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壱 計略(3)
朝、呪言部の控室へ出仕した子遵は突然の指名を受けた。ごく個人的な相談だと申し出ている来訪者は、仏僧の格好をした一人の男だという。
呪言師になりたての自分などを指名してくるなど酔狂な仏僧もいるものだ。そう怪訝に感じたが、何か考えがあってのことかもしれないと思い直して、子遵は引き受けた。
応接室には訪問者よりも先に着いた。
締めきっているせいか、応接室内は空気が淀んでいてなんとなく黴臭い。換気のために蔀戸を開けると、この数日晴天が続いていたためか、入ってきた風は思いのほか爽やかで快かった。気温も初秋らしい清々しさだった。
中庭を眺めながら来訪者を待った。
中央の池のでは、雀が集って繊細な鳴き声を響かせている。軒先では甘い芳香を漂わせている銀木犀が今を盛りと咲き綻んでいて、子遵を甘酸っぱく和ませてくれた。
銀木犀は、土壌の貧しい剏覇国でも美しい花をつけてくれる貴重な植物の一つだ。そのため育ちやすい南方地方で好んで植えられている。白い花が持つ独特の淑やかさに子遵も常々、心を癒されていた。
真冬にも葉を落とさないこの常緑樹は、子遵にある人を思い出させる。
銀木犀が佳花の一種で、九里先までもその香りが届くという意味から「九里花」との異名を持つことを子遵に教えてくれたのは、その人だった。
(しばらく、会えていないな)
不意に冷たい風が胸中に興った心持ちがして、子遵は小さく吐息する。
このひと月、会話どころかすれ違うことすらできなかった。子遵が呪言師になったために祓魔部の官舎を出たことが大きかった。
いつだったか、竜秦が予想したとおりに呪言師は祓魔師以上に多忙だ。特に昇格したての子遵は地方への出張を命じられることも多く、学ばねばならないことも膨大だった。
(竜秦————)
それでも、いくら離れていようとも、竜秦への強い想いは変わらない。
頭の片隅では絶えず彼の面影が思い浮かんでいた。心のほとんどを占めているのも竜秦の存在だった。
いつか充分な力が自分についたなら、彼を生まれ故郷の来暁国に連れていってやりたい。その気持ちにも変わりはない。そして、もしその時に竜秦が望むならアルファとオメガに戻りたい。
子遵がそう言うたびに怒り狂っていた竜秦だが、本当は、彼の心の中にも同じような願望があるように思えてならなかった。ただ素直に認めたくないだけなのだ。それは養慈院の偏った教育のせいでもあるのだが————。
竜秦は子遵が誰よりも愛している初恋の相手である。幸運にも国から正式に婚約者として選ばれた人でもあった。
気付いたときには、竜秦は幼い子遵の目の前にいて子遵の心を惹きつけた。
よくできた人形のように怜悧な顔だちで、溜め息が出るほどに美しかった。
整った美貌はめったに笑わず、笑ったとしてもひどく控えめで寂しげだった。すらりと長い手足にも、均整の取れた痩躯にも、近寄りがたい峻厳さがあった。その峻厳さにも、堅く引き結んだ神経質そうな唇にも、人を寄せ付けない冷淡な態度にさえ、子遵は恋をした。
本当の彼が温かみのある人であることも子遵は熟知していた。
養慈院で暮らしていた頃、子遵が熱を出したと知れば自身の食事から抜いてまで冷たい野菜を差し入れてくれた。子供の頃に病弱だった子遵は寝込むことも多かったが、暇を持て余す子遵の枕元で奇伝を読んでくれたことも一度や二度ではない。そんなことをしてくれたのは後にも先にも竜秦だけだった。
竜秦は、兎のように臆病で、猫のように怖がりだ。だから時として攻撃的な言動をしてしまう。それも子遵はよく知っていた。
生きづらいに違いない。
その生きづらさを補う者でありたいとずっと願ってきた。
いつでも目で追った。
体でも追いかけた。
どんなに邪険にされても、迷惑がられても、彼から離れる気などとうてい起きなかった。それほどに子遵は竜秦にぞっこんだったのだ。その気持ちは今でも変わらない。
扉が叩かれ、続けて入室許可を問う声が聞こえた。
子遵は銀木犀から視線を外し、最愛の人に馳せていた意識を現実へと引き戻した。
