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第1話 婚約破棄
王宮の大広間は、祝事のはずの婚姻の話題とは裏腹に、張り詰めた空気に包まれていた。
隣国との同盟――その証として、皇女の輿入れが正式に決まろうとしている。
「……お断りします」
凛とした声が響いた直後、場は凍りついた。
現王の娘であるイリーナは、唇を震わせながらも視線を逸らさない。
「あの方は、情けを知らぬ方だと聞きます。気に入らぬ者は容赦なく粛清し、婚姻すら政の道具としか見ていない、と……」
ざわめきが広がる。誰もが知っている噂だった。
黒髪の美丈夫にして冷酷無比の王――ヴィルユーグ。
その名が出ただけで、空気が一段と冷えた気がした。
「あの、陛下……発言をお許しください」
イリーナの隣で顔を上げたのは、侍女のベルーだ。
「何だ、ベルー」
「グラディウスといいますと、我が国とは五十年前から停戦状態でありましたね」
先代の王は平和主義で、どことも戦争をせず中立な立場をとると明言していた。だから付かず離れず、対等な貿易を行いながらグラディウス国とは小康を保っていたのだ。
「そうだ。この婚姻によって、同盟が結ばれることだろう」
それって、事実上グラディウス国の植民地になることなんじゃないかと囁かれる。
もちろん、王の耳に入れば反逆罪とも捉えかねられないのでそんなヘマはしないが、周りはかなり混乱していた。
「差し出がましいようですが、イリーナ様はまだ15歳でございます。教育としてもまだ未熟なところもありますし」
貴族や王族間での結婚は18歳前後が平均と言われている。大体が16歳までに教養を身につけ、そこから社交界に出ていくというのが普通だ。
15歳のイリーナは、まだ社交界デビューもしていなかった。
無論、夫となるかもしれないヴィルユーグ当人を見たこともない。
顔も知らない相手に嫁ぐとは、なんてかわいそうなのだろう。
「うむ。確かにイリーナは結婚するにはまだ若すぎる。だが、あちらは二十八になるわけだし、先を越される前に……な」
暗に周囲の国を出し抜きたい一心だと言わんばかり。
王族は政略結婚が当たり前だと、イリーナもわかってはいるはずだ。
けれども、かの悪名高いヴィルユーグが未来の夫になるなど耐え難い恐怖を感じるのも無理はない。
可哀想に……。
ざわめきの中で、ただ一人、後方で静かに控えていた銀髪の騎士――リヨン=ヴィダル=キュネームは又従兄弟であるイリーナを案じていた。
しかし、それも束の間。
次の瞬間に、俺は広間中の視線を受けることとなってしまった。
それは王の一言のせいだった。
王族の血を引きながらも、女系ゆえに継承権はなく、名ばかりの立場。宮廷において俺は、いてもいなくても変わらぬ存在なはずだった。
「リヨン」
玉座から呼ばれ、俺は一歩進み出る。
王の声音には助けを求めているような、弱々しさを感じた。
「グラディウス国へ赴き、ヴィルユーグ王との交渉を行え。婚姻の調整――あるいは、別の道を探れ」
それは命令であり、選択肢ではなかった。
危険であろうと、失敗しようと、代わりはいくらでもいる。
「……御意に」
リヨンはただ、静かに頭を垂れた。
「……どうして、私があの方のもとへ行かなくてはならないの?」
控えの間で、イリーナは抑えきれない苛立ちを滲ませた。
リヨンの前では気丈に振る舞おうとしているが、その指先はわずかに震えている。
リヨンはイリーナが生まれた時から彼女が守る存在だと教えられており、またイリーナも他の兄よりも歳が近いリヨンを兄のように慕っていた。
「ヴィルユーグ王は、情けを知らぬ方なのでしょう?そんな方と……」
言葉を詰まらせ、視線が揺れる。
その先にいるのが自分であることを、俺は理解していた。
「……リヨンは、行くのか」
低く割って入ったのは、第二皇子ヴァンだった。壁にもたれたまま、鋭い視線を向けてくる。
「断ることもできるはずだ。お前は王族で、俺たちの弟みたいなものだから」
苛立つような声音の中にも、リヨンを家族のように想い心配していることがわかる。
それでもーー。
「……いえ」
俺は静かに首を振る。
「これは王命です。従うのが務めですから」
その言葉に、イリーナの顔が歪む。
「そんなの……ただの、使い捨てじゃない……!」
胸の奥が、わずかに軋んだ。
だが、それを表に出すことはない。
自分は王族であって、王族ではない。
守られる側ではなく、差し出される側の人間だ。
「ご心配には及びません」
穏やかに微笑み、二人から視線を外す。
――それで国が保たれるなら、それでいい。
俺は静かに息を整える。
そして、冷酷王ヴィルユーグのもとへ赴く決意を、改めて胸に刻んだ。
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