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第9話-7月①

 ゴゴゴゴ、と部屋中に響き渡る鈍い音に目を覚ます。  その正体を探したら、長年付き合ってきた扇風機が壊れた音だったらしい。首を振れなくなって、今にも爆発しそうな音を立てている。  オレは汗でびっしょりと濡れたTシャツを脱いで、扇風機の電源を切った。   「あーそれでなんか頭ちょっとくりくりしてんだ」    その後電源を入れてもうんともすんともいわなくなってしまったので、扇風機を買いに出たついでに莉音のいる古書店に遊びに来た。  帰りがけにふと寄ろうと思い立ったから借りた本を持ってこなかったのだけど、案の定「これオススメ」と言われて新しい本を一冊渡される。  それをパラパラと捲りながら「今日はどうした?」と聞いてきたので扇風機のことを報告したところだ。   「朝からシャワー浴びたからな。莉音に逢うだけだからいっかと思ってセットしてない」 「うん、かわいい」    適当にドライヤーで乾かしただけだからと答えたら、莉音は「それもいい」とにこにこ笑った。  どうにも照れくさくなって、つい前髪をいじる。  莉音との距離が普通の友達より明らかに近いことは、お互い理解しているがこいつは本当に照れもせずこういうこと言うからオレは照れくさくてたまらない。  でもオレも同じような状況になったら、似たようなこと言うだろうからそれを責められないんだよな。   「あー……あの、さ」 「ん?」    オレは手に持っていた本を、ショルダーバッグにしまってから莉音へと視線を向ける。  いつものように本を読んでいた莉音がそれに気付いて顔を上げた。   「み、深澄と……その、付き合うことに……なった」    手の置き場に迷ってバッグを握り締めたまま報告すれば、莉音は眼鏡の向こうの目を丸くした。   「付き合う……って、恋人になったってことか?」 「他にあるかよ」    意を決しての報告だったから、二度言わせないで欲しいとつっけんどんに返したら莉音は読んでいた本にしおりを差し込んで、頬杖を突きながらオレを見上げる。  その目に、「お前が言うの?」って書いてあってオレは視線を逸らした。   「男二人だ云々って言ってたくせに?」    絶対そこ掘り返すと思った。  好奇心を隠せないでいる口元に、ニヤニヤと笑みが浮かんでいる。   「あの時は友達だったからだろ。あと莉音が面白くねえ冗談言うから」    デートする前の話じゃん、と言えば莉音は肩を揺らしながら「悪かったって」と悪びれなく謝った。  そして椅子から下りると、本棚のちょっとした隙間に置いてある椅子を引っ張り出してレジカウンターの傍に置く。  オレがその椅子に座ったら、莉音もすぐに定位置に戻った。  そして真面目な顔して「どういう経緯か聞いてもいいか?」と言うので、オレは深澄と付き合うきっかけになった植物園デートの日のことを話した。  もちろん、花屋を継いだ経緯とかは省いて。  莉音は「なるほどなあ」なんて呟きながら、椅子に深く腰掛け直す。   「『愛が重い』って自覚のある人と付き合えるんだからなぁ。いやでも、紡葵らしいか」    話を聞いてオレらしいとなにやら一人で納得しているが、オレにはイマイチその理由はわからない。  まあ反対されるよりはずっといいのでそこは深く追求しないでおく。   「付き合う経緯はわかった。でもおれにもそういう素振り見せなかったじゃん。紡葵はいつから好きだったん? きっかけは?」    ズケズケと遠慮なく聞いてくる莉音に、それこそ莉音らしい。と思いつつ。  オレは首を傾げ、深澄との出逢いから思い返す。   「うーん。でもわりと、最初から」    そう返すと莉音は「え!? マジ!?」と大きな声を上げる。  それは意外だと言いたいようにも聞こえたし、気付かなかったと言いたいようにも聞こえた。   「花を探してるんだって言ったオレのよくわかんねえ話聞いてくれるんだと思って。そういうの、オレ莉音以外で聞いてくれるやついなかったし」 「あー……なあ」    言葉を濁した莉音が、その脳裏に思い浮かべただろう人物をオレも一瞬思い浮かべたけど。  