「どうぞ」
子遵の返答で扉が開かれ、案内役の女官が頭を下げる。
続いて頭髪をそり上げ、頬のやつれた仏僧が入ってきた。
案内役の女官が退出したのと同時に、仏僧は子遵に向かって深々と腰を折る。それから頭を上げると、少しばかりほほえんでからなめらかな声で子遵に話しかけた。
「お初にお目にかかります。拙僧は瀟海雨 、兼臨県加布寺に在籍し、各地を回って托鉢をしている者でございます。本日は、ある方からの言伝をあなた様に預かってまいりましたゆえ、罷り越しました。お目通りかない恐悦至極に存じます。今一度、あなた様のお名前が澗子遵様であることを確認してよろしいでしょうか?」
かなり丁重な挨拶である。子遵は頷いて答えた。
「はい。私が澗子遵で間違いございません」
来客用の椅子を勧めた。瀟と向かい合う形で子遵も腰掛け、それとなく相手を検分する。
年齢は四十歳前後。
眸は漆黒、痩せた体つきの、さほど背の高くない男だ。薄墨色の肌から察するに第二性はベータ。たぶん生粋のベータだ。左手に黒い数珠を、右手に払子を携帯している。服装は質素で、黒い僧服の上に経文の刺繍が施された鼈甲色の袈裟を掛けている。この刺繡は修行の一環として僧本人が行うものだ。多量のその文字を見ただけで、彼がどれほど敬虔な仏僧なのかが分かる。
「ある方からの言伝とはどなたからの、どのようなご要件でしょうか?」
それが相談内容かと思い、本題に入ろうとすると、瀟は不意に不安げなまなざしで部屋を見回す。その意図を推し量った子遵は、相手を安心させようと口角を上げた。
「心配はご無用です。立ち聞きする者など、ここにはおりません」
「しかし、窓が開いておりまする…」
瀟はおずおずとした様子で答える。そうとう周囲を気にしているのだ。
「——分かりました。閉めましょう」
気持ちを汲んだ子遵は蔀戸を締めた。室内が暗くなり、数本の蝋燭による灯りだけの明度となった。
「ありがとうございます」
「いいえ」
再び卓子に着き、子遵は瀟と向かい合った。
真面目な顔のままで子遵を見つめ返した瀟は、ゆっくりと口を開く。
「憚りながら拙僧、来暁国の桃花山にある蓮華寺の拿 上人とは、二十年来のお付き合いがございます」
突然、心当たりのある名前を出され、子遵はひどく狼狽した。
もっとも隠す術は心得ている。表情を変えずに、「そうですか」と軽く相槌をうつとそのまま続きを待った。瀟は訥々と続けた。
「この春のことです…。拙僧は拿上人より、相談があるからぜひ来てほしいとの手紙を受け取りました。かつての親交を深めたくもあった拙僧は、喜び勇んで来暁国に入り、蓮華寺を訪れました。拿上人はお元気でいらっしゃいました。是非にとのお声掛けに従い、私はしばらく蓮華寺に滞在いたしました。そしてかの方といろいろとお話した折————きわめて興味深いお話を、伺うことになったのです。そして改めて拿上人より、あなた様に言伝をお預かりしてきた次第です」
子遵の胸中は騒ぎたった。
来暁国の桃花山蓮華寺。
霊験あらたかなその小寺の名は高僧拿螺清 の名と共に、隣国剏覇の玄奘京でも巷説にのぼるほど高名だった。拿の謙虚な性格も、もっぱらの噂だった。どの勢力にも与せず公正中立を保っていることでも有名だった。
そんな拿の人物像を信頼し、子遵はかつて一度だけ助けを乞うたことがある。実際、拿は子遵の期待以上に誠実にそれを行ってくれた。
彼には感謝してもしきれないが、よりにもよってここで彼の名を聞くことになろうとは。
子遵は目の前にいる仏僧に対する警戒を強め、軽はずみな言動をしないように気を付けた。
黙りこくる子遵の様子をどう解釈したか、瀟は気にするふうもなく、ややのんびりとした口調のまま驚くようなことを言う。
「拿上人がおっしゃいましたことには、『蝶は無事に子を孵し、ほどなく所縁 の者と番いし候』————。これを是非、あなた様へお伝えするようにと申し付かってまいりました」
不意に口を閉ざした瀟は、彼もまた表情をさほど変えずに子遵を見つめる。緊張を含んだ時間が二人の間に落とされた。
子遵はまだ反応に迷っていた。瀟の正体が分からないからだ。
