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9:紅葉に鹿

The Deer in Crimson Foliage  炊飯器が軽快な音を立てて知らせると、ふたりの視線が同時に台所の隅へ向いた。 「あ、炊けた」  炊飯器の蓋を開けると、ふわっと湯気が立ちのぼり、栗と銀杏のほっこりとした甘い香りが、炊き立ての米の香ばしさに混ざって漂ってきた。 「わ!わー!!」  宝石のように輝く栗と銀杏がつやつやの新米の中から顔をのぞかせている。思わず顔を寄せた葦野は、香りに目を細めながら深く息を吸い込んだ。しゃもじを入れてそっと混ぜると、底からは香ばしく焼けたおこげが姿を現した。 「こっれは…」  美味そうだ…と穂高が思わず唸る。 「早く食べたい…!」  葦野の声は、ほんの少し上擦っていた。  期待と空腹に突き動かされるように、ふたりはすぐさま残りの作業に取りかかる。穂高が鹿のロース肉を一口大に切りながら、作業台の上にスライスチーズとシソをリズムよく並べていく。葦野はその横で、それらに手際よく小麦粉をまぶし、すぐに卵、パン粉へと続ける。  目と手だけで会話が成立する、まさに阿吽の呼吸。ふたりの動きは、何度もこの流れを繰り返してきたかのように自然だった。 「もう揚げ始めちゃっていいかな?」 「うん、大丈夫。お願いします」 「まかせて~」  言葉の端にほのかに笑いを含ませながら、葦野は油の温度を確かめる。じりじりと鍋の中から上がる細かい泡が、これから始まる香ばしい時間の合図だった。  穂高の部屋の台所は、単身用のアパートにしては幾分か広く、調理台のスペースにも余裕がある。ふたりで並んで作業していても、ぶつかることなく、適度な距離で心地よい。  穂高は鹿肉の下ごしらえを終えると、着けていたビニール手袋を外し、手首まで軽くまくっていた袖を静かに下ろした。その動作の途中、ちらりと見えた腕に、古い傷がいくつも走っているのが葦野の視界に入った。  その痕に言葉はかけなかった。ただ、見なかったふりをするように、葦野は衣をまとったシカ肉を丁寧に揚げ油の中へと落としていく。  じんわりと衣に色が着きはじめ、香ばしい香りが漂ってくる。 「ちょっと……味見しませんか」  油のはぜる音に混じって、穂高が悪戯っぽく言った。 「……したいです!!」  葦野の反応に満足げに笑った穂高は、冷蔵庫を開けて、奥から高原ビールを取り出した。銀色の缶が差し出されると、葦野は小さく声を漏らしながら両手で受け取った。  揚げたてを食べられるのは、料理人だけの特権だ。 「ざくっ」と衣が小気味よい音を立てて口の中で崩れる。揚げたての鹿カツは、噛みしめるほどに肉の旨味が広がる。草原とも、木の実とも感じられる野生の香りを帯びた味。それが、こってりとしたチーズとシソの爽やかさで見事に調和していた。 「ん!……美味しい!すっごくおいしい。なんか……ワイルドな牛……って感じ」  葦野が興奮気味に言うと、穂高も口をもぐもぐさせながら頷く。 「ん…言われてみれば…確かに…」  カツの味を楽しんだあと、葦野は片手に缶を持ち、ぐっと一口。唇を缶から離すと、じわじわと口元が緩む。 「んんん、幸せすぎる…」 「んま…」  しばし無言で、ふたりは味わうことだけに集中する。 「……もう一個食べたい…」  葦野の手が、きつね色に揚がったカツが並ぶバットへ伸びかけたのを見て、穂高は思わず笑って通せんぼをする。 「んっ……だめだめ、無くなる。さっさと揚げてちゃんと食べましょう。栗ご飯も食べたい」  小さくむくれる葦野に菜箸を握らせて、再び作業に戻る。