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【scene1】大好きのもっと上 byコウ
洗い物が溢れかえったキッチン。
山積みになったプラスチックのコップと、乱雑に積み重ねられたカップラーメンの器。
中の残りスープはうっすらかびていて、すえた異臭を放っている。
光が差し込むことすらない6畳のワンルームに、暖かさなんかひとつもなくて。
ゴミと服の間に、白くカピカピになった黒のパンティが落ちていた。
湿った部屋に沈むCHANELの5番。
むせかえるほどのフローラルの甘さとバニラの重み。
そこへ混ざり合うキリっとしたメンソールの香り。
俺の嫌いな部屋。
俺の嫌いな“オンナ”のにおい。
「コウ?」
だれ
俺の名前が空のずっと向こうに聞こえる
「水飲むかァ?」
聞き慣れた声がぐるぐるとミックスジュースみたいに混ざり合った頭の中を切り裂いた。
「…ん」
重く閉じてしまった瞼に力を入れてこじ開ける。
ストローが刺さった天然水を両手で受け取り、小刻みに震える喉奥を潤した。
いつになったら楽になるの
いつになったら俺は自由になるのかな
もうずいぶんと月日が過ぎたのに俺はまだ“あのオンナ”の呪縛から離れられない
「おはよォ」
「…おはよ」
早くなった脈を落ち着かせるように、
沢山の空気を吸い込みながら篤志の声に返事を返した。
「先、着替えるゥ?」
「俺…また…ッ」
「ほれェ」
大きく広げた篤志の腕の中に、すうっと吸い込まれるように飛び込んだ。
ぎゅっとつかんだ篤志のTシャツの首元がくしゃりと深くしわを刻み込む。
かたい
あったかい
気づいた時にはもう遅くて、枯れた胸の奥にじわりと色がもどってゆく。
トン、トンと一定のリズムが俺の背中に響いて胸の鼓動と同化する。
リズムに合わせて息を吐くと、次第に喉のしまりも緩くなっていった。
もう、起きる時間?
そっか
“今日”が来たんだ。
窓から差し込むオレンジ色の西陽が篤志の影を伸ばして
俺を包み込むようにそうっと大きく広がった。
「仕事休むかァ?」
「…行く」
「真面目だねェ」
そんなかっこいいもんじゃない
こんな俺を雇ってくれてんだ
出勤しないなんて罰当たりだろ?
「コウ、なんか食うゥ?」
「…ううん」
「じゃあ、これくらいのみなァ」
そう言いながら篤志は俺を抱きかかえたまま立ち上がった。
器用に片手で持ち上げながら、冷蔵庫を物色する。
ガラスのボトルに入れられた
オレンジジュースを手に取って
グラスにドクドクと注いでいった。
また作ってくれたんだ
濃くて甘いオレンジジュース
「それ…うまい」
「ソファで飲むゥ?」
「…ん」
と短い返事で返すと、ふかふかの黒革のソファに降ろされた。
グラスに刺さったストローをそうっと口に咥えて、
とろみのあるオレンジジュースを吸い込む。
少しの酸っぱさの後をこっくりとした甘さが追いかけてきて、身体の中に染みてゆく。
糖分が広がっていくような気がして指の先がジンと熱くなった。
「飲めるゥ?」
「…飲める」
「Yシャツとスラックスここおいて置くねェ」
「…や」
「今日は甘えん坊さんだねェ」
篤志はヘラッと笑いながら俺のパジャマを脱がせて、さらりとYシャツを肩かけた。
ひんやりとした感触をこらえながらゆっくりと袖を通す
篤志の太くて浅黒い指がひとつひとつ丁寧にボタンを留めた。
「バッグ使ってんだねェ」
「…おしつけたくせに」
「気に入ったァ?」
「…気に入った」
小さく返事をしながら視線をずらすと、
ソファにもたれかかった黒地に白の大きなモノグラムが描かれたバッグと目が合う。
中は赤の生地で、コントラストがすげえ可愛い。
俺の好きな感じ。
なんで篤志はわかるんだろう。