莉音が露骨に視線を逸らしたのでオレはすぐに話を戻す。   「不器用そうだけど、色んなもの大事にしてそうなところとか。結構好きで」 「うん」 「花束くれた時、もしかしたら好かれてるのかもって。それが嬉しかったから、ああもうこれは好きだって」    確信したんだ。と告げたら莉音ははあーと息を吐いては、すぐに「ん?」と呟いた。   「じゃあおれと再会した時には好きだったってことじゃん」 「まあ、そう、かも。好きかもみたいなのはあった」    オレを睨み付けてくる目が「なんで誤魔化す必要があったんだよ」と訴えていたが、いくら莉音相手だからって再会したばっかりの友達に好きな人がいるんだって打ち明けるのは憚られるだろ。言わないけど。  なんにせよ莉音の言葉を否定するのに足りる理由がないから頷いたけどあんまり納得できないようだ。   「ほぼ一目惚れみたいなもんじゃん」 「一目惚れではねえだろ。顔は別にタイプじゃねえもん」    なんだよと言いたげに吐き捨てる莉音に、それは違うと首を振ったら「そういう話じゃねえの」と吐き捨てられたけどならどういう話だったんだろうか。  一目惚れの理屈がわからないからなんとも言えないが。   「まあ、うん。好き合って付き合うってことに落ち着いたんなら、よかったじゃん。紡葵がそういう人、ちゃんと見つけられたのおれも嬉しい」    捻くれてるんだか真っ直ぐなんだか判断が難しい言葉だが、莉音の気持ちは「よかったじゃん」とか「嬉しい」って言葉に集約されていると思う。  だから「うん」と頷いたら莉音は瞳を細めた。   「あとこれ、莉音にしか相談できないんだけど」 「ん?」 「男同士ってどうやってセックスすんのか知ってる?」    オレからすればかなり深刻な悩みだったので莉音に聞いたら、莉音はオレのボディバッグを指差しながら酷く呆れた声で   「お前のそのバッグに入ってるデバイス、宝の持ち腐れすぎん?」    と吐き捨てた。      *****      莉音に深澄と付き合ってるって報告してから数日後。  仕事帰りに寄ったコンビニで、バッタリ彗さんに逢った。   「つーちゃん久しぶり」    深澄がいないのに、にこにこと人当たりのいい笑顔で話しかけてくれて少しだけ嬉しい。  仕事終わりなの? とか他愛ない話をして、邪魔にならないようにさっさと買い物を済ませてすぐに店を出た。  彗さんが奢ってくれたコーヒーを飲みながら、駐車場に停めてある彗さんの車の傍で、少しだけ話をする。   「そういえばつーちゃん、思い出の花は見つかった?」 「いや、見つかってない」    深澄とのこと聞かれるのかなって思ったからそうじゃなくて一瞬驚いたけど、彗さんに報告をするのは深澄に話をしてからの方がいいと思って、話を逸らさないようにオレは首を振って返した。   「そうなんだ。時期じゃないのかな。僕あちこち出かけるの好きだから、どういう花か教えてくれたら探すの手伝うよ」    その、当然のようにオレの話を聞いて。探すのを手伝うって言ってくれるところに深澄と同じだと思うと同時に。  彗さんの優しさも感じる。   「んー」 「『んー』なの?」    だがお願いする気になれなくて、返事を濁すと彗さんは穏やかな表情のまま首を傾げた。   「今は探してないし、いいかな」    彗さんに手伝って欲しくないってわけじゃないって伝えたくて、別に嘘を吐くつもりもなくそう言ったら彗さんはすごく驚いた表情で「えっ!?」と大きな声を上げる。  サングラスの奥にある目が、かなり動揺して忙しなく動いている。   「探してない? やめたってこと? スミと喧嘩でもした?」    と矢継ぎ早に聞かれて、合点がいった。  この人、深澄のこと心配してるだけだって。  だからオレは慌てて首を左右に振ってそれを否定する。   「してない。ただ特にそれにこだわる理由がなくなったってだけ。オレの気持ちの問題っていうか」    深澄と付き合うことになったからやめますなんて言うの、言葉にするとそれ目的で近付いたみたいに聞こえそうで憚られて言い方変えたけど。  なんか、それこそ言い訳っぽく聞こえてきてしまう。  