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1:日なたの狐

The Sunlit Fox  朝の新宿駅の喧騒から少し離れた路地裏に、都会に見合わない緑が溢れている。淡い色の葉をつけたオリーブの枝と、深い緑のヤマブドウの蔓をまとったその店の入り口に、「花屋」と潔く書かれた看板が立て掛けられていた。店先には色とりどりの草花が並び、冬を越したキタテハが橙色の羽を鈍く翻して、ひとつガーベラを揺らした。  くたびれた表情を隠そうともしない男、穂高(ほたか)は通りがかりにふと、その緑あふれる店先で足を止めた。足元にはミヤマオダマキに似た青い花が鉢に植えられていた。彼は高山植物がこんなところにあることに驚きつつ、静かに表情を緩ませた。 「いらっしゃいませ」  そこに店員が店の奥から出てくる。日なたぼっこをするキツネのような顔をした、柔らかい声の男だった。樺茶色の前髪とチャコールグレーのエプロンがふわりと風に揺れた。 「こんにちは。……あ、その子、ブルースターっていうんです。綺麗な青ですよね。ちょうど、昨日うちに来たんです。よかったら見ていってくださいね」  穂高はその鉢の前にしゃがみ込んだ。触れはしない。指先がわずかに花の周囲をなぞるように浮かぶ。 「……これ、ミヤマオダマキですよね。北アルプスで見ました。風が強い稜線に、ひっそり咲いてた」  その呟きはどこか寂しさを孕んでいた。店員は少しだけ驚いたように瞬きを繰り返したが、しかしすぐに穏やかな眼差しへと戻る。その虹彩はヤマブキの花を溶かしたような琥珀色をしていた。 「お詳しいですね。山、やってる方ですか?」  穂高は柔らかく息を吐いた。顔を上げて首を横に振る。 「いえ……昔、山で働いてたんです。今は、まぁ……芝刈ったり、柵の補修したり」  彼は自嘲気味に笑うが、店員はそれに同調するでもなく、否定するでもなく、ただ頷いた。 「芝の手入れ、難しいですよね。気温とか土とか……山の植物と違って、面倒をみてやらないといけなくて」  花の香りと、店先を流れる都心の空気。新宿の澱んだ喧騒の端で、山の記憶が小さく芽吹いていく。穂高は記憶を振り払うようにゆっくりと瞬きをした。  立ち上がり、落ち着いた雰囲気の店内を眺める。所狭しと並べられた花はどれも瑞々しい。窓辺には小さな鉢が置かれ、天井からはドライフラワーが吊るされ、まさに花に満ちた空間だった。通勤路の一つ隣の道に、こんな店があったのかと改めて実感する。 「ここ、『花屋』って名前の花屋なんですか?」 「そうなんです、わかりやすいでしょ? あ、店主の葦野(あしの)です。お店は木曜から日曜にオープンしてるんで、いつでも来てください」 「ああ、どうも……。穂高です。そこの御苑で働いてるんで、……また、来ます」  流れで名乗ってしまった。いち客の名前なんてどうでもいいだろうに。そう思った穂高だったが、葦野のやはり日向ぼっこしているキツネのような顔がふにゃっと綻ぶのを見て、まあいいか、と思考をやめた。  キタテハがよろよろと羽を動かし、日差しの暖かさに誘われるように町を渡っていた。 ーー  とっぷりと日が暮れ、新宿は夜の顔に変わる。静かな裏通りにも、繁華街の賑やかな音が足元から伝わってくるようだった。そろそろ店じまいだと、葦野は帳簿代わりのタブレットを置いて立ち上がった。  夜風に揺れる鉢植えのパンジーを店内に戻し、生花店「花屋」の看板を仕舞おうとしたその時だった。街頭がぼつねんと光をともす店先に、小さな足音がぱらりと落ちるサクラの花びらのように近づいてくる。 「あ……こんばんは」  その声に葦野が振り返ると、街灯の下に見覚えのある黒髪の男が立っていた。 「穂高……さん?」  覚えてるんですか、と穂高は切れ長の目を見開いた。半月ほど前に店前で会った男のことを葦野は覚えていた。山の花の名前に詳しく、どこか疲れが浮かぶ表情が印象に残っていたのだ。今は仕事終わりなのか、彼が纏うのは芝色の作業着、細身のカーゴパンツ、トレッキングシューズ。その上に黒いトレンチコートを羽織ってどこかちぐはぐな格好だ。さらに走ってきたのか、癖のついた前髪が少しだけ乱れていた。山の空気を纏ったまま、街に紛れ込んできたような不思議な存在感だった。 「まだ開いてる、大丈夫ですか……?」 「ギリギリ、ですね。滑り込みセーフです」  そう言って笑うと、穂高も少し照れたように口元を緩めた。  思いがけない再会だった。一度言葉を交わしただけの、連絡先も知らない、けれど忘れていなかった顔。それが、自分の花屋をわざわざ訪ねてくれた。胸の奥がふわりとあたたかくなって、葦野は思わず笑ってしまった。  穂高からは、かすかに土の匂いがする。森を歩いてきた足音が、まだこの人の背中に残っているようだった。 