VUITTONだし多分高い。
調べたらわかるのだろうけど、
そこまでの興味はないし使えればそれでいい
使えればそれでいいし、どうせ返そうとしても篤志は
受け取ってくれないから。
きっと、このまま使うのが正解なんだろう。
「コウはVUITTONが似合うねェ」
「わかん…な」
「似合うよォ」
微笑みながら言葉をこぼす篤志の姿がなんだかとっても心地よくて。
いつもは1人でできる着替えすら、
ひとりでは何もできなくなってしまう。
ただでさえなんにもできねえのに
これ以上できなくなったらもう―
「ソイラテ持ってきなァ」
「ありがと…」
口から溢れた俺の言葉を受け取るように、篤志が頭をクシャッと撫で
「もう出ないと間に合わないよォ?車回しとくから降りてきなァ」
と言い残し、パタリとリビングの扉を閉めて出ていった。
無事目が覚めたんだから、今日も生きてゆくしかない
だから、無駄にしないように。
1分1秒をかみしめよう
俺みたいなやつに明日が来るなんて限らないのだから。
「いってきます」
短く短い言葉を冷え始めたタイルの上にそうっとのこして
玄関のドアをがちゃんと閉めた。
「なんかすごいあまいにおいするう!」
ヤニ臭えはずの事務所の部屋にリリカの甲高い声が響き渡る。
「ノックくらいしろって」
「はいはーい!でえ?なにこの匂い!」
「これかな」
篤志に渡された使い捨てのコーヒーカップを持ちながら、
回転椅子でくるりとリリカの方へ振り向いた。
いかにも男ウケが良さそうなフリルのワンピースに
茶色くて長い髪。
俺と同じ
ずっと一緒の茶色の髪
「それどこの?」
「篤志に渡されたやつ」
「ほんと篤志さんって見かけによらずマメだよねえ」
リリカは茶化すように言葉を置きながら、俺のPCを覗き込んだ
「今日も動いてるねぇ、流石コウちゃん」
「俺は電話番なだけ。現場に行くリリカ達が居なきゃ売上立たねえんだから」
「まあそうだけどさあ?リリカ達はコウちゃんがお仕事とってくれないと稼ぎにならないからね?」
「…うん。あっそうだ、新しい子入ったからまた講習お願いしてえんだけど」
「おっけー!じゃあ大丈夫な日探しとくね!」
「…ん」と小さく返して、デスクの上に転がった煙草の箱に手を伸ばす。
1本だけ飛び出たものを口に咥え、先のほうをライターの火へくぐらせた。
苦い煙を肺に落としながら、ゆっくりと吐いてゆく
「あ…リリカ」
「なあに?」
「髪…伸びた」
「じゃあ、少し切ろっか!」
ぱあっと子供みたいな笑顔をしながら、リリカの指が俺の髪をちょこんとつまむ
そのまま顔を近づけ、クンクンと匂いを嗅いできた。
「あー今日篤志さんちにお泊りしたでしょお!」
「なんだよ急に」
「篤志さんの匂いする!」
「お泊りっつーか…仕事帰りに拉致られるんだよ」
「なんだかんだいいつつほんと仲良しだよね」
「なッ…!んな訳…ねえ」
反射的に言葉を漏らし、思わず外のほうに視線をそらした
仲良し?
俺と篤志が?
んなわけねえ
俺は篤志の獲物で、おもちゃでそれから―
篤志の“専属”性欲処理機
セフレですらないだろ
どうせ都合のいい着せ替え人形くらいにしか思ってない
きっとそう
そうじゃなきゃ、いけない気がする。
「しかも新作VUITTONもプレゼントされちゃってえ?」
足を組み替えながら、リリカが深紅の唇でいたずらっぽく囁く。
「新作?何の話だよ」
「はあ!?コウちゃんのそのバッグ!オンザゴーの新作だよ!?」
「これは…篤志に押し付けられただけで…」
「いくらすると思ってんの!?」
リリカがむっとした顔をしながら、俺の肩を強く揺さぶった。
「ちょッ!灰飛ぶ!」
「いいなあコウちゃんは。愛されていいなあ」
「愛さ…?愛とかよくわかんねえけど、リリカ旦那いるじゃん」
「いるけど…さ?]