なんて伝えたら深澄とのことを打ち明けないでいられるだろうと迷っていると、彗さんはじいとオレを見つめてなにかを考えた後「そうだ」と零した。   「つーちゃん今夜ヒマ? ヒマだったらさ、深澄と一緒にうちの店に夕飯食べに来ない?」 「オレはいいんだけど……。でも深澄が行くかは深澄に聞いてみないと……わかんないかも……」    誘ってもらっても、深澄がいないのになんて返したらいいかわからないと告げたら彗さんは「そうだよね」とそう言うや否や、すぐさまスマホを取り出して誰かに電話を始めた。   「あ、もしもしスミ?」    繋がって一番のその一言で、相手が深澄だと察する。  彗さんは電話の向こうでなにか言ってる深澄を必死に説得し、電話を切った。   「僕の店の場所は深澄がわかるから、一緒においでね」    あれよあれよという間に彗さんのお店に行くことが決まってしまった。  彗さんは「お店で待ってるね」と満足そうに笑って、車に乗って行ってしまう。  オレは深澄に何時にどこで待ち合わせたらいいのか確認の連絡を入れたらすぐに【彗が勝手に決めてごめん。迷惑だったら俺から断っておく】と返信がきた。  嫌じゃないこと、深澄とのことを話していいのか迷ったこと、それが理由で彗さんは深澄のことを心配してたことを伝えたら待ち合わせ場所と時間が返ってきたけど。  これ、深澄が行きたくないとか……ありそうだな。    仕事終わりだったのでオレは一旦家に帰ってシャワーを済ませてから、待ち合わせの駅に向かう。  時間より少しだけ早く現れた深澄の顔にはあからさまに「行きたくない」と浮かんでいて。  その顔がなんだか、拗ねた子どもみたいに見えて。  可愛いって思ってしまうような今のを、きっと人は「盲目」と言うんだろうななんて思った。   「行くか」    仕方ないからと言いたげに、深澄は短く言って歩き出す。  まだ少しだけ人通りの多い駅前の道を、隣に並んで歩いた。  こうやって歩くのは初めてのことじゃないのに、未だに少しだけ緊張してソワソワと落ち着かなくなる。   「どうした?」    それが伝わってしまったのか、深澄がこちらを見る。   「いや、なんも」    挙動不審だったかと思いつつも、首を振って返すと深澄は少しだけ瞳を細めたあと、   「そうか」    といつものように短く返した。  その言い方に、安心すると同時に嬉しくなった。  恋人になったからって急に別人になるわけじゃない。  いずれは変わっていくのかもしれなくても、深澄は深澄だ。  繋ぐわけじゃない手をオレはパーカーのポケットに突っ込んで、僅かに開いた一歩の距離を縮めた。    駅前の通りを数分歩いた先、通りを一本外れ、少しだけ静かな路地に入って少ししたところで深澄が足を止めた。  店名が書かれた小さな看板の傍から階段が伸びていて、地下へ降りるにつれて外の喧騒が遠ざかり、代わりに微かに音楽が聞こえてきた。  バーなんて初めて入ると思いつつ、深澄が開けてくれたドアを潜るとすぐにカウンターの奥に立っていた彗さんが気付いて手を振る。   「スミ、つーちゃん! いらっしゃい」 「こんばんは」    出迎えてくれる彗さんの方に歩いていくと、他の店員が深澄に軽く頭を下げたのが見えた。   「個室も空けてあるよ。そっちでいい?」 「そうだな」    見慣れぬ場所で、キョロキョロと店内を見渡しているのを見て彗さんが店の奥を指差す。  オレはなんだか恥ずかしくなってポケットに入れていた手を出し、「どうぞ」と案内をしてくれる彗さんと深澄の後をついていく。   「スミはまかないでいいよね。飲み物は?」 「ウーロン茶」 「つーちゃんはなに食べる? ちなみに今日のまかないはハヤシライス」 「あ、じゃあオレもそれで」    柔らかなソファーに腰を下ろすと、彗さんがドリンクのメニューと、食事のメニューをテーブルに置いた。  オシャレな店でなにを頼んだらいいのかわからないから、先に食べ物を決めてもらえるのは正直、助かる。   「飲み物は? 僕が誘ったんだしサービスするよ」    その言葉に、メニューを見るけどどれがいいのか全然わからない。   「つーちゃんお酒強い?」 「えっと、普通、かな」 「じゃあ僕のオススメ持って来ようか」    メニューと睨めっこしてあからさまに困惑しているせいか、彗さんが優しく誘導してくれる。  