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4:紫陽花
anthocyanin
昼下がりの汐留駅。ツバメの雛の甘えるような鳴き声が改札口に響いていた。ツ、と黒い墨を引くように親鳥が音もなく巣へと戻る。穂高はその様子をぼんやりと眺めていた。
「ごめんなさい……!」
休日の長閑な空気の中に響く声に、人々が振り向いて道を開ける。穂高もつられるように顔を上げると、葦野が息を切らしながら駆け込んできた。
普段のゆったりとした服ではなく、きちんとしたベスト姿の葦野に、穂高は一瞬だけ驚き、すぐに眉尻をやわらげる。磨かれた革靴が固い音を立てて目の前で止まった。
「葦野さん、そんなに急がなくて大丈夫ですから……、大丈夫?」
「はあ……っ、すみません、ほんと……」
「大丈夫だから。なんでそんなに走ってきたの」
息を整えながら乱れた前髪を撫でつけ、葦野は平謝りする。
「……ごめん……路線図、苦手で……」
「ああ、僕もそんなに得意じゃない。東京の地下鉄は迷路ですもんね」
ようやく落ち着きを取り戻した葦野は、汗を拭きながらふと穂高の装いに目をとめた。
濃紺で細身のトラウザーズに白いワイシャツ。片手にはシンプルな黒い鞄。普段の芝色の制服とカーゴパンツ姿からは印象ががらりと変わっていた。
「……あ、穂高さん、今日スーツなんだね」
似合ってますね、と笑いかける。
「うん、今日は本省に出張で」
「ホンショウ?」
「霞ヶ関の、事務所」
「あ! 本部ってこと!? 霞ヶ関……ほんとに国の役人なんですね……」
「はあ、まあ……一応ね。葦野さんも、すごく綺麗な格好してるけど」
葦野は穂高よりさらにフォーマルな装いをしていた。こげ茶を基調とし、タイピンやハンカチに鈍い金の差し色を効かせている。夏用の涼しげな生地なのに、どこか気品が漂っていた。袖口からのぞく指先まで整えられ、普段の花屋姿ではなく、まるでどこかのパーティに招かれた貴族のように見える。
「うん。今日はホテルのロビー装花のお披露目があって」
「そうだったんですね。見てみたいな」
「えへへ、こんなかんじ、なんですけど…」
差し出されたスマホの画面には、色とりどりの花々がロビー一面に広がる写真が映っていた。背景に見える内装と庭園からしても、都内でも有数の格式高いホテルだとすぐに分かる。
「……すごいな」
フラワーアーティストとして活動しているとは聞いていたが、思った以上に大きな舞台で仕事をしているのだと知った。花屋で見る姿とはまた違う一面に、穂高は素直に息を漏らした。葦野はその横顔を見つめ、照れくさそうに微笑んだ。
ーー
浜離宮庭園に足を伸ばすと、アジサイの群落が迎えてくれた。梅雨の晴れ間ということもあり、園内は花を楽しむ人々でにぎわっている。スーツ姿の男ふたりという取り合わせはやや場違いで、少し気恥ずかしい。それでも並んで遊歩道を歩けば、不思議と肩の力が抜けていった。
「浜離宮って徳川家の大名庭園だったんだね。知らなかった」
「うん。東京の大きな公園は、大体そういう庭園が多いですね。新宿御苑も皇室の持ち物だったし……だったかな」
「んふ、あんまり興味なさそう」
「バレたかあ」
色とりどりのアジサイが咲き誇る。午後の陽を受けて、青い花房がきらきらと輝く。爽やかな海風が庭園の中を吹き抜け、その間をコオニヤンマが静止するように細かく羽を動かしていた。
「それにしても、一面のアジサイ、綺麗ですね。青くて」
「……うん」
穂高が足を止めてそう言うと、葦野は一瞬、目を細めて頷いた。
「青と赤で並んで咲いてるのも、面白いな」
「あ、あ……ほんとだ……。ちょっと色合いが違いますね。うん、うん、かわいい」
葦野は目を細め、じっとアジサイを観察した。赤紫と青紫の花房を交互に眺め、それから腰をおろして目の前の花に顔を近づける。
「アジサイって、花に見えるところは、萼なんですよね」
アジサイの青い萼をそっとなぞりながら葦野は柔らかくつぶやく。
「ああ、そうですね。真花が目立たないから、萼を大きくして虫を引き寄せてる。装飾花とも呼ばれてましたっけ」
「あ、やっぱり詳しいですね」
「まあ、一応……植物が専門だから……」
「こういう話が出来るの、嬉しいです」
葦野はアジサイのしっとりした感触を指先で確かめ、最後に鼻を寄せた。
「うん、雨の匂いがする」
「アジサイって、匂いします?」
「しないです」
「なんだ」
肩を揺らして笑う彼につられて、葦野も口元を緩めた。
遊歩道を抜けると、堀に出る。海水を含んだ水面に、ウミネコがぷかりと浮かんでいる。
