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3:薊

Thistle  イヌガラシ、ウシハコベ、カラスウリ。  動物の名前がついた植物は、案外多い。  葦野は膝の上に広げた植物図鑑のページを指でなぞりながら、そんなことをぼんやりと思っていた。  役に立たなければ「要らぬ」。それが訛って「イヌ」。他の種と比べて大きければ「ウシ」や「ウマ」。さらに同じ種の大きさで比べて大きければ「カラス」、小さければ「スズメ」。植物に動物の名前を付けるなんて、つくづく人間は自分勝手だ。  さらにひどいのが、過酷な環境下で咲く「ハキダメギク」。茎に棘を持った可憐な「ママコノシリヌグイ」。誰だこんなリスペクトのない名前を植物に付けたやつは。本当に継子の尻を拭ったのだろうか。とんでもないやつだ。  葦野は喉の奥で笑い声を漏らしながら図鑑を閉じた。腰かけていたベッド越しの窓からは、暖かい日の光が射し込んでいる。さわさわと新緑を揺らす風がベランダの洗濯物をくすぐり、部屋のカーテンを巻き上げていった。  手元の図鑑は、友人である穂高からのお下がりだった。表紙の角が少し丸まっていて年季は入っているが、ページには折り目ひとつなく、丁寧に扱われていたことがわかる。  ある時、葦野が「野の花の知識も欲しい」とぽろっと漏らしたら、彼はすぐにそれを手渡してくれた。 『よければ使ってください。だいぶ古いけど、花の色で分かれてるから使いやすいと思うし。面白かったら、自分に合うのを買ってください』  その時の、少し照れたようなはにかみ顔が思い出されて、胸の奥に蕾が付くような暖かくくすぐったい気持ちになる。穂高とは一か月ほど前に知り合った仲だ。同い年で、職場が近くて、家も近所。良くすれ違うから、いつの間にかすっかり仲良くなってしまった。  世間はゴールデンウィークの真っ只中で、窓の外からは、駅へ向かう若者や公園に向かう親子連れの賑やかな声が聞こえてくる。葦野はベッドにごろりと寝転び、なんともいえない春の心地よさを、身体いっぱいに感じた。生花店を営む葦野はあまり連休にはこだわらないが、たまには世間に合わせて羽を伸ばすのも悪くない。 「……公園かぁ。久しぶりに川沿いを散歩するのもいいかも」  ふと、また穂高のことが思い浮かぶ。公務員の彼も、連休は休みのはずだ。  スマートフォンのアプリを開くと、最後のやりとりは二日前だった。 『今日はお休みですか? よかったら、午後にでも野川公園にいきませんか?』  送信してから、なんとなく唐突だったかと気になって、すぐに追加でメッセージを送ると、すぐに既読が付いた。 『この前の図鑑のお礼に、お昼一緒に食べませんか? ごちそうさせてください』 『気にしなくていいのに。野川公園、久しぶりに行きたいです。いま朝食を食べているので、お昼はまた今度ぜひ。十三時に公園の前で。』 「おそっ、もう昼…!」  葦野は笑いながら、南中に差し掛かろうとする陽に手をかざした。光が指の隙間を通り抜けて、肌にぬるく降り注いだ。 ーー  西武多摩川線の線路沿いには、野鳥観察用のハイドがある。カシの木立に囲まれたその静かな一角に、見覚えのある後ろ姿を見つけた。 「穂高さん、すみません、お待たせしました」 「ああ、葦野さん。お疲れ様です……? こんにちは、か」 「はい。こんにちは。鳥もお好きなんですか?」 「うーん、そこまでではないです。何か見られるかなって」 「いました?」 「カラスがいました」  冗談とも本気ともつかないその返しに、思わずふたりの口元が緩む。その間に、春の午後の柔らかな空気が溶け込んでいくようだった。  野川公園はその名の通り、多摩川支流の野川に沿って広がる自然豊かな公園だ。川沿いにはクワの木が生え、歩道を挟んで背の高いヒマラヤスギやアカマツが並ぶ。その向こうには、広々とした芝生の広場が明るく広がっている。休日ということもあり、レジャーシートを広げる家族連れの姿で賑わっていた。子どもたちの声や楽器の音が風に運ばれてくる。 「もう少し行った先に自然観察園があるんです。よかったらそこに行きませんか」 「へえ! 行きたいです。