それにこくこくと頷いたら「用意するから待っててね」と言って厨房の方に行ってしまった。   「深澄はいいのか? お酒」 「明日も仕事だし、あまり得意じゃないんだ」 「そうなんだ。知らなかった」    オレだけアルコールでいいのかなと思って聞いたけど、お酒得意じゃないのは初めて知った。  わかってたつもりだけど、オレ深澄のことなにもしらないなあ。なんて思っていると少しして彗さんがドリンクを持って戻ってくる。   「これお通しね」    そう言って出てきたのは、オシャレなキャロットラペだ。  それと一緒にオレの前に置かれたのは、綺麗な青色をしたカクテル。   「つーちゃんをイメージして、あんまり強くないのを作ったよ。チャイナブルーっていう名前なんだ」    その言葉に、顔を上げて彗さんと深澄の顔を順番に見てへにゃりと笑うと深澄も口元に小さく笑みを浮かべた。   「深澄と同じこと言ってる」    カクテルを指差しながらオレが言うと、彗さんが深澄の隣に腰を下ろしてにこにこと笑顔でオレを見る。   「なにがあったの?」 「前に深澄にも『オレをイメージして作った』って言って、小さな花束もらったことある」    花の名前を聞いてなかったけど、それも確か青い花だった。  深澄に青い花を探してるのは伝えてたけど彗さんには言ってたかな? オレって青色のイメージなんだろうかと思案していると、彗さんは興味津々といった様子で深澄を見やる。   「少し前から付き合ってる」    深澄はその視線を最初は無視していたけど、あまりに視線が逸れないのでため息を吐いてそう告げた。  彗さんは大きな声で「えっ!」と言うと、オレの方を向くので頷くと今度は「えー」と呟いてソファーに体を沈ませる。   「もだもだしてそうだからキューピッドしようと思ったのに」 「余計なお世話」    口を尖らせる彗さんに、深澄が容赦なく言い返す。  だが彗さんは座り直すと頬杖を突いて、再び笑顔を浮かべてオレを見た。   「でも大丈夫。僕ノロケ話も大好きだから」    その笑顔はとても満足そうで。それでいて、とても深い安堵があって。  オレは、なんとなく。  彗さんは深澄の過去の恋愛のことを知っていたのかな。なんて思った。  それからすぐに彗さんは「食事持ってくるね」と言って、席を立つ。   「言わないとしつこいと思ってつい打ち明けたけど、彗に言ってよかったか?」 「うん、深澄が信頼してるのわかるし。それ言ったらオレも莉音に報告しちゃってる」    なにも聞かずにと申し訳なさそうな深澄に、オレも聞かないで莉音に言っちゃったからと首を振ったら、深澄は「ならお互い様だな」と言ってくれた。  深澄はあまり深い意味はなかったのかもしれないけど、オレにとっての莉音という存在を否定されなかったのがとても嬉しい。  いずれ深澄に、莉音とのことをもっとちゃんと報告できたらいい。    その後、彗さんが持って来た食事の量を見てオレは深澄の新たな一面を知ることになった。  テーブルに並べられた皿たちを見て、思わず「全部食べるのか?」と聞いたオレに深澄は静かに頷いて「でも少し足りないかな」と呟いた。    結局その後も、彗さんに根掘り葉掘り聞かれた。  どちらから告白したのか、とか。  いつから好きだったのか、とか。  キスはしたのか、とか。    その度に深澄が露骨に嫌そうな顔をして「言わない」と返していたけど。  どうしても聞き出したかったのか思い返したように問いかけるので最終的には深澄は無視していた。  オレも「恥ずかしいから」と言って誤魔化していたが彗さんはなんていうかそういう雰囲気が好きなのか。  言わなくても冗談混じりに「えー」と笑うだけだった。    そんなこんなで気付けば長居してしまっていたらしい。  深澄が時計を見て「遅くなるから帰る」と言って今日は解散となった。  財布を出そうとしたら彗さんがニコニコしながら、   「素敵な報告してもらったお礼。今日の分はいいよ」    と言ってくれて、深澄を見たら「甘えておけ」と返されたので今回は厚意に甘えることにした。   「じゃあ、いつでもまた来てね。