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6:青滾々

The Deep Blue Stirs  盆を過ぎても一向に気温の下がらない東京新宿。高層ビル群に堰き止められた海風が停滞してぬるく町をかき混ぜ、気温は上がる一方だった。  穂高は休日の混み合う電車から抜け出して短く息を吐いた。改札に向かって真っ直ぐに歩き出すその顔は物憂げで、その理由が暑さだけではないことは目に見えていた。ポケットからスマートフォンを取り出すと画面を確認し、またすぐにポケットに仕舞う。そして雑踏から逃げるように早足でたどり着いたのは、裏通りにポツンと佇む生花店。静かな裏通りにはスズメの巣立ち雛の声が賑やかに響く。 しかし、緑色のシャッターが下りた店頭に、緑の気配はなかった。 「臨時休業……」  生花店「花屋」のシャッターに、几帳面な文字で書かれた張り紙が貼られていた。 《 誠に勝手ながら、暫くの間臨時休業とさせていただきます―― 店主 》  この店の店主であり、穂高の友人である葦野との最後のやり取りは、一週間前のメッセージで止まったままだった。最近はほとんど毎日何かしらのやり取りをしていたのでこんなにも返信が来ないのには違和感を覚える。メッセージの内容も普段と変わらないもので、何か気に障らせてしまうことがあったとは思えなかった。昨晩の通話発信にも折り返しは未だ来ていない。休日を使って店に来たが、ここに彼はいないようだった。  何かあったのだろうか。  そう思った穂高は、葦野の自宅へ向かうべく、来た道を戻ることにした。 ーー 「開いてる…」  武蔵小金井駅を降りて徒歩数分。葦野の住むアパートは神社の裏手にあり、外階段まで入り込んでいる木の枝で鬱蒼とした雰囲気に包まれている。  インターホンに反応はなかったが、取手を引くと軽い手応えとともに扉が開いた。途端に空調の効いた涼しい空気と、花の香りがふわりと押し寄せた。  「入るよ!」 と声をかけて靴を脱いで上がり込む。花の銘柄が描かれた段ボールが転がる玄関を抜けて居間の扉を開ける。ソファーには脱ぎ捨てられた衣服が置かれ、机には本や書類が乱雑に積み上げられていた。  相変わらず物は多いが汚れている印象はなく、不思議な居心地の良さがある部屋だった。穂高のつま先に、どこからか舞い落ちた花弁が付いた。 「岳くん?いる?」  居間の隣にある葦野の作業部屋兼寝室の扉を開けると、途端に大量の青い花が視界に飛び込んだ。キキョウ、リンドウ、ヤグルマギク、ラベンダーにルピナス、むせ返るような生花の香り。 「岳!」  その中で彼は蹲っていた。手のひらでで目元を覆うようにして、まるで溺れるように。  床に倒れこんでいるようなその姿に、一瞬だけ穂高の胸の奥が冷たくなる。 「……見えない……」  か細く漏れた葦野の声に、穂高はようやく息を吐いた。よかった、彼は生きていた。生きている。けれど。 「岳、岳くん……? 大丈夫?」  その声に、ゆっくりと葦野が顔を上げた。随分とやつれた顔をしていた。 「……あ……? 泉さん……?どうして……、あっすみません……散らかってて……締め切り前で……」 「いや、大丈夫。勝手に上がってごめん」  部屋の主の顔に、いつもの陽だまりのような笑顔はなかった。代わりに、ひりひりとした焦燥が張り付いている。まるで、雪の中を必死で狩りをするキツネのような、鋭い金色の目。穂高はその視線にどきりとしながらも、笑顔をつくる。 「…その、……良かったら、一緒に夕飯食べませんか。作りますんで」  葦野の返事を待たずに、穂高は台所へ向かった。何度か来ている部屋だ。勝手知ったる、友人の部屋。  こんな時は、とりあえず食べさせよう。何事も体が資本だ。手負いの野生動物だって、腹が膨れれば尻尾を振ってくれる。山の男のそんな直感だった。 ーー  穂高は葦野の家の台所でてきぱきと働いていた。底の深いフライパンに水を張り、コンロのスイッチを入れる。  それにしても、「見えない……か」 完成形が見えないのだろうか?ほんとにプロなんだな。アーティスト…大変だよな……。  穂高は手を動かしつつも頭の中は先ほどの青い部屋のことで一杯だった。  葦野の生業は生花店だけではない。色とりどりの花を自在に操り手掛ける彼のフラワーアート作品は、国内で高い評価を受けているのだという。