歯切れの悪いリリカの言葉が、コトンっと床に落ちる。
またか
またいつもと同じ
「上手くいってねえの?」
「……うん、いつものやつ」
「そっか」
「どうしたら大事にされてるって思えるのかなあ」
「…わかんね」
「コルセット……どうやったら脱げるんだろ」
そう言いながらリリカは細く長い煙草を咥え、火先を赤く染め上げた。
ふうっと息を吐き出すと、冷えた空気にに死んでゆく。
「誰に締められたのかなあ…?分かんないけど、
このコルセットが脱げないから苦しいのかなあ」
そう喉の奥を締め上げながら、リリカはメンソールの煙を吐き出した。
寂しそうな目が、俺の鎖骨のあたりをずきりと刺す。
そうだよな
苦しいよな
真っ暗な森の中に放り出された俺たちは、手を取り合いながら歩くしかなかったんだから。
何が正解?
信じても裏切られて、金と欲の狭間で大人たちの言う事を聞いて
コルセットを締め上げるしかなかった。
生きたくて、死にたくて
だけど死に方すらわからなくて。
お菓子の家から逃げ出した俺たちは、
今でもふかふかのベッドを探し求めているのかもしれない。
わかんねえ
解んねえけど
リリカと俺は同じだから
静まり返った冷えた空気を切り裂くように、俺は呼吸を整えた。
「眠り姫……」
「なあに?」
「眠り姫だよ!リリカ!眠り姫!」
「どおいうことお?」
「王子様がキスして目覚めんじゃん!いつか…出会うんじゃね?そういうやつに」
「会えるのかなあ…いつかなあ…早く会いたいな」
独り言みたいにリリカの声が灰にのってはらりと散る
ごめんな
俺のせいで
俺がリリカをこんなとこに引き入れなきゃ
普通の人生を生きれたのかもしれないのに。
だけど、あの時はそんな判断なんか出来なかった。
ムショに行くか
ここに来るか
そんくらいの選択肢しかないオレらに
何ができると言うんだろう
資格もねえ、学歴もねえ
出来ないことだらけの俺なんかが求めたところで所詮その程度なのに。
PCにうつるデリヘルパラダイスの仮予約ページの通知だけが、
自分の進む道を見通せているような気がして
胸の奥にチクリと針が刺さったような気がした。
「げ…何もねえ」
シンデレラが家に帰るころ、空腹を堪えながら事務所の冷蔵庫を開く。
いつもはキャストが残したお客の差し入れがあるのに、
今日は何もなくてがらんとしている。
電話のなりも落ち着いたから、やっと飯が食えそうなのに。
仕方ねえ
重くなった気持ちを引きずりながら、スラックスのポケットに
4台のスマホをぶち込んで、車の鍵を手に取った。
事務所の外に出ると冬の訪れを知らせるような冷えた風が背筋をぞくっと脅かしてくる。
寒いのは好きじゃねえ
身体だけじゃなくて胸の奥がぎゅうっと冷えたような気がするから。
篤志から貰ったVUITTONのマフラーの端を
飛ばないようにかじかんだ指先でつまんで抑えた。
俺が欲しかったわけじゃねえ
篤志に押し付けられただけ
ただそれだけだから
世間ではそれが愛というのかな
愛してるって大事にすることだろ?
大好きのもっと上の言葉だろ?