穂高はビールを飲み干しながら、その様子をどこか満足げに見ていた。 ーー  夕食が整ったローテーブルには、栗と銀杏の炊き込みご飯、きのこの味噌汁、揚げたての鹿カツが並んでいる。二人はソファーに腰掛けて舌鼓を打っていた。すでにビールは空になり、安曇野(あずみの)ワイナリーのワインが二人のグラスを赤く彩る。霜月の夜。暖房のやわらかなぬくもりとオレンジ色の照明が、部屋の中に心地よい静けさを灯していた。 「泉、料理すっごく上手だよね」  葦野は鹿カツをほおばりながら感心したようにつぶやく。「そうかな?」と穂高は肩をすくめた。 「この前作ってくれたソーキそばも美味しかったし」 「あれは知り合いが生めん送ってくれたんだよ」 「夏に作ってくれたラタトゥイユのパスタもすごくおいしかった」 「あれも貰った野菜が良かったの」 「謙遜しちゃって」   穂高が笑う。ほんの少しワインが回っているのか、声が柔らかい。 「岳も料理するだろ?栗いっぱい貰ったって聞いたから、剥くの覚悟してたのに全部下処理終わってるんだから」  照れ隠しのように穂高が言うと、葦野は嬉しそうに笑って首をすくめた。 「花屋が落ち着いてたからね」 「店でやってたの?」 「自営業だからね」 「うらやましい」  会話は自然と流れ、ひとつの話題からまた次の話題へと移っていく。温かい食事とワイン、そして心を許せる相手がいる夜。それは何よりのごちそうだった。  少し冷めたカツも、味が落ち着いてより肉の風味が引き立っている。葦野は最後の一切れを噛みしめ、静かにワインを口に含んだ。 「全国に知り合いがいる方が羨ましいよ」  葦野の声には、少しだけ本音が滲んでいた。転勤もなく、都会の地に根付いた生活を続けてきた自分には、旅のような話が少し眩しく思えた。 「まあ、転勤族の数少ない特権かな」  穂高はグラスの縁を指先でなぞりながら、苦笑いを浮かべた。言葉とは裏腹に、その瞳には懐かしさと少しの寂しさが揺れているようにも見える。 「東京に来る前は…長野に居たの?」  葦野の問いかけに、穂高はふと遠くを見つめた。記憶をたどるように瞳が揺れる。彼が語る北アルプスの山々。耳に残っているその言葉を思い出しながら、葦野はそっとワインボトルに目を落とす。ラベルには、夕暮れの稜線のようなシルエットが描かれていた。 「うん…松本の近く、安曇野っていう町にいた。山がすぐ側で、きれいに見える場所なんだ」  穂高の声が山の記憶に包まれるようにゆっくりと響いた。葦野はグラスを傾けながら、ラベルの稜線の細かな線をなぞるように眺める。北アルプス。その言葉だけで、澄んだ空気の冷たさや、夕暮れの光が肌を撫でる感覚が浮かんでくる。 「泉は、ほんとうに山が好きなんだね」  穂高は小さく頷いた。 「好きだよ……美しくて、過酷で。孤高の頂の、人を寄せ付けない場所。……花が咲き乱れていてさ。夜は星が零れ落ちてきそうなくらい見えて。そうだな……天国みたいな場所なんだ」  彼はカーテン越しに外を眺めるように目を細めた。クリーム色の遮光カーテンが暖房の風に揺れて、穏やかなリズムで部屋の空気を包む。その向こうには、東京の住宅街の灯りが小さく瞬いている。冬の夜空に星がひとつかふたつ、控えめに顔を出しているのだろう。 「天国かあ……」  葦野は苦笑しながら、先月の高尾山の登山を思い出す。軽い気持ちで登った山だったが、下山後にはしっかり筋肉痛になった。それでも、また穂高が語るような景色の中に自分も一緒にいたい、そんな願望がふと胸をよぎる。 「高尾山……たのしかったなぁ」 「うん……楽しかった」  穂高の声には、ほんのりと懐かしさと、かすかな痛みのようなものが滲んでいた