にあるが、裸体を目にすることはめったにない。 (いい身体をしているな)  逞しいだろうと想像はしていたが、現実に目の当たりにすると、あまりの猛々しさに奇妙な胸騒ぎすら覚える。  竜秦も祓魔師をしている以上、それなりに作り込んだ肉体をしている自覚はあるが、胸板の厚みや強靭さをうかがわせる筋肉の隆起は、子遵と比べ物にならない。  お互いに同じような傷も持っている。だが竜秦のそれが失敗と弱さの象徴であるならば、子遵のそれは強さゆえの勲章だ。  そこまで考えて、竜秦は唇をかみしめたくなるのをなんとか堪えた。この複雑極まりない劣等感を子遵に覚られたくない。  こういうときには、どうしてもこの男が元アルファで、そして己が元オメガであることを意識せずにはいられなくなる。竜秦が寝かされていた布団の横に並べられている布団も、そんな奇妙な感情を助長させる。今夜、子遵と並んで寝るのだと考えるだけで、落ち着かない気分になるのだ。そんな自分がむしょうに気持ち悪く思えた。  自分の中には、あの汚らわしいオメガの血が流れている。 (いつ何時、その血が暴れて元アルファの子遵を誘惑するとも限らない)  万が一にもそんなことは起こらないのだと分かっていても、元オメガである事実が竜秦を憂鬱にさせるのだった。  元恋人の完綬と同衾していた頃には、こんな気分にならなかった。彼が生粋のベータだったからかもしれない。 「顔が赤いな。熱でも出たんじゃないか?」  額に手を添えられたので、乱暴に振り払った。 「子供じゃないんだ。気安く触るな。布団の中が熱かったから逆上(のぼ)せただけだ」  竜秦の突っかかりに怒る様子も見せず、子遵は鷹揚に喉を鳴らす。 「相変わらず俺の婚約者殿はつれないな。大丈夫、俺はこんな怪我だし、竜秦の体力が弱っている時に襲ったりはしないよ」  内心を見破られていたことを知り、さらに頬が熱くなった。 「何が、大丈夫だ。心配なんかしておらん!」  強がりばかり。  虚勢と侮言。  そんなもので誤魔化している弱い精神と脆い肉体。むしろ、だからこそ子遵には意地を張るしかないのかもしれなかった。 「俺も心配はしてない。お前は俺だけのオメガなんだから、お前を抱けるのも時間の問題というわけで⋯」  いつもの軽口を振りかけられて、カッとなった。包帯を巻いたばかりの肩を思いきり平手で張ってやる。 「痛った……!」  本気で痛がっているのか、子遵は手を当てて屈みこむ。痛みに震えているその背中に怒鳴りつけた。 「冗談はよせと言っているだろう! 俺はオメガじゃない! 何度言えば分かる! 貴様と同じベータだ! 馬鹿にするな!」  痛みに耐えた苦い顔を上げ、子遵が竜秦へと笑いかける。頼むから、もうそんな顔を見せるなと、内心で懇願した。 「馬鹿にしてない。でも、竜秦はやっぱりオメガだよ。俺だけのオメガだ。俺はいつか必ず、竜秦を連れて来暁に戻る…」 「殴るぞ。その話にはうんざりだ」  そんな夢物語で、イライラさせられるのは。  自分が子遵との結婚を先延ばしにしているのは、こうして子遵が自分をことさらに「オメガ扱い」して、ばかばかしいほど甘い科白を振りかけてくるからだ。 「俺は、もう寝る」  憤然として横を離れようとすると、子遵が竜秦の腕を掴む。 「怒らせたなら、ごめん。でも俺は、お前に希望を持っていてほしいんだ」  ひどく真面目な声。  真剣なまなざしに包まれた。だから、お前からの希望などいらない⋯⋯そう思った竜秦は、あえて一笑に付す。 「妄想の間違いだろ?」  せせら笑うと、さすがに嫌味が効いたのか、子遵は口がきけなくなった子供のように唇を引き結ぶ。竜秦はあからさまに毒づき、唇の端をめくった。 「おい。そっちから喧嘩を売ったくせに、一丁前に傷ついた顔をするなよ」  辛辣な皮肉を足すと、子遵は目を伏せて「喧嘩じゃない」とポツリと言う。 「お前が大事なだけだ」  大柄な背を丸める。こんな子遵を見ていると、子供の頃の彼が思い出されて困る。  面白くもない、養慈院での記憶だった。  食事の時間、毎日のように竜秦の前に座ってきた小柄な少年。それが子遵だった。  一匙、粥を口に入れては、咀嚼しながら視線を竜秦に向けてくる。その丸い目から送られてくる視線が鬱陶しくてたまらなくて、竜秦はわざと冷たい態度をして目をそらしていた。  もしかしたら子遵は竜秦から何某(なにがし)かの声掛けを待っていたのかもしれないが、竜秦は徹底して無視した。こっそりと反応を確かめたこともあったが、子遵は泣き出しそうな顔をして竜秦を見つめていた。  竜秦の冷たさに、あの頃の子遵は健気なほど耐えていた。  四年歳下の彼は、それでもなぜか竜秦の後をよくついてきた。  ちょこまかと付きまとわれるのが迷惑で、竜秦はそんな子遵をぞんざいに扱った。 「ついてくるな!」 「あっちへ行け!」  竜秦が怒鳴ると、子遵は気まずそうな顔をするだけで、どんなに邪険にされても竜秦から離れようとしなかった。