実はちゃんと来るの初めてなんです」 「そうでしたか。それはぜひ行きましょう。季節の花が見られるんですよ」 「わー楽しみだな」  今はクリンソウとか、ゲンゲが綺麗なんじゃないかな、と春風のようなぼんやりとした穂高の声に葦野は相槌を打ちながらのんびりと歩みを進める。アスファルトではなく、芝を踏みしめる柔らかい感触が心地よい。緩やかな川の流れと、草木の揺れる音。そんな中で、不意に穂高が立ち止まって川に目を向けた。 「あ、カワセミだ」 「え? カワセミ?」  穂高が指先を向ける先に葦野が目を凝らすと、川の縁に鳥の影が羽ばたいているのが見えた。その影はクワの枝の間を泳ぐように移動していく。ピピピピ、と軽やかな笛の音のような鳴き声が後に続く。 「鳥です。青くてすごく綺麗なんですよ。カワセミって清流にいるイメージですけど、最近は都会にも進出してるみたいです」 「へえ……青い鳥かあ……! 強かですね」 「ですよね」 「鳥詳しいじゃないですか!」 「いや、これくらいしか知らないです、本当に」  そんなやりとりを交わしながら、ふたりはのんびりと歩き続ける。時折、木々の間をすり抜ける風が服を揺らした。好きな鳥は、連休は何をしていたのか、朝食は食べないのか、葦野の問いに穂高の応答が穏やかに繋がっていく。 「公園日和ですねえ」 「ですね。日差しが暖かい……というか、暑い」 「穂高さん、長袖暑くないですか」 「ああ……大丈夫です。薄いやつなんで。日に焼けたくないし」 「確かに今日は日に焼けそう」  穂高は照りつける太陽に目を細める。彼の纏う黒いソフトシェルジャケットは一見暑そうだが、アウトドアブランドのロゴが控えめに入っていて、きっと通気性にも優れているのだろう。 「あと、蚊に刺されるかも」  対して葦野は、ゆったりとした麻の半袖シャツを着ていた。穂高は斜めがけのボディバッグから小さなスプレーボトルを取り出した。 「ハッカスプレー。肌がスースーするけど、大丈夫ですか?」 「あ、大丈夫です」  穂高は自分の袖口と、葦野の服の上から軽くスプレーをかけた。風に乗って、爽やかなハッカの香りがスッと鼻をくすぐる。 「ありがとうございます。いい香り〜。涼しいですね」 「これが虫よけに一番いいんですよ」  笑いながら並んで歩くふたりの足元には、小さなシロツメクサが咲き乱れていた。 ーー  自然観察園は木立の中にあって、ひんやりとした空気が漂っていた。スダジイやクスノキの新緑の葉が天井のように頭上を覆い、木漏れ日がぽつぽつと木道を照らしている。光と影がまだら模様を描きながら、森の静けさを一層際立たせていた。足元にはシャガやクリンソウが花開き、緑陰を一層にぎわせている。 「へえ、こんなところが……すごい、木が大きいですね」  葦野が見上げて目を丸くする。満足そうに笑う穂高と並んで木道を歩きながら、森の中にある色とりどりの草花を探して視線を走らせる。 「あ、オドリコソウだ」  穂高がふと立ち止まり、白い花に目を留めてしゃがみ込んだ。細くて柔らかな茎の上に、小さな白い花がいくつも並んでいる。どこか控えめで、けれど自信のある佇まい。 「花屋にはありますか?」 「ううん、あ、でもラミウムに花の形がちょっと似てるかも」  穂高の問いに葦野は首を振り、彼の隣にしゃがみこんだ。目線を合わせて花を見つめると、表情がふんわりとほどけていく。その花はまるで茎に白いシュシュを何個もつけたような形だ。可憐で、それでいてどこか野性味もある。 「オドリコソウ」という名前の響きには、名付けた人の花への親しみがにじんでいるように思えた。きっと、この花が好きだったんだろうな。葦野はうんうんと納得するように頷いた。 「園芸種と野生の花って、意外と遠くないのかな」 「そうかもしれませんね」  穂高の呟くような声に葦野は優しく答え、木漏れ日の中で揺れるオドリコソウをそっと指先でなぞるように見つめた。白い花ではハナバチや小さなアブが蜜を集めて忙しなくうごめいていた。  しばらく歩いた先で、葦野がまた声をあげた。 「あ、これは……アザミ? うちの店でも時々置きますよ」  彼の指差す先に、淡いピンク色の小さな花が咲いていた。