「仕事が土日休みで、明日は来れないので……開いてて、助かりました」 「それは閉めなくてよかったです」  声が思ったよりやわらかく出て、自分でも少し驚く。  穂高は、きまり悪そうに笑って頭を掻いた。 「……あの時の青いオダマキ、購入しようと思って。ブルースター、でしたっけ?」 「わ、ありがとうございます。今ちょうど花数が増えてきたところなんです。見ますか?」  葦野が誘うように小さくうなずくと、穂高は店先に歩み寄ってきた。  ふと彼の視線が店頭に佇んでいたピンク色の切り花に吸い寄せられる。 「……ナデシコ?」 「やっぱり詳しいんですね。この子は原種のカワラナデシコに近いタイプで、暑さに寒さにもけっこう強いんですよ」  淡いピンクの花弁が、夜の風にそよいでいた。葦野は花の横に腰を落とし、花筒を回して穂高の目線に合わせた。 「……タカネナデシコは、白馬の裾野で見たことがあります。もう少し、花びらが細くて……色も、もっと薄かった」  言葉を選ぶようにゆっくりと話す穂高の声には懐かしさが滲んでいた。きっと彼が今見ているのは、この花ではなく、森を抜けて、風に揺れている野の花の姿だ。真夏でも雪を纏う高山を湛えた草原に佇む、ピンク色の可憐な花。 「……でも、こうして街で咲いてくれるのも、ありがたいもんですね」  穂高の訥々とした、けれど隠しきれない寂しげな声に、微かに熱が籠る。その言葉に、葦野の心が風にくすぐられるサクラの花のようにふわりと揺れた。  この人は、花の名前を覚えていてくれるだけではない。場所、風の匂い、咲いていた空気ごと記憶にとどめている。花の姿を通して思い出す風景があるということを、自分もまた知っている気がした。思わず葦野も目を細める。 「わかります。人が暮らしてる場所に、季節のお花がいてくれるって、ほっとしますよね」  そう言って、葦野はナデシコの入った花筒を風の当たる位置に動かした。  タブレットでレジを立ち上げ決済を終える。穂高は何も言わず物珍しそうに店内を見回していた。葦野はその様子をちらりと確認しながら、ブルースターの鉢に緩衝材を巻き付けた。 「うちは、市場で仕入れた切り花とか園芸品種の鉢植えがメインだけど、ときどき知り合いの花農家さんとか山野草育成家から変わり種が届くんですよ」 「へえ……面白いですね」  穂高はレジ横に枝葉を伸ばすツルウメモドキを観察していた。秋になれば赤と黄色の実が美しく輝く植物だが、今はまだ葉が出てきたばかりのただの蔓だ。穂高は園芸種よりも野草に目が行くらしかった。葦野は静かに目線を手元戻して口を開く。 「そういえば、明日はお休み?ご自宅はどの辺なんですか?」  ブルースターをクラフトの紙袋にそっと入れ、その花と同じ色のささやかなリボンをつける。 「小金井あたりです」 「えっ!ぼく、最寄り武蔵小金井なんですよ」 「そうなんですか?うちは東小金井です。近いですね」  穂高のはにかんだような笑みは、どこかいたずらな子供のようだった。口元が柔らかく揺れ、肩の力が抜けているのが分かる。人混みの中で疲れた顔だった一度目とは違って、どこか柔らかな雰囲気を纏う穂高に、葦野の微笑みも深くなる。  ブルースターを手渡す。触れた手は暖かかった。 「ありがとうございます。……閉店間際に長居してしまってすみません」 「寄ってくれて、うれしいです」  素直な言葉だった。しかし急に頬が熱くなり、葦野はごまかすように店先に出されたままの花筒を店内に入れた。穂高は何も言わずに、右手に下げたブルースターに視線を戻す。紙袋に入れられた青い花は、微かに緊張するように蕾を揺らした。 「お世話様でした」 「あ、はい、ありがとうございました。あ、ちょっとまって」  葦野は花筒から一輪のナデシコを取り上げる。エプロンで水気を取ると、それを穂高の持つ紙袋にそっと挿した。 「え……」 「小一時間ならそのままでも大丈夫。家についたら、お水に入れてあげてください。そのまま吊るしてドライフラワーにしても綺麗ですよ」  戸惑う穂高に笑いかけた。花を通して彼が見る風景の美しさ。この可憐なナデシコの原風景を見せてくれた彼への礼に。 「ぜひ、また来てください」  小さく、でも確かに頷いた穂高の黒いジャケットが夜に溶けていく。トレッキングシューズからこぼれ落ちた小さな土のかけらが、彼の落とし物のように店先に残されていた。  都会の空の下で、少しだけ、風が森を通ったような気がした。 【生きものメモ】 :ホンドギツネ(本土狐) 食肉目・イヌ科・キツネ属に分類される哺乳類。アカギツネの日本固有亜種。 全体に明るい赤褐色から黄褐色をしており森林から里山、農耕地にかけて広く生息し、近年では都市部の緑地や公園でもその姿が確認されている。

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