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弐 対立軸(1)

 中秋を過ぎた小春日和の朝だった。  竜秦は休日を利用して、官舎にある自室の長椅子(カウチ)に横たわり、奇伝を片手に寛いでいた。昼餉の時間にはまだ少し時間があった。  不意に、乾いたそよ風と共に、薄く開け放した窓から季節外れの揚羽が部屋に舞い込んできた。  それに気づいた竜秦は、やおら書物から視線を外すと、寝ころんだままの姿勢で蝶の行方を目で追う。蝶はしばらくの間、迷っているかのようだった。所在無げにひらりひらりと部屋の中を泳ぐように飛ぶと、やがて出口を見つけて去っていった。  竜秦は顔をしかめた。  嫌な記憶がまざまざと脳裏に蘇ったからだ。  内容は至極つまらないものだった。  だが、揚羽や黄蝶を見るとどうしても「彼」を思い出してしまう。それがまた無性に悔しくて腹が立った。  「彼」の名に、「黄」と「蝶」が含まれているからだろうか。まるで条件反射のように、あの婀娜な姿が思い出されてならなくなる。  「彼」に逃げられたせいで、馮は失脚し、竜秦も王宮への出入りを禁止される罰を食らった。本来ならば真っ先に忘れたいケチのついた相手だが、記憶というものはそう簡単に割り切れないものらしい。竜秦にとって間近で見た初めてオメガだったからかもしれない。事実、熾烈な印象を伴った「彼」の艶姿は、竜秦の記憶に強烈に刻まれている。  黄容蝶は、およそ二年前に竜秦が手下を使ってさらってきた来暁人だ。  白磁器のように澄んだ膚も、思わず見惚れてしまう美貌も、すらりとした細い肉体も、すべてに調和があって美しかった。  まるで天女のような外見だったが、発情中の黄は苦しげに頬を紅潮させながら陰茎を勃たせていた。淫口からはたまらなく甘い匂いを発散させ、愛液をしとどに溢れさせていた。性には淡泊な竜秦さえ、その凄絶な色気には欲望の熱があがったものだ。  これがアルファを求めるオメガの凄みかと、驚愕した。 (汚らわしい————)  全身が総毛立つような感覚だった。  性行為自体は別に嫌ではない竜秦だが、オメガ特有の発情の不気味さに正直、怖気づいたのだ。まさにオメガとは呪われた種族であると認識しないわけにはいかなかった。  そのオメガの血が、自分にも流れている。  そう思うといたたまれないほどの自己嫌悪に陥った。ゆえに黄にもきつくあたってしまった。  いっそ、自分がオメガだったことなど知らなければよかったのだ。だとしたらこんなにも心を乱されることはないのに。 「貴様らは元は来暁人だ。生まれながらに罪深いアルファとオメガでもある。そんな貴様らを我々は清廉なるベータに変え救ってやったのだ!」  朝廷側が竜秦達に恩着せがましくそう教えるのには、苦しい事情がある。  アルファやオメガの赤子をベータに変える「同種術」は、実のところさほど難しい呪術ではない。だが、それでできた「ベータもどき」が番っても、生まれてくる赤子はアルファかオメガでしかない。  アルファ、オメガ、ベータには、赤子でも明らかな外見上の違いがある。もし自分が同種術を受けたことを知らずに婚姻し、子を産んだ場合、生まれてきたアルファやオメガの赤子を見て仰天するだろう。大騒ぎになるのも想像に難くなかった。  その予防策として、朝廷は養慈院の子供たちに本来の第二性を早いうちに伝える道を選んだ。そして、ゆくゆく子供が生まれた際には速やかに朝廷に申し出、子供の第二性をベータに変えるようにと教え込んでいる。むろん、その教えを無視しようものなら子供諸共殺されることも折り込み済みだった。  養慈院においてその教育は徹底して行われている。  養慈院の施設は、今もって、良質な孤児院の体をなしていた。設備は快適で、遊び場は充実し、子供たちは超一流の教育を施され、食事は上等であった。  暮らしているのは全て来暁からさらわれてきた子供たちだ。元々はアルファとオメガだが、全員、赤子の時に同種術を受けているので、香色の皮膚と灰白色の髪というベータ特有の外見をしている。  年頃になると養慈院の子供たちは、人には男女という第一性に加えて、アルファ、ベータ、オメガという第二性があることを学習する。その際に、自分達は来暁国から連れてこられたアルファとオメガの赤子だったことを知らされるのだ。さらに教師は、子供たち一人一人を名指しして元の第二性を伝えるのだった。 「我々は貴様らを悪の手から救い出したのだ!」  教師達はそう熱弁を振るう。 「この世でもっとも有害なのはオメガだ。発情という醜態を晒し、そのために日常生活さえままならなくなる。劣種の彼らがアルファを誘惑する。オメガの色気に抗えないアルファもまた低能な劣種だ。オメガとアルファのために、来暁国はもはや手の施しようもないほどに衰退している。社会の退廃は進み、風紀も乱れている。そのような国から我々は貴様らを救い出してやったのだ。ベータになれたことに感謝せよ! 第二性の中で最も優れているのは、ベータなのだ!」  子供たちは真剣に耳を傾けていた。  だが竜秦に限って言えば、来暁国が衰退していようがいまいがどうでもよかった。  自分が元オメガであったことのみが、ひどく衝撃的で、大問題だった。  アルファを誘惑し、社会の風紀を乱す汚らわしいオメガ。自分はそんな劣等種だったのだ。 (同種術を受けられて、よかった)  養慈院の教育により、竜秦は心からそう考えるようになった。  たとえ剏覇国の朝廷が竜秦に求めてくるものが、究極、アルファの子を産ませることだとしても…。

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