今から考えれば、まだ五、六歳だった子遵には気の毒だったかもしれないが、好きでもない年下に愛想を振りまいてやれるほど、竜秦には余裕がなかったのだ。それは今でも変わらないのだろう。  囲炉裏にジュッと新たな炎が興り、子遵の穏やかに結ばれている唇と精悍な顔が薄暗い部屋に赤く浮かび上がる。  この灰白色の髪が燃え立つような赫ならば、さぞや立派なアルファに見えることだろうと竜秦は考えた。  そうだ。  子遵は確かに元アルファの素質がある。中でも特に優秀なアルファに違いない。  今回の祓魔でも子遵との力量差は歴然だった。  悔しいというよりは、諦念。どんな努力もその圧倒的な力の前ではなんの足しにもならないという、劣等感に近い感覚だった。 「お前に知らせたいことがあったんだ」  急に、子遵の口調が変わった。 「なんだ」  傲然としたまま竜秦は問いかけた。 「この夏から呪言師になることが決まった」  まるでたいした事のないような、さらりとした言い方だったが、竜秦は聞き違えたかと思うくらいに仰天した。 「昇進試験に受かったのか?」 「ああ」  平然とした顔で頷く。これもまた、竜秦にはにわかに信じがたいことだった。 「幸運だったよな」  幸運どころの話ではないだろう、異例中の異例だ。  竜秦は茫然としたまま子遵を見た。奇才を目にしている気分だ。いや、子遵は実際に奇才なのかもしれない。  竜秦のまなざしを不可解に感じたのか、子遵は少しだけ首を傾げる。  呪言師への昇格試験は、志望する祓魔師だけが受験することを許され、今年のそれは三か月前に行われた。祓魔師より強力な呪術や祈祷を行う呪言師は、祓魔師の高位職にあたる。祓魔師を対象とした一年に一度の昇進試験にはほとんどの祓魔師が受験するが、実際に合格する者は数年に一人とされるほどの難関だ。竜秦は当たり前のごとく毎回落ちている。  子遵が受験したのは今回が初めてだったはずだが、あの試験に一発で合格するとは、快挙どころの話ではなく奇跡に近い。 「他の者には、まだ伝えていない。お前に真っ先に知らせたいと思ってさ」  晴れやかに言う。こんな特別扱いを受ける理由はむろん、自分が子遵の婚約者だからだろう。 「すごいな」  思わず、心からの感嘆が出た。  それでも複雑な気分だった。  自分は一生かかっても呪言師になどなれない。同種化を受けて同じベータになっても、元アルファたちと元オメガの力量差——術の巧拙ではなく「押し切る底力」とでも呼ぶべきものだ——は、いつだって歴然なのだから。  元オメガで線の細いままの竜秦は、祓魔師としてさえ異質だった。寝ずに勉強した学科試験でなったと言っても過言ではなかった。  元アルファたちでさえ手を焼く呪言師への昇格試験を一発で突破した子遵は、元アルファ云々というよりもきわめて個人的な能力が高いと言っていいだろう。 (俺は、一生かかっても子遵に勝てないんだな)  そんな諦めが臓腑を痺れさせる。 「呪言師になればもっと忙しくなるだろう。忙しすぎて俺のことなんて忘れるだろうな。まあ、俺としては清々するが」  卑屈に聞こえないようわざと明るくふるまうと、子遵は眉を顰め、真面目くさった顔をする。 「お前のことを俺が忘れるわけない」  深い藍色の双眸が、言葉以上にはっきりと誠意を伝えてくる。 「お前は、俺の特別なんだ。いっときだって忘れない」  心へとまっすぐに届く想い。  こういう時、ただ胸の中を掻き乱されるだけで、どう反応したらいいのかわからない。 「忘れないでくれ。俺はお前のアルファだし、お前は俺のオメガだよ。俺の、運命のオメガだ」  運命————。  毛穴という毛穴が、総毛立った。  あるいは、子遵がこういうくだらない科白を吐くような男ではなかったら、自分はとっくにこの男の元に嫁いでいたかもしれない。なぜ子遵はこの手の言葉で自分を愚弄するのか。 「やめろと言っているだろう!」  憤慨する竜秦を子遵は口角を上げて見つめる。その眼光は、思いのほか強い。 「待っていろ、竜秦」 「何をだ!」  偉そうに、急に何を言い出すのかと、さらに腹がたった。 「俺を、だ」  大人びたまなざしに力が込められて、竜秦の心臓が勝手に跳ねた。 「俺が迎えに行く時まで、待っていてくれ」 「——どういう意味だ…」  訳が分からずに低く唸った。  突然、前かがみになった子遵の唇が耳に触れて、熱い吐息がかかる。竜秦がぎょっとしたのも、束の間。 「お前と逃げるためだ。そのための呪言だ。この国からお前と逃げて、アルファとオメガに戻る」  耳元で囁かれた。完全な不意打ちだった。 「…………っ!」  血液が逆流し、鼓動が暴れ、全身が汗ばむ。 「ふざけるな…! 何、夢みたいなことを————!」  非難の言葉はかすれ。  子遵を睨めつける目の奥が痛む。 「夢じゃない。俺が実現してみせる」  確たる意思が伝わってくる、したたかな響きのする声だった。

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