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6月①
休みの日、莉音に本を返しにあいつのやってる古書店へと向かう。
趣のあるドアを開けて入った古書店の中は、相変わらず静かだった。
棚に収まりきらない本が無造作に積まれていて、漂う本の匂いも変わらない。
「あれ、紡葵じゃん」
奥から声がして、すぐに顔を出したのは莉音だった。
どうやらレジの傍に山のように積み上がっている本に隠れてしまっていたらしい。
「本返しに来た」
「いつでもいいのに」
莉音はそう言いつつも、口元に笑みが浮かんでいる。
片方だけが歪に持ち上がって、ニヤッて笑う顔が昔から変わらない。
「すぐ帰る感じ?」
「お邪魔してってもいい?」
「構わねえよ。じゃあお茶持ってくるから待ってて。あ、その辺に椅子隠れてるから出して座ってて」
「見つかるかな……」
「見つかる見つかる」
莉音は適当にレジの傍を指差してから、二階にある自宅にお茶を取りに行ってしまった。
気楽に言ってくれるよ、こんなに本だらけでと思いつつ店の奥へと足を進めて辺りを探す。
本棚のちょっとした隙間に折り畳みの椅子が置いてあって、オレは軽く埃を払ってからそこに腰を下ろした。
「ほら、お茶。あと次のオススメ」
「ありがと。つーか、返すたびに渡されるの中学時代思い出す」
「紡葵は時間かかっても読んでくれるからつい。嫌だったら止めるけど、お前嫌じゃないだろ?」
「嫌じゃない」
少しして降りてきた莉音が、ペットボトルのお茶と本をオレに渡す。
学生時代も無限ループだったと零すと、あまりにもらしい言葉で返されて笑って首を振るしかできなかった。
莉音はレジ横に積まれた本を、傍の段ボールに移動させるが結局積む場所を替えただけだ。
いつ片付けてるんだろうと思うが、一応店だから自室よりはマシだろうと信じたい。
「そういや、なんでペットボトルなんだ?」
「倒して零しても被害が最小限だから」
「ああ……」
ペットボトルのキャップを開けつつ、元々は違った気がすると思いつつ聞いてみたら納得しかない。
本を読むという行為が当たり前すぎて、読みながらよくコップを倒すって話を聞いたことあった気がする。
大人になってこういう解決方法を取るとは思わなかったな。
莉音はレジカウンター内の椅子に腰を下ろして、そのまま当然のようにさっきまで読んでいたらしい本を手に取って読み始める。
昔から本当に、呼吸するみたいに本を読む。
この会話しなくてもいいし、かと言って話しかけても聞いてくれるという温度が好きだ。落ち着く。
「……そういえばさ」
ページをめくる音と、外を通る車の音が僅かに耳に届く中で。
思い出したように言葉を零すと莉音は本から顔を上げないまま「ん?」とだけ返す。
「来月、遊びに行くことになって」
「花屋の?」
莉音は本を読む手を止めると、顔を上げてその認識で合ってるかと確認するように問う。
それに「そう」と頷いたら莉音はぱたん、と本を閉じた。
「二人で?」
「二人で」
「デートってこと?」
その目には『紡葵に限って複数人でってことはないだろうけど』というのが浮かんでいるが、莉音は齟齬がないように丁寧に確認してくる。
なので間違いないともう一度頷けば、莉音は緩く首を傾げてオレを見上げた。
その単語に、脳裏に一気に遊びに行くのを誘われた時の深澄の言葉を思い出す。
「デートしないか?」
いつもと変わらない、低く落ち着いた声で言われたのに。ずっと心が落ち着かない。
「あー」と莉音から視線を逸らすとなにかを察したのかその口からも「あー」という言葉が漏れる。
「デートじゃねえ。遊びに行くだけだ。そもそも男二人だし」
「今時分、恋愛に男も女もあるか?」
そうだってオレが言うと莉音は益々不思議そうに、首を傾けた。
さらっと返すようなところが、あまりに莉音らしい。フラットだからこそ、言葉に詰まる。
「友達だからぁ!」
少しだけ強く言うと、莉音は頬杖を突きながら肩を揺らした。
「ちょっと前までは『なんて言ったらいいかわかんねえ』って言ってなかったか? 友達になれたんだな」
からかうニュアンスを含んだ言葉と口振りに、オレは眉根を寄せて莉音を睨み付ける。