生花店の仕事をしつつ、時には百貨店やホテルの装飾や都内のイベント装飾も手掛けているようだった。作品は葦野本人に写真で見せてもらったことがあるが、芸術に疎いと自覚する穂高にもその素晴らしさは分かる。店に並ぶ葦野手作りのミニブーケですら、宝物のように美しいのだ。  穂高は買ってきた食材を手にとりながら考え続ける。見たことがない程の大量の青い花。その美しい花々は、練習用に仕入れたのだろうか。  「すごいなあ……」  青といえば、そういえば。  パスタを茹でるための湯を沸かし、トマトを切る。ウリカボチャ、オクラ、ナス。職場からお裾分けでもらってきた、青々と艶めく野菜。 『野菜って、緑色なのに。なんで青いって言うんだろう』  いつだったか、八百屋の前で、ぼんやりとつぶやかれた葦野の言葉を思い出す。確かに。と穂高はその思い出の中の声に相槌を打つ。葦野は、当たり前と見逃してしまうような物事の意味や、何気ない言葉の奥に見える風景にキラキラとした視線を向ける。それが穂高が彼を面白く、そして好ましく思うところでもあった。  彼との出会いはミヤマオダマキの鉢植えだった。「青くて綺麗」と彼が言った「ブルースター」。今も自宅の日当たりの良い窓辺に置かれたその花の色はどちらかというと深い紫色に近い。 「あ……」  休日にふたりで飲んで、アサガオやアジサイの色の奥深さについて朝まで語り合った日。待ち合わせに大幅に遅れて来て平謝りする葦野が、地下鉄の路線図を読むのが苦手なのだと口を震わせた時。初めて見るという美しい色のカワセミに無反応な視線。高曇りの空を見上げて「空がきれいで良い天気だ」と呟いたその声。  その断片が、一本の線のように、穂高の中で繋がっていく。 ーー 「ごめんなさい、スマホの充電が切れていたのに気付かなくて…」  食後、作業部屋で肩を落としたままの葦野の顔には、ようやく少しだけ色が戻っていた。穂高はいいよ、と緩く首を振る。 「今回はどんな依頼なんですか?」 「……いつも良くしてくれてる取引先の、知り合いの、結婚式のお花。……その人は青が好きで。屋外に置く、夏の空に会うような青い花をいっぱい使った装飾花をお願いされてて……」 「青……」 「……迷走中……です……」  葦野は力なくへらりと笑った。あまり寝ていないのか、強く擦ったのか、目元が赤い。色素が少し薄い彼の虹彩は薄暗い部屋の中で鈍く揺らめいていた。彼が普段どんな世界を見ているのか、穂高には想像すらできない。 「青は……僕も好きです」  君に言われて気付いたけど、ウェアもガジェットも青色ばっかり持ってた。そう言って穂高はそっと、作業机に置かれていたリンドウを手に取る。鐘のような形の大振りな花。そのしっとりとした花弁の深い青紫色をじっと観察する。 「この青は、そうだな……標高二千九百メートルから見る空の青に似てる。山の上は、空気の層が平地より薄くなるから、見える空の色が濃いんです。宇宙に近いんだなって感じるような色」  園芸品種はよく知らないけど、と続けて、別の花を指差す。 「これは、稜線の雲間に咲くミヤマムラサキの影の部分の青。ミヤマムラサキは、ムラサキ科の花で、その辺に生えているキュウリグサとかワスレナグサに似てるけど、やっぱりあの高山の風と太陽の光の中で育つミヤマムラサキは凄く……綺麗だと思う」  さらにもうひとつ。 「これは……白馬の大雪渓のクレバスの青。晴れた日に、涼しい風が登ってくるんだ。アイゼンを靴に付けて、あの雪渓を駆け降りると、体が軽くなって気持ちが良くて、オコジョみたいに跳ね回りたくなる。まあ、クレバスがあるところは走ったら本当に危ないんだけど…」  葦野の瞳が、ゆっくりと見開かれていく。  彼にとって「青」はこれまで、「分からないもの」だった。色ではあっても、感覚としては遠く、手の届かないものだった。  しかし、今、穂高の言葉によって、色は景色になった。  北アルプスから見上げる宇宙の色。穂高が大好きだと語る、真夏でも雪が残る稜線。高くて遠くて、でも彼の足なら登れる場所。過酷な環境でも咲こうとする、名前も知らない草花たちの色は、稜線に咲く小さな命の強さだ。そして白馬の大雪渓のクレバスの青は、危うさと美しさのはざまで一瞬だけ見える、深淵の色。ひとたび踏み外せば命を落としかねない場所で、それでも跳ね回りたくなる衝動を覚える、かすかな生のよろこび。  葦野の胸の奥に、ざらりとした熱が生まれる。  知らなかった世界が、知らなかった感覚が、たしかにここにある。