「こっちの群落は、見ごろを過ぎちゃったかな。もう緑になってる」
「ほんとですね。咲くのも散るのも、あっという間だ」
アジサイの葉の青々しさを眺めながら、穂高が問いかける。
「花屋ではアジサイ、よく使うんですか?」
「ええ。色も品種も多いので、アレンジには欠かせないですね」
先程、写真で見せたホテル装花の話に葦野が触れると、穂高は切れ長の目を丸くして驚いた。その驚きから自然に、今度はアジサイの原種や野生の群落の話へと移っていく。
立場は違えど、どちらの根底にも花を愛する思いがある。そのことを確かめるように語る穂高の横顔を見て、葦野はふと胸の奥が温かくなるのを感じた。
雲の切れ間から差す光が、スーツ姿の彼の横顔をやわらかく縁取っていた。
ーー
「葦野さんは、飲み物は?」
「えーと、せっかくだしワインにしようかな……赤でお願いします」
「いいね、じゃあこれとこれと…」
食事時で混み合う汐留イタリア街の中を、二人はなんとかバルに滑り込んだ。案内されたカウンター席は狭いながらも、暖かな裸電球の光とワインの瓶やグラスであふれ趣があった。ピザ窯の熱気によってオリーブオイルやニンニクの香りが運ばれ、その食欲を誘う香りに待ちきれないと息が漏れる。
「ピザなんて久しぶりに食べるかも」
「うん、僕も。楽しみだな」
グラスにワインが注がれる間、二人の話題は自然と浜離宮での散策に戻っていった。アジサイはもちろんのこと、ハナショウブやギボウシなどの見ごろの花や、穂高が見つけた昆虫や野鳥の観察も楽しんだ。
「今日は、会えてよかったです。楽しかったですね」
「うん。アジサイも綺麗だった」
「あ、そういえば、アジサイの色って土壌の酸性度で変わるじゃないですか」
葦野がワインを受け取りながら切り出すと、穂高はうん、と頷いた。
「さっき、アジサイの色合いが少しだけ違ったように見えたんですけど、あの微妙な差も土壌の違いなんですかね?」
「少しだけ……?どのへんのアジサイ?」
「ハナショウブが近くにあった気がする」
タイミングよく、テーブルには店の定番のマルゲリータと、季節限定のアサリとソラマメ、ルッコラのピザが並べられる。チーズの香ばしい匂いが立ち上った。穂高は切り分けながら、続けて答えた。
「ん? 赤と青のアジサイが並んでたところかな」
「そうでしたっけ?」
葦野は首を傾げる。 花の種類の多さに、記憶が少し曖昧になっているようだった。そんな彼の様子を気にするでもなく、穂高はアサリのピザに大きくかぶりついた。
「うま……。……まあ、日本は火山の多い国だから、酸性の土壌が多いんです。だからアジサイはほとんど青色になる。赤いのは、人が石灰を混ぜてアルカリ性にしてる場合が多いですね」
「なるほど……火山が。多くの花の赤や青はアントシアニンの発色ですよね。それが土壌の成分に反応して色が変わるって、不思議で……魔法みたい……」
穂高は目を丸くした。
「よくご存じですね」
「これでも花屋なので」
葦野は照れ隠しのように肩をすくめて、マルゲリータを口に運んだ。
「ほんと、この世界って科学で出来てるんだなあって思うよ」
穂高はグラスを軽く傾け、赤ワインをひと口含んだ。
「そういえば、このワインの赤もアントシアニンの一種ですよね」
「そうなんですか?」
「ぶどうの皮に含まれてるんです。ブルーベリーと同じ。抗酸化作用があって、目にも良いって言われますね」
「へえ……花も果実も、同じ色素でつながってるんですね」
葦野はグラスの中の赤をじっと見つめる。先程庭園で見たアジサイの青や赤の花房と、頭の中で重ね合わせていた。
食事を楽しみ、会話がひと段落したところで、葦野がふと思い出したように問いかける。
「そういえば穂高さんって、青色が好きなんですか?」
「え?」
「ウェアとか、たぶん、青が多い気がして」
「あー……言われてみれば、……確かに。うん、青い山並みとか、好きかな。花も」
穂高は言葉を選ぶでもなく、素直に口にした。どこか歌を紡ぐようなご機嫌な声色だった。
「穂高さん、ちょっと酔ってます?」
「え?酔ってないよ。まあ、でも……都会でスーツ着て疲れたのかも。……そろそろ帰ろうか、僕たちの小金井に」
「んふ……そうですね。一緒に帰りましょう」
明日はお互い休みだ。どちらかの家で飲み直すのも悪くないかもしれない。葦野はさっそく、そう提案するべく、並んだ椅子を少しだけ穂高の方に寄せた。
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