「そんな怖い顔すんなよ。これでも大丈夫そうだから安心してんだよ」
その言葉に、一瞬返す言葉を失った。
莉音には昔からそういうの、隠せない。
他のやつだったら見透かしたように、理解されたように言われるのあんまり好きじゃないけど莉音だけは別だ。
わかっていて、わかってくれるからそれ以上は強く言い返せない。
「友達だから」
「はいはい何度も言わなくていい、わかったよ」
くり返したところで軽く流されて終わる。
オレは納得いかないまま視線を逸らした。
そう、深澄もデートだなんて言ってたけど「雰囲気に合わせた」って言ってたしこれはデートじゃない。
ただ遊びに行くだけだ。
そう思っていることに偽りはないはずなのに、言葉にした途端引っ掛かる。
「で、どこ行くんだ?」
「水族館か植物園かって聞かれて」
「わかりやすいデートスポット」
「だから違う」
「んで? どっち選んだ?」
莉音はそのままなにもなかったみたいに続けるが、イチイチ一言多い。
だが見せかけの苛立ちを滲ませたところで莉音には通用せず、どうなんだよと聞かれて、
「……植物園」
少しだけ間を置いて答える。
それを聞いて莉音は「ふうん」とだけ言った。
ここで急に引かれるのすげえ悔しいけど、それ以上は過剰だってわかってるからこそだと理解できるからオレも無意味に「うん」と返すしかできなかった。
莉音は再び本を開くと、また視線を落とす。
オレは莉音がページをめくる音を聞きながら、遊びに行くだけだろ。と心の中で独り言を呟いた。
*****
待ち合わせの時間にはまだ少し余裕がある。
気が急いて早歩きになるのに気付くたび、足を止めてスマホで時間を確認する。
早く着いたところで待つことになるだけで意味なんてない。
そう思いながら、スマホをポケットにしまってシャツの襟元を軽く引いて袖口を整える。
「おかしくない。はず」
いつもと変わらない格好のつもりだ。
人と出かけるんだから、それ用の少しちゃんとしたやつだけど特別ってもんでもない。
パーカーでもよかったし、気に入ってるミリタリージャケットでもよかった。
ただ今日は天気予報で少し暖かくなるっていうから、厚手の生地のそれは止めただけで。
理由なんてない、深い意味なんてない。
だってデートじゃない。ただ遊びに行くだけだ。
そう思ってるのに、また襟元に手が伸びてしまう。
「デートってこと?」
この話をした時の莉音の言葉が過ぎる。
「違うから」
小さく呟いて、頭を振る。
「デートしないか?」
次に浮かんだのは今日オレを誘った時の深澄の言葉。
「雰囲気に合わせたって、深澄も言ってただろ」
同じように小さく呟いて、もう一度首を振る。
歩きながら再びスマホを確認するが、このままではやっぱり待ち合わせ時間より早く着いてしまう。
五分十分だけなら早く着いちゃった、で済むがこれでは誤魔化しが利かない。いや、誤魔化す必要なんてなにもないけど。
オレは、さっきから、一体。なにをこんなにごちゃごちゃ考えてるんだ。
ふう、と息を吐いて気持ちを落ち着かせて、ショルダーバッグを握り締めながら、別のことを考えようと試みる。
「……深澄、どんな格好で来るんだろ」
無意識に口を衝いた言葉に、ハッと我に返り心の中で「だからなんでそんなこと気にするんだ!」と自分に強く言い聞かせる。
考えなくたってわかるだろ。
あいつはいつもちゃんとしてるし、前に仲卸に行った時に私服も見てる。変な格好で来るわけがない。
――だから浮かないように服を選んだのに。
そこまで考えて、オレは頭を抱える。ぐしゃぐしゃと髪を掻き回したいが、せっかくセットした髪を崩せなくて思い留まる。
「くそっ、深澄と逢えたらこんなこと考えなくていいだろ」
と苛立ちを吐き出し、とっとと待ち合わせに場所に行くことにして、今度こそもう考えないことにする。
そうこうしているうちに、待ち合わせ場所である駅が見えてきた。
朝の通勤通学ラッシュが過ぎた時間だからか、人はそれほど多くない。
結局時間より早く着いてしまったので、どの辺で待っていようかと軽く辺りを見渡したところで視線が止まる。
改札口から少し離れたところに立っている、背の高い男。
