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7:花を吐く
To Cough Flowers
胸の不快感と吐き気が続き、ついに吐き戻したときに唾液にまみれた花弁が自分の口内から出てきた。陶器の洗面ボウルに、くったりと濡れた花びらがひらひらと落ちていく。その異様な光景を前にして、葦野はしばらく動けなかった。これが、自分の体の中から出たものだと理解するのに時間がかかった。
慌てて医者にかかったら「花吐き症候群」と診断された。そんな病、聞いたことも無かった。
曰く、「片思いの感情を抱き続けると、胸に花が咲いて、やがて口から花弁を吐いてしまう」病なのだという。静かに説明されるその言葉はどこか他人事のようで、しかし確かに葦野の身に起きたことだった。
病院からの帰り道、街路を彩るサルスベリは変わらず美しく咲いている。ピンク色の花がこぼれるように枝先に密集し、風が吹けばふわりと香る。しかし、その風が今日は少しだけ涼しく感じられた。肌寒いわけではない。どこか、季節の境が見えた気がした。
葦野はぼんやりと駅までの道を歩いていた。思考はうわの空で、見慣れた景色の輪郭だけがやけに鮮明に目に映る。
妙な病にかかってしまったと思う反面、生花店を営む自分らしいとも思えて苦笑いがこみあげた。皮肉な話だ。花に囲まれて暮らしているのに、まさか自分の体内でも花が咲くなんて。
それにしても……。葦野は自身の左手にはめられている指輪を見下ろした。銀の光が夕日に鈍く反射している。
「片思い……」
声に出して、心がざわついた。相手は、察しがついていた。思い出すのは一か月ほど前、夏の終わりの結婚式場でのフラワーアレンジメントの仕事。白と青の花でまとめた装飾花が壇上に置かれたその日、自身の色覚の青錐体異常を穂高に打ち明けた。色の見え方が一般と違うこと、それによって見逃してきた世界の色。
そして穂高が語る、美しい青い色の風景。深く澄んだ湖のような声で語られるその世界に、葦野は惹かれていった。彼自身のまなざしと、ほころぶ野の花のようなあたたかな表情に、心が揺れていた。
それはかつて結婚を約束したままこの世を去ったパートナーへの裏切りにも思えて、胸の奥が悲鳴を上げた。絶望して、動揺して、泣きだして。その日穂高にはひどく迷惑をかけてしまった。
お互い異性愛者だ。理解してもらえたことに安心しただけ。寄り添った温もりに気が迷っただけ、美しい青に勘違いして惹かれただけ。そうやって、何度も何度も自分に言い聞かせてきたのに。
「こん…こん……」
マスクを抑えて咳き込む。喉が焼けるように熱く、乾いている。感情は理屈では止まってくれなかった。
「こまったな……」
ー
自宅に戻り、シャワーを浴びて早々にベッドに潜り込んだ。タオルケットを引き寄せながら葦野は目を閉じる。自分が病人だと自覚すると、途端に全身の調子が悪くなるような気がして参ってくる。
「気持ち…わる……」
胸の中で何かが育っているかのような感覚。花が育つ、というより根を張られている気がする。ぞわぞわとうごめくそれが吐き気を誘い、咳も止まらない。
「げほッ……げほッ……はあ……うう……」
寝室の一画はフラワーアレンジメントのアトリエになっており、そこに置かれていたバケツをひっつかんで口から不快感を吐きだす。切り花の茎や葉がわずかに残るバケツの中に、くすんだ灰色の花びらが唾液の糸を引きながら落ちていった。
「青……い、のかな……」
灰色の花は多くない。自分の網膜では認識できない色の花びら。
「泉……」
彼だったら、どんなふうにこの色を表現してくれるのだろうか。どんな言葉でこのくすんだ花を、美しいものに変えてくれるだろう。知りたい。けれど、それを求めること自体が、また胸を締めつけた。