敵か、味方か。
拿上人からの言伝にある「蝶」とは、おそらく自分が逃がした黄容蝶 のことだろう。
黄容蝶は一昨年の秋ごろ、竜秦が馮の手先となって、来暁国の朱雀京から連れ出した機織り師である。咲きほころんだ山梔子 をとろりと溶かしたような、艶のある淑やかな雰囲気と水際立った美貌を持つオメガだった。
黄容蝶はあの折、竜秦に脅され、親善大使として剏覇国に入国していた来暁国の将軍、高秀英の子を孕んだ。ゆえに言伝の中の「所縁の者」とは高将軍と考えて間違いない。
黄容蝶は子遵が牢から救い出した。竜秦の罪をあれ以上、増やしたくなかったからだ。
黄を親友の手に託し、来暁国へと送り返した。その際に来暁国での黄の世話を頼んだのが、桃花山蓮華寺の拿和尚だったのだ。
その黄が無事に子を産んで高将軍と番うことができたのだという。これ以上にないほどめでたい報せだろう。
(本当なら、な)
実のところ、完全にこの男を信頼できるとは考えていない。そもそも証拠がない。仏僧の格好をしているというだけである。拿和尚と付き合いが長いという話も、言伝なるもののも、どこまで信用してよいものかしれなかった。
ゆえに迷った。
なんのことかと、とぼけるべきか。
それは良かったと、喜ぶべきか。
ただ子遵としては、ひょっこりと現れた男の話をそのまま真に受けられるほど、能天気ではいられないだけだ。これがもし誰かの仕組んだ罠だったとしたら、ここで喜べば、自分があの時に黄容蝶を逃がした真犯人であることを自首するようなものである。それは身の破滅を意味していた。
「あなた様が私に対して警戒なさるのは、当然です」
態度を保留する子遵に対して、瀟は声にさほどの感情を載せずに言う。どういう意味かと訝しんで目をすがめた子遵に、瀟は小さく首を振った。
「ええ。これはあなた様が警戒することを前もって考え至らなかった、私の落ち度です。話し始める前にこれをお見せするべきでした…」
独り言ちるように呟き、懐から何かを取り出す。卓子の上に置かれたそれを目にして、子遵は息を呑んだ。
紺と白の綿糸で織り込まれた独特な幾何学模様の風呂敷である。
これは子遵が黄容蝶の出産費用にと金子を包み、拿和尚に届けたものであった。
瀟の眼光が鋭くなる。子遵へ言い含めるように、しっかりとした口調で語を継いだ。
「今回、あなた様に手紙を書くと拿上人はおっしゃられました。しかしそれは拙僧がお止めしました。万が一にもここへ来るまでに拙僧の身に何かがあって、第三者にその手紙が渡るようなことになれば、あなた様や拿上人はじめ、多くの方々に危険が及ぶからです。それだけは絶対に避けなければならないと考え、直にあなた様に会ってお伝えすると約束してまいったのです。これはあなた様のものだと拿上人はおっしゃられました。これを見せれば拙僧を信用してもらえるとも、おっしゃられました。拙僧はそれを信じてここへやってきたのです。拙僧を、信じていただけますでしょうか……?」
真剣なまなざしに嘘はないと感じた。
子遵は少しのためらいを経たのち、頷いた。目の前の男が万に一つでもこの返答で突如として豹変するなら、殺すつもりでいた。
だが瀟は子遵の反応にさほど驚く様子もなく、ただ、ほっと吐息しただけだった。相手のそんな反応に子遵もまた緊張が解けた。子遵はここでようやく、まともに口を利く気になった。
「確かに、この布は私が所有していたものです。拿和尚がそれを証拠として使われたのは正解でした。だが、あなたは黄容蝶が高将軍と婚姻したことだけを伝えるために、わざわざここへやって来たわけではありますまい」
水を向けると、瀟はゆったりとした微笑を浮かべる。
「ええ。むろん、そうではありません。あなた様が話の分かる方でありがたいと思います。話は少々長くなります。この国が行っている赤子さらいと、第二性を変える罪業について⋯⋯」
子遵はぎょっとした。
そこまで、知っているとは。
衝撃を受ける子遵の前で、拿から預かってきたという話を瀟は滔々と語り始めた。
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