「深澄、もう来てる」
店で見る時とは違う格好。
エプロンもなくて、花に囲まれているわけでもないのに。
それでも、すぐにわかってしまった。
理由なんてわからないまま、ずっと早歩きだった足がほんの一瞬止まる。
深澄はなにか調べているのか、誰かと連絡を取っているのかスマホを見るのに視線を落としていてオレに気付いていない。
ポケットからスマホを取り出して時間を確認する。
まだ約束の時間より早い。五分十分じゃ、利かない。
心の中で「早いだろ」と、自分も同じことをしているのにそう思う。
いや、わかんねえ。深澄は店に寄ってからとかあったかもしんねえし。と言い聞かせ、オレはひとつ息を吐いてから何事もなかったように歩き出した。
数歩手前でスマホから顔を上げた深澄がオレに気付いて、こちらを見て目が合う。
「おはよ、深澄」
なにかを言われるより先にオレから声をかけると深澄はいつもと変わらない声で「ああ、おはよう」と言った。
なんでだろう、店で聞くのとは少しだけ違う気がしてしまう。
「早いな」
「紡葵くんもな」
ふっ、と笑った深澄に、同じこと思っただろうななんて思う。
オレが視線を逸らしたほんの一瞬、沈黙が落ちたが先に動いたのは深澄だった。
「もう行くか? それともコンビニでなにか買ってから行くか?」
優しく言いながらすぐそばのコンビニを指差す深澄に、オレは「飲み物だけ」と返してその場から離れる。
なんでかわかんねえけど、息が詰まる!
コンビニに駆け込んで、でも深澄を待たせるわけにはいかなくてオレは適当にお茶を買ってそれを一口飲んでからカバンにしまった。
「危ないからそんなに急がなくていい」
「子どもじゃないんだから転んだりしないって」
行って来いを駆け足気味にしてたら戻ってすぐ深澄にそう言われたけど、人がそこで待ってるって思ったらゆっくり歩くってのも難しくないか? と思う。
逆の立場だったらまあオレも同じこと深澄に言うだろうけど、深澄のそれはどことなく子どもに言うのと似ていて、オレは首を振って返す。
「子どもだからとかじゃなくて……」
だが深澄はそうじゃないと少しだけ低くなった声で言ったけど、ふと途中で止まってしまった。
フリーズしたみたいに数秒だけなにかを考えて、改札の方を指差す。
「行くか」
「行くけど。今のなに」
「うまい言葉が思い付かなかった」
誤魔化したというのがわかったので、面白くなってついからかったら大した理由じゃないと冷静に返されてしまった。
深澄の冗談を言う時と、そうじゃない時との違いが全然わかんねえ。
先に動き出す深澄を追い、改札を抜けるとオレはその隣に並んで歩く。
なんとなく後ろを歩くのも違う気がして隣に来てしまったけど、距離の取り方がこれでいいのかわからない。
肩が触れるほど近くもなく、かといって離れすぎてもいない。
それでもぶつからないように、妙に気を遣う。
「植物園は行ったことあるか?」
「小学校の遠足で行った記憶がぼんやりあるくらい」
「そうか」
それだけの会話。
いつも職場で誰かと話してる時は、「そっちは?」と聞き返すんだけど。
なんとなく深澄に聞いてもなあという気持ちになる。花屋だっていうのもあるし、前に花が好きでその道を選んだわけじゃないっていうのも聞いたし。
「乗り換えあるんだっけ」
「ある、一回」
「わかった」
ホームに上がって電光掲示板で時間を確認しながら、また短いやり取り。
それだけなのに、不思議と落ち着かない。
電車が来るまでの時間を並んで立って待つ距離は止まっているせいか、さっきより自然な気がした。
「行き方とか、調べるの任せてごめん。ありがと」
オレが聞いたからか深澄がスマホを確認しているのを見て、お礼を言うとオレに向いた目に僅かに笑みが浮かぶ。
「俺が誘ったんだ」
淡々と言う深澄に、ならオレが誘う時はオレが調べなきゃななんて思ったのを慌てて掻き消す。
オレは「そっか」とだけ返し、視線を線路へと向けた。
隣で深澄がスマホへと再び目を落としたのを見て、オレはちらりとその横顔を見る。
なにか違うと思ってしまう理由はなぜなんだろうか。
服装のせいか? 笑った顔を見たから? それとも場所のせい?