どれだけ手を伸ばしても届かないと思っていた「青」が、静かに手のひらに降り積もっていく。 それは、葦野にとって絶望だった。自分はこんなにも、世界を知らない。こんなにも、色を知らない。けれど、それでもいい、と思った。  触れられなくてもいい。分からなくてもいい。それでも、ここに、美しいものがあるのだと、そう思えることが、ただ嬉しかった。  それは、あたたかく、ほろ苦い、救いだった。  彼の言葉、存在、眼差し。そのすべてから生まれる青。葦野は初めて、自分には見えない色を、穂高の経験を通して、感じることができた。  穂高は、以前葦野に贈った図鑑が床に伏せられているのを見つけて拾い上げた。図鑑を閉じると、ノドが開いて不自然にページが浮いていた。花の色で分類されている図鑑は小口部分に色が付けられている。 「……『青色の花』これでたくさん調べてくれてたんですね…」 「うん……泉さんのおかげで、ちょっとだけど、……見えた気がします」 ーー  結婚式が終わった。  蠢くような青い花の群れが会場を飾り立てていた。爽やかな夏のエネルギーが溢れ、花嫁の門出を祝う静謐さも感じられるその装飾は大好評で、新郎新婦は終始満面の笑顔だった。この装飾花は会場からの希望もあって、ドライフラワーのブーケに作り替えることになるらしい。  この日は穂高も休日を使って、撤収作業に付き添っていた。葦野の指示のもと花を選別していた穂高がふと口を開く。 「今日の式。良かったですね。暑さも少し落ち着いたし、空がカラっと晴れて、風がそよいで、花が揺れて……。ガーデンウェディングっていうんですね。全部が、君の作った、この花たちの色になってる、みたいで…凄い、綺麗だった。」  穂高は自分の声がずいぶんと柔らかいことに驚く。  花に手を伸ばしていた葦野の動きが止まった。  返答がない事を不思議に思い穂高が顔を上げると、彼は声も出さずにぽろぽろと涙を流していた。 「……ぼく、は……青がよく見えなくて……」  彼のその目。薄い琥珀色の虹彩が、青い花を映してマーブルに染まっていた。 その涙は、無事花を届けられた安堵とも、ただ感情があふれて止まらなくなったともつかない。何かに気がついて、けれど心が追い付かずに涙が出ているような。そんな涙に思えた。うつむいていて表情はあまり見えなかった。 「岳……」  穂高は戸惑いながらもそっとその背中に手を添え、ゆっくりとさすった。 「……鳥や虫は……紫外線を見ることが出来るんです……」  数分の間のあと、葦野はかすかに言葉をこぼした。その視線は、自身の左手で鈍く光を放つ指輪に注がれていた。 「ずっと昔…彼女が、言ってたんです。生きものは、それぞれ物の見え方や見える色が全然違 うんだって。人間も……一人ひとり視界の色はちょっとずつ違うものなんだ、って」  昼下がりの空を満たしていたヒグラシの声がふと途切れた。一陣の風が吹き、小さな雨粒がパラパラと頬を打った。しかし夏の太陽は隠れることなく、細かな雨の粒子を七色の光で覆ってみせた。 「……見えないなら、それでいいって思っていたのに……」  葦野は、誰にでもなくつぶやいた。  背に添えられた穂高の手のあたたかさだけが、確かなもののように思えた。  本当は、ずっと怖かったのかもしれない。どれだけ言葉で肯定されても、自分だけが、違う世界を歩いているのだという孤独が。 「青って……綺麗な色だなあ……」  葦野は目を閉じた。涙が一粒、頬を伝って指輪に落ちた。  この人の、穂高の目に映る世界を、どうしても、この胸に宿したい。  今までずっと、ただ受け入れ続けてきた「違い」が、今はどうしようもなく怖い。  この人の見ている青に、触れていたい。 「僕は……。僕も、好きです。」  穂高の声は、花に届く風のように、柔らかで、そして青い花束のように静謐だった。  葦野は小さく、声にならない呼吸を漏らした。 「この青が……」  穂高の声が、降る雨よりもそっと優しく、葦野を包んだ。葦野は黙って、あたたかい手のぬくもりに身を沈めた。  その深い安堵さえ、ひどく痛かった。 【生き物メモ】 :リンドウ(竜胆) リンドウ科リンドウ属の多年生植物。 大型で鐘形のきれいな青紫色を咲かせる。秋を告げる花。 花言葉は「誠実」「正義」「あなたの悲しみに寄り添う」など。

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