そんな気持ちがあるのなら、あんな強引に拉致ったりしねえだろ。
キレ散らかしたりもしないだろ。
宝物を愛でるように大事にするもんじゃねえのかよ。
親にすら愛されたことのない俺が愛なんか解るわけがねえだろ。
沈み始めた気持ちを紛らわせるように、
藍色の世界の中にぽつんと佇むコンビニの光に吸いよせられ、
店内に足を踏み入れた。
食いたいもんなんか特にねえ
何食ったって大して味なんか変わらねえ
腹が満たされればそれでいい
昔、腹が減るのが一番きつかった記憶だけは残ってる。
あの感覚がないのなら、なんだっていい
チルド棚のうどんに手を伸ばしたその時だった。
「コウちゃん…?」と背後に聞き慣れない声が透き通り、脈がいきなり速くなった。
だれ
わかんない
だけど、どっかで聞いたことのある力強くてはっきりとした声
「やっぱり!コウちゃん!俺だよ俺!隆之!中村隆之!」
「あっ…たかちゃん!久しぶりだな」
「中学以来だね!元気?」
隆之のパワフルな声が空気の塊になって、俺の身体をぐっと押した。
もう深夜だぞ?
元気すぎじゃねえか?
圧倒されてしまったことを隠すように、ゴクリとつばを飲み込んだ。
「あ…うん!元気!」
「コウちゃんこんな時間にどうしたんだよ!」
「俺は仕事中…そっちこそどうしたんだよ」
「実はさ家の給湯器が壊れて修理まで銭湯生活なんだよ。ほら、この近くに深夜もやってる銭湯あるだろ?」
「ああ、あそこか。この辺繁華街から近いからな」
「すぐ直るからとか言ってたけど師走だし、なかなか日程合わないし暫くこの生活かな」
「それ…大変じゃないのか?いちいち通ってたら金もかかるだろ?」
「そうなんだよね。だけどやるしかないからさ」
隆之は 息まじりに諦めたような顔をして声を出した。
もしかして困ってるのか?
たまにしか学校に行かなかった俺を
いつも気にかけてくれたあの隆之が。
なにかしなきゃ
せっかくまた会えたのに、嫌われちゃう
それなら俺は―
「風呂くらいならうち使う?俺あんま家居ねえし」
「それはさすがに悪いよ…けどすげえありがたい」
「全然構わねえよ!」
俺はベルトにつけた自分の家の鍵をカラビナから取り外し、掌で
ぐっと握りしめた。
これなら、喜んでくれる?
嫌な気持ちになってないかな
「これ!鍵!いつでも好きな時に来ていいから」
隆之の手首を掴んで、掌にカギをぐいっと押し付けた。
「そんな!いきなり家の鍵渡したら危ないよ!?」
「…迷惑だったか?」
「えッ…あ…ううん。ありがとう助かるよ」
赤くなった顔ではにかみながら隆之が名刺入れを取り出した。
普通の人が持ってそうな無地の名刺入れから、“中村隆之”と書かれた名刺を取り出した。
鏡にもなってない
暗い色でもない
代紋も入ってない
渡世名や源氏名じゃない名刺なんて初めてだった 。
昼間の世界の重みが、指先をジンと痺れさせた。
「このQRからメッセージしてくれれば連絡取れるから」
「おう!」
思わず跳ねた声色が隆之にばれていなきゃいいな
隆之の背中を見送ると、コンビニの暖房の温かみがすうっと消えてしまう。
さっきまで埋まってたはずなのに、
落とし穴ができてしまったみたいに急に身体の奥に寒さを感じた。
すげえ普通そう
昼間の世界の住人って感じがして、すげえかっこいい。
俺らみたいな気崩したスーツやタイトなものじゃなくて、
テレビで見るようなちゃんとした昼間の人の服装をしていた。
なんだろ
何この気持ち
かっこいい
ダイヤみたいにキラキラしてた
俺なんかとは違う
夢とか希望を持った生き方してるんだろう
まるで俺の胸の内を見透かしているみたいに、
紺青の空に向かって歩道の木がざわざわと身体を揺らす。
軽いはずのクロックスが今日はなんだか重いスニーカーのように感じた。
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