それともただ、店の外でこうして並んでいるから?
考えても答えは出なくて、オレは両手をズボンのポケットに突っ込んだ。
遠くから近付いてくる電車の音を聞きながらオレは心の中で「デートじゃないよ」とくり返した。
*
電車を降りて、少し歩くとすぐに植物園の入口が見えてくる。
平日なのに、想像していたよりは人がいるって思うのは遠足で来ている小学生の団体がいるからだろうか。
その中にいる家族連れやカップルの姿が目に入って、オレはなんとなく視線を逸らした。
「思ったより人が多い」
「ああ。天気がいいからな」
声をかけると深澄の視線は引率の先生の元に集まっている小学生たちへ向く。
さっきオレとした話をしたのを思い出したのか、淡々とはしているけれどなにかに納得したような口振りだった。
そのままチケットを買って中に入ると、空気が変わる。
視界の端から端まで、緑が広がっていて外よりも少し湿っている。
植物の匂いが混ざっていたが、その香りはいつも花屋で香っているものとも違う。
「記憶にあるよりずっと、すげえ」
自分で言っててなんて中身のない感想なんだろうと思ったが、深澄は小さく頷くだけ。
「この時期は種類も多いからな」
「さすが、詳しい」
「職業柄な」
そんな短いやり取りをして、園内の通路をゆっくりと歩き始める。
あちこちに咲く花に視線を巡らせれば、見たことのあるものから名前すら知らないものもあった。
「深澄。これはなんて花?」
適当に目に付いた花を指差せば、深澄は一度だけ視線を向けて
「ラナンキュラス」
と答えた。
「らな……? ええ?」
「ラナンキュラス」
「覚えられる気がしねえ」
「別に覚えなくてもいい」
あまりにサラッと答えるので声だけじゃ一度で理解できなかった。
思わず眉根を顰めたら深澄は「そういうつもりで来たんじゃないだろ」と、先程の遠足の小学生と並べるように言う。
やっぱ子ども扱いじゃ? と思ったがそれはもういいや。
「じゃあ聞くだけ聞く」
「好きにしろ」
即答されて笑って返したら、深澄は呆れたように肩を竦めつつも、フリだったのか可笑しそうに笑った。
その後もそんな会話をしながら、先へ進んでいく。
ふと自然と縮まっている距離に気付いて近くないか? と思ったが、だからといってわざわざ離れるほどでもない。
オレがあれこれ指差しながら聞くからってだけだ、気にするほどでもないと足を進めた。
少し奥に進むと、温室の入口が見えてくる。
中に入った瞬間、湿度が上がり空気が重くなったのがわかった。
肌に纏わりついてくる感じがなんていうか、ちょっとだけ不愉快だ。
「うわ、暑い」
「温室だからな」
中にある植物たちは頭上まで伸びた背の高いものばかりで、そこから光が柔らかく差し込んでいる。
園の入口から離れているせいか、暑さのせいか、さっきよりも人が少なくて、少しだけ静かだった。
「やっぱり暑いな」
深澄はそう呟くと、服の袖を軽く捲る。
その仕草をなんとなく目で追ってしまうがオレは慌てて逸らした。
むしろ袖を捲っている姿の方が見ているはずなのに、深澄の行動に暑い以外の意味なんてないのに、落ち着かなくなる。
温室だから暑いということにして、オレも着ていたジャケットを脱いだ。
「あ、そうだ。写真って撮っていいのか?」
「構わないが、ここでいいのか?」
「いい。莉音に行ってきたって報告する為だから」
「そうか」
一応確認をしてからスマホを取り出して、適当に花にピントを合わせる。
何枚か撮って、すぐに手元で確認する。
「うん、撮れた」
「見ていいか?」
別になんの変哲もない写真だけど、莉音に報告する用だから花が写っててボケてなければ充分だ。
深澄に言われて頷いてからスマホを少しだけ横に向けると、近付いてきて覗き込んでくる。
距離が、少しだけ近い。
「悪くない」
「俺も思ってた」
画面を見たまま、軽く返す。
そのまま他のも一緒に確認しながら、オレは一瞬の違和感に視線を上げた。
深澄がこちらを見ていて、目が合う。
「なに?」
「いや」
思わず聞くと、深澄はわずかに間を置いてから視線を外す。
「なんでもない」
短く、それだけ。