「ごめん……ごめんなさい……」
好意が報われない限り治らず、手術で感情ごと花を摘出するしかない、この奇病。けれど、どうしても美しい青い色を手放したくない。穂高の語る世界を、手放すことが怖い。葦野はえずきながら、涙に濡れたまま意識を手放した。
ー
「う~~~」
カーテンの隙間から陽の光が射している。秋の澄んだ光が寝室を照らす。意識が浮上するとともに、異様な胃の不快感に襲われた。体が鉛のように重い。葦野はゆっくりと目を開けた。唾液が口の中に溜まって気持ちが悪い。
「なにこれ……めっちゃ気持ち悪い……」
腕に力を入れて半身を持ち上げると、いたるところから花びらが落ちてくる。自分のベッドだ。花びらまみれなのは寝室がアトリエも兼ねているから。――だと思いたい。どうしてかは忘れてしまった。
ベッドの隣には来客用のマットレスが敷かれたまま空になっていた。昨晩は友人の穂高が泊まりに来ていたはずだ。
「……泉さん……? 起きたの?」
腹部を摩りながらベッドから抜け出し、居間の扉を開ける。胃の奥がグッと浮き上がるような気配がして、慌てて口を押さえた。
「あ、岳くん、起きた?……大丈夫、じゃないですよね」
台所に立っていた穂高が振り返る。顔色が悪い。くすんだ頬、重たいまぶた。
「ごめん……たぶんこれ、昨日食べたジンギスカンだと思う……」
「え……?」
一瞬、思考が止まる。集団食中毒……?葦野は胃のあたりをさすりながら、昨晩のことを思い返した。穂高の知り合いが送ってきたジンギスカンを野菜と共に焼いて、食べて、焼いて、食べて、焼いて……キンキンに冷やしたサッポロクラシックのビールを流し込んで。食後には牧場直送のジャージー牛のミルクアイスを二人で楽しんだ。幸せだった。
「いや、腐っていたとかじゃなくて。羊の脂って、冷えると、胃の中で固まるらしくて……」
「ええ……じゃあ昨日のは最悪な組み合わせだったってこと…?」
「たぶん、そう……すみません、僕も知らなくて」
穂高は葦野に湯気の立つマグカップを渡した。手が触れるその一瞬だけで、なんだか少しだけ気持ちが軽くなった気がした。
「ホットミルク……?」
「うん。羊肉を食べるモンゴルの遊牧民族は、肉と一緒に温かいミルクやお茶を飲むらしくて…」
「……じゃあ昨日のぼくらは、彼らからしたらめちゃくちゃ愚か者だったってこと……」
固まりやすい羊の脂と一緒に、冷えたビールに、アイスに……。
「愚か者……そうなりますね……」
穂高は胃を抑えながら笑いをこらえた。気の毒に、眉をひそめて気持ち悪そうに咳払いをしている。
「泉さん、あの、遠慮せずお手洗い使ってね……」
「ありがとう……とりあえず、今は大丈夫です。今日は、ほんと、ゆっくりしましょう……」
「うん……」
ホットミルクを口に含ませながらゆっくりと胃に落としていく。自分だって気持ちが悪いだろうに、穂高がわざわざ鍋で作ってくれたホットミルク。こういうところ。好きなんだよなあ。
葦野はぼんやりと穂高を見た。アトリエで寝ていたからか、彼の髪には白いバラの花弁が絡んでいた。そのすこし癖のついた黒髪に手を伸ばす。穂高は不思議そうな顔をして視線で手を追ったが、花弁を見せてやれば、ああ、と何でもない顔で頷いた。
「ミルク、作ってくれてありがとう…」
そういえば、妙な夢を見た気がする。胸の奥に何かがつかえているような、湿った花びらを吐き出すような夢だった。でももう思い出せない。ただ、目覚めた今も、少しだけ喉の奥が気持ちが悪い。
「いえいえ……」
穂高の覇気のない声がどうにも愛おしい。その声に夢の記憶が溶かされていくようで。葦野はミルクと一緒にその愛おしさを飲み干した。
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