つーちゃん」    店の外まで見送りに来てくれた彗さんが、ひらひらと手を振る。  深澄がいなくてもおいでってことなんだろうなと思いながら、オレも手を振り返した。  店を後にして地下から地上へ出ると、湿気を含んだ空気がまとわりつく。  冷房の効いた店内に長くいたせいか、一瞬だけ頭がくらりとした。   「楽しかった」 「そうか」    ほろ酔いで気分もよく、へらへらと笑いながら言えば深澄はいつもと変わらない調子で短く返す。  雰囲気に飲まれているかなと思いつつ、意を決して伸ばした手を掴まれて思わず「へへ」と声が漏れた。  駅前まで行くと終電を逃してタクシーを待つ人がいるのが見えて、オレたちはどちらからともなく繋いでいた手を離した。   「少し待ちそうだな。ここからだと紡葵くんの家の方が近いか?」 「んー、……多分」    手持ち無沙汰になってしまった手を、パーカーのポケットに突っ込んで。  深澄の声に頷いた瞬間、ぐらりと視界が揺れた。   「紡葵くん?」    呼ばれて顔を上げるが、なんだか妙に胃の辺りが重たい。   「どうした」 「いや……」    声をかけられて、思わず大丈夫と返そうとしたけど。  こみ上げるような気持ち悪さに眉を寄せられたのをハッキリ見られたのがわかってオレは誤魔化すのをやめた。   「ごめん。なんかちょっと……気持ち悪い」    そう言った瞬間、深澄の表情が変わった。   「自販機で水を買ってくる。すぐ戻るが、辛かったら列抜けてベンチに座っていいから」    深澄はオレの背を撫でてから、隣を離れて近くの自販機へと駆ける。  すぐに戻ってきて、渡してくれた水が冷たすぎて飲む気になれなくてオレはペットボトルを首元に当てた。  どうしよう、と迷っているとタクシーの順番が来てしまった。   「乗れそうか?」    その声に頷くと、深澄はオレを支えながら傍に停まったタクシーに乗り込んだ。  深澄は運転手に自分の住所を告げ、車がゆっくりと走り出す。  揺れが響かないように、肩を抱き寄せられて少しだけ安心した。   「紡葵くんの家がわからないから、このまま俺の家に向かう」 「ごめん」 「謝らなくていい」    元々乗り気ではなかった深澄を付き合わせた上、迷惑をかけることに罪悪感が募る。  謝罪したオレの肩を、深澄の手が優しくぽんぽんと叩いた。   「楽しかったんだ」 「わかってる。わかってるよ」    その声に張り詰めていたものが一気に抜けていく。  ふわふわと浮き沈みする意識の中で、肩に回された腕の感触だけ妙に鮮明だった。   「紡葵くん、着いたぞ」    名前を呼ばれて顔を上げると、窓の外に知らないマンションが見えていた。  手早く支払いを済ませた深澄とタクシーを降りる。  未だにじっとりと湿った空気が肌にまとわりつく。   「ゆっくりでいいから」    深澄に支えられたまま、エントランスを抜けエレベーターに乗る。  浮遊感に目を閉じると、それに気付いた深澄がまたオレの肩を優しく叩いた。  やがてエレベーターが止まり、促されるまま廊下を歩く。  鍵が回る音がしてすぐ、ドアが開いた。   「どうぞ」    そう言われて部屋へ足を踏み入れた。   「ソファーもないけど、痛くないところ座っていいから」    言われるがまま、厚手のカーペットの上に腰を下ろす。  深澄は新しくコップに注いだ水を持ってきてくれて、オレはそれを受け取り一口だけ飲んだ。  常温の水が、じわりと全身に染み渡っていく。   「無理に飲まなくていい。気持ち悪くなるから」 「ん」    短く答えると、深澄はようやく少しだけ肩の力を抜いた。  ホッとした顔を見て、心配をかけてしまったと申し訳なくなる。  深澄はオレが無理しないように気を遣って黙ってくれてるんだろうけど、会話が続かなくて気まずくなりオレは静かになった部屋を見回す。  必要最低限の家具しかなく、モノトーンで整ったリビングに一つだけ差す青色に目が留まった。   「あの花、深澄も飾ってるんだな」    そこにあったのは、以前深澄がオレにくれた花束に使われていたのと同じ花だった。   「渡した時言ったろ、紡葵くんをイメージして作ったって」    確かに、言われた。その話をオレはさっき、彗さんにもした。  