それ以上はなにも言わないけど、オレも追及するほどのことでもないと思って視線を戻した。
ふうん、と軽く流してスマホをポケットにしまう。
「暑いな、出ようか」
「うん」
そう言って温室の出口を指差す深澄に、ついて行く。
今の、なんだったんだろ。
理由はわからない。気にするほどでもないし、考える必要もないって思うのに。
――見られてた気がする。
一瞬浮かんだ考えを掻き消すように、オレは首を振った。
一歩だけ先を歩く深澄をちらり、と見てからオレは歩幅をほんの少しだけ整える。
隣に並んで歩く距離は、さっきと変わらないはずなのにほんの少しの引っ掛かりだけが残った。
その後、園内を一通り見て回って、出口へと向かう。
「歩きっぱなしで疲れてないか?」
「オレは大丈夫。深澄こそ平気か?」
「ああ」
短く言葉を交わして、そのまま植物園を後にして駅へ向かった。
道中で、なんとなく空気が重い気がしていたが電車に乗って、乗り換えた頃からぽつぽつと雨が降り出す。
帰る方向の空を見ると、どんよりとしていて暗い。
「最寄りの方がやばそう」
「着く頃には小降りになっててくれればいいけどな」
「うん」
ホームにやってきた電車に乗り込んで、中へと詰める。
窓を流れる水滴を目で追いながら、今日、楽しかったな。なんてぼんやりと思った。
仲卸に一緒に行って、花見をした後も似たような気分になった覚えがある。
満たされるような、同じくらい寂しいようなそんな感覚。
「期待した」
「あの空を見てするのか。紡葵くんが『やばそう』って言ったのに」
「言ったことと期待しないことは別。だって傘ねえもん」
電車を降り、改札を抜けると外は思いの外雨が降っていた。傘なしで歩くには躊躇う量。
同じことを考えているのか、出口の付近にオレたちと同じように足を止めている人がそれなりにいる。
帰宅時間と重なってしまっているようで、タクシー待ちの列も出来ていた。
「どうする?」
一応、深澄に確認する。
オレ一人だったら走って帰るの、わけない。
まあいざってなったら傘なんてコンビニで買えばいいんだけど、そこって意見分かれると思うから。
「ここからなら、店の方が近い」
「花屋? 確かに、自分ちに帰るよりは近い」
「傘もレインコートもある」
ちゃんとした説明はないが、それだけで十二分に理解できる言い方だった。
貸してくれるって話だと思う。
どっちみちそこまでは濡れるけど、真っ直ぐ家に帰るよりは花屋で傘を借りた方がいいかも。と考えてオレは頷いた。
「じゃあ、行く」
「うん」
そのまま深澄が屋根の外へと出たので、鞄が濡れないようにアウターの中に隠してからオレもそれに続く。
ぽたぽたと雨が降ってきて、肩を濡らした。
「思ったより降ってるな」
「楽しんでないか?」
雨の中を歩くのって、大人になってからだとよっぽどじゃないとやらない。
子どもだったら大人に叱られる行為だ。
だからちょっと面白くなってたのがバレて、深澄に指摘される。
「深澄は楽しくねえ?」
「別に」
自分だけかと思って聞いたけど、返ってきたのは短い返事で。どうやらオレだけだったらしい。
歩く速度を上げる深澄に、オレも合わせる。
若干の歩幅のずれが、じわじわと大きくなると深澄が一瞬だけそれを緩めてくれた。
見慣れた通りに入ると、深澄が少しだけ歩く速度を落とす。
「暗いな」
「定休日だからな」
見覚えのある看板。
何度も見たはずの店なのに、定休日の日に間違えて来たこともあったはずなのに。
なぜだかいつもとは少しだけ違って見えた。
初めてこの店に来た日のことが、ふと頭を過ぎる。
雨の中、店先で止むのを待って、深澄に店の中へ入れてもらったんだ。
その記憶をなぞるみたいに、視線が扉へと向く。
深澄がポケットから鍵を取り出す仕草を、目で追った。
鍵が触れ合う小さな音が、雨音の中でもはっきりと耳に届く。
「どうぞ」
ドアを開け、先に中に入るように言う深澄の声はいつもと変わらないのに。
胸の中にはじわり、じわりと。
言葉にならない感覚が、水溜まりのように広がっていった。
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