アザミのようでいて、少し違う。細長い茎の先に咲くその花は、背が高く、花の下部には棘のようなものも見える。 「これはキツネアザミ。アザミに似てるけど、実はアザミの仲間じゃないんです。キツネに摘まれたようなアザミ…ってことで、キツネアザミ。まあ、諸説ありますけど」 「わ、出た、キツネ!」  葦野がどこか非難するような声を上げた。しかしその調子は、普段と同じ微かに甘くざらついた声のままだ。穂高は軽く首を傾げる。 「出た?」 「穂高さんに貰った図鑑、見てたんですけど、結構、動物の名前が入ってる植物が多いなあって思ったんです」 「あー…あるあるですね」 「植物なのに動物の名前って、なんかオリジナリティがないというか…」  葦野が少し悔しそうに言うと、穂高は小さく笑って肩をすくめた。 「でも…ヘクソカズラとかよりはマシなんじゃないですか?」 「で、出た!」 「また?」 「さっき見たんです。えっと、ハキダメギクとか…ママコ……」 「ママコノシリヌグイ?」 「そう!それです!……お花は可愛いのに、なんでこんな名前にしちゃうかなっていうか……お花が可哀想に思えちゃって……」  葦野がぷくっと頬をふくらませながら言う。立ったままだと背の高い彼が、しゃがんで地面に咲く小さな花をのぞきこむ姿は、どこか頼りなげで子供の様だった。その顔を見て、穂高の胸に温かいものがじわりと満ちていく。少年のような純粋さがこぼれるその表情に、言いようのない愛しさが込み上げた。 「なんだか、花を愛す葦野さんらしい、素敵な言い分ですね」 「……穂高さんだってお花が好きでしょ?」 「まあ…そうですけど……」  穂高は話をそらすように、地面近くを指差した。目を凝らせば、どれも小さいが様々な種類の植物が地表に息づいているのが見えた。その中の、深い緑色がつやりと光沢を地面に広げる小さな葉。 「あれは……チドメグサ。古くは止血に使われた薬草です」  続けて、別の小さな白い花を指す。目を凝らせば、五枚の花弁の奥は淡く紫色に色づきが見えた。 「これはゲンノショウコ。漢字で書くと『現れる』に『証拠』。飲んですぐに効果が現れるからそう呼ばれてます。これも薬草ですね」 「へえ……」  葦野は穂高の指先をじっと追いながら、感心したように相槌を打つ。 「つまり、植物は昔から人間に利用されてきたってことですね……目で楽しむだけじゃなくて、食料や薬にもなって。一部は毒になったり、役に立たなかったりするけど……結局は人間の都合ですけどね。その植物がどんなやつなのかって、分かりやすいようにラベリングしてきたのかもしれません。まあ、全部僕の考察ですけど……」  口元をわずかに引き結んで、穂高は葦野を見た。  葦野はしばし、ぽかんと穂高を見つめていた。そして、花を愛でるように柔らかく笑った。 「前から思ってたんですけど、お花の話するときの穂高さんって、可愛いですよね」 「……は? え? ……はあ?」  唐突すぎる葦野の言葉に、思わず穂高の声が裏返る。その声に驚いたのか、キジバトが音を立てて飛び立っていった。わずかな羽音を残して、また静寂がやってくる。 「いや、あの、変な意味じゃなくて! 普段よりちょっとおしゃべりになって、楽しそうで……なんか、とてもいいなあって」 「おしゃべり……」  穂高は思うところがあったのか、恥ずかしそうに視線を逸らした。耳の先まで赤くなっている。どうしても、植物のことになると周りのことが見えなくなってしまうことがある。しかし、このまま押し切られてばかりではたまらないと、葦野の緩く弧を描く眼差しをじっとりと見つめた。 「……葦野さんも、『お花』って言うの、可愛いですよ」  葦野は、何でもないことのようにふわっと笑った。まるで花が綻ぶような微笑みだった。  その笑顔に、春の木漏れ日がふわりと降り注いだ。 【生き物メモ】 :カワセミ(翡翠) ブッポウソウ目カワセミ科カワセミ属に分類される小鳥。 腹はオレンジ色で、背はコバルトブルーに輝く。空飛ぶ宝石と例えられる。日本全国の川や湖沼に生息し、魚取りを得意とする。

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