だが深澄にそう言われた瞬間、今この部屋に飾ってあるのは【オレを想っているから】だと理解してしまい、一気に恥ずかしくなる。   「そういえば花の名前聞いてなかった。なんて名前の花?」 「デルフィニウム。もう流通のピークは過ぎた」    酔いじゃなく、赤くなる顔を誤魔化そうと聞いてみたら普通に聞いたことだけ淡々と返された。  オレは目の前にあるローテーブルに、ゆっくりと上体を伏せる。   「青い花を探してるオレに、青い花を贈るんだな」    そのまま深澄を見上げ、真意を探るつもりで言ったら深澄は一瞬だけ目を丸くしたけど。  すぐに諦めを含んだような笑みを浮かべた。   「言ったろ、面倒くさいって。こういうのは嫌か?」    こういう男なんだよと言いたげな口振りだ。  それはもう知ってるのでワザワザ知っているとも返さない。   「これは嫌じゃない」    だからさっき深澄がそうしたように、首を振って聞かれたことだけを答えると短く「そうか」と言われた。  ふと会話が途切れて、また無言の時間が流れる。   「紡葵くん」 「ん?」    名前を呼ばれてゆっくりと上体を起こすと、深澄は視線を泳がせてからオレを見た。  その視線から緊張が伝わってくる。   「紡葵って呼んでもいいか?」    そう聞かれた瞬間、胸の奥が小さくざわつく。  不意に、昔同じようなことを言われたことがあったことを思い出したが、今となっては過去の話で。  今、それを言ってくれたのは深澄だ。   「いいよ。オレはこれ以上変えようがないから深澄って呼ぶけど」    照れくさくて冗談混じりに言ったのも、多分赤い顔してたら説得力ない。  深澄は静かに「ああ、そうしてくれ」と言うだけだし。   「紡葵」    深く落ち着いた声に名前を呼ばれて一瞬、呼吸が止まった。  深澄にひとつ、ひとつ。ゆっくりと距離を縮められる感覚に心臓がドキドキとうるさく鳴り響いて「ん」と返した自分の声がその音にかき消される。   「紡葵、好きだよ」    伸びてきた手が、優しくオレの頬に触れた。   「オレも、深澄が好きだ」    同じ気持ちだと告げるとすり、すり、と頬に触れていた手に撫でられる。   「キスしていいか?」    言葉にされるより先に、キスされるって思って目を瞑ろうとしたけど思い留まってよかった。  そうしてたらなんか、してくれって強請ってるみたいであまりの恥ずかしさに消えてしまいたくなっただろうから。  緊張に震える指をぎゅ、と組んで頷くと深澄の顔が近付いてきて、唇が触れ合った。  触れるだけで離れていったので恐る恐る瞼を持ち上げたら親指がゆっくりとオレの唇をなぞる。   「もう一度しても?」    剥き出しの好意と、色香に中てられてオレの中でなにかがパアンと大きな音を立てて破裂した。  聞かないで欲しいと訴えたいのに言葉にならなくて、頷くしかできない。  今、オレは茹でダコのように真っ赤な顔をしているだろう。  深澄のことを見ていられなくてぎゅっと目を瞑ったら、ふっ、と笑った声が聞こえてまたすぐにキスをされた。  触れるだけのキスを、ゆっくりと、何度もされて瞼の奥に眩しい光が激しくチカチカと点滅する。   「そんな顔するんだな」    唇が離れても深澄の顔を見れないまま、また頬を撫でられて心臓が口から飛び出しそうだ。   「み、深澄にしかしねえけど」    どんな顔だよって聞いたら深澄は絶対に説明するだろうと思ったから、仕返しも含めて言い返したけど深澄は穏やかに照れるだけだった。  勝ち負けじゃないのはわかっているが、かなり悔しい。  そんなオレを見て深澄は少しだけ困ったように笑って、それでも頬に添えた手を離さなかった。   「紡葵、抱き締めてもいいか?」 「……うん」    その手が顎まで滑って、僅かに顔を上に向かされてまたキスされるのかと思ったけど違った。  期待した心を見透かされたくなくて、頷いてからいそいそと両腕を広げたら深澄は体をオレの方へ向けてぎゅ、と抱き締めてくる。  そのまま、また無言の時間が流れて。  部屋が静かすぎて心臓の音、聞こえてしまわないか不安になる。   「……困った」    抱き締めたまま、深澄が小さな声で呟いた。   「なにが?」    どういうことなのかわからず疑問符を浮かべていると、ゆっくりと深澄の体が離れていく。  数秒じっと見つめられて、でもすぐに深澄は一度目を伏せ、小さく息を吐いた。   「……言うつもりはなかったんだ」    躊躇いつつも零れ落ちた言葉に、オレは首を傾げる。   「うん、言って?」    深澄のことだからそこまで言って本当に黙ってしまうことはないとわかるけれど。  ちゃんと知りたいと伝えたら深澄は落ち着いた穏やかな声で   「俺は、紡葵のことを抱きたいと思っている」    と言った。  深澄の性格的にも、話題的にも真剣に言ってくれてるのは理解できる。  オレも少し前に莉音に話して自分で少し調べてみたけど、男同士でセックスするのって、それなりに大変らしい。  その時にぼんやりと、男同士だから、多分普通ならそれなりにどっちが抱くか抱かれるかってプライドの話にもなるのかなとか思ったんだよな。  そりゃあ女の子の代わりみたいな話になるんだったら意味が違ってくるんだろうが。  深澄がオレのこと、女の子みたいにしたいんじゃないってわかるから正直オレはどっちでもいい。   「うん。いいよ」    悩んでいたんだろう深澄には申し訳ないけど、オレの気持ちは最初から決まっていた。  だから答えもそれだけになってしまうのだが。  深澄はそれを聞いて、困ったような、けれどどこか呆れを含んだ表情を浮かべた。   「『俺の好きなように紡葵を好きでいていい』からか?」    告白された時に言った言葉を返されて、覚えていてくれたんだと嬉しくなる。  状況を考えれば呆れてるからこその嫌味を含んでいるんだろうが、オレはその意見を変えるつもりがないので痛くも痒くもない。   「そうだよ。それにオレも、オレの好きなように深澄に好かれたいから」    にへ、と笑って返すと深澄は小さなため息を吐いたけれど。  それは呆れというより、諦めに近いように感じた。   「そうか。なら、遠慮なく。俺がしたいように紡葵を好きだと伝えていく」    そう言って深澄は、もう一度オレを抱き寄せる。  大切なものを壊さないように抱き締める腕はどこまでも優しくて、背中をゆっくりと撫でる手つきからも愛おしさが伝わってきた。  ああ、このまま時間が止まればいいのに。  そんなことを思った、その時だった。   「でも、今日は無理かも。深澄の腹の上に吐いちゃったら申し訳ないし」    自分がいまここにいるに至った理由を思い出し、そう返したら一瞬。嫌な間が流れた。   「深澄? あの……」    ムードを壊してしまったことに遅れて気付いて、謝るべきかと表情を窺おうとしたが、抱き締める深澄の腕に力がこもって離れられない。  意味がわからずにいると、深澄の体が小刻みに揺れくふ、くふ、と笑いを耐えるような声が聞こえた。   「ふふっ、ははっ。この話題でそんなこと言われるのは想像していなかった。ふっ、面白いこと言うな」 「……そんな笑われることか?」    確かに折角のいい雰囲気を台無しにしたのはオレだけど。  そこまで笑わなくたっていいんじゃないか? とは思う。  こんな風に笑う深澄を普段見ないからこそ、悔しいというか不満というか。   「いや」    見えないからと唇を尖らせていると、深澄はまだ肩を震わせながらも、ゆっくりと息を吐いてようやく笑いを落ち着かせた。   「紡葵らしくて安心した」 「それ褒めてる?」 「褒めてる」    それこそ、そんなところを「らしい」と言われて納得がいかないのだが。  聞き返したら即答されて、それ以上はもう言い返せなかった。   「今日は大人しく寝よう」 「うん」 「その代わり」    深澄は優しい声でそう言うと、乾燥した指でオレの前髪をそっと払ってから額へ軽く口づける。   「元気になったら、その時は覚悟しておいてくれ」    今度は照れるのがオレの番だった。  素直に頷くのが憚られたから黙っていたら深澄が「嫌か?」なんて意地悪く聞いてくるので。  オレはもう観念するしかなく、「ん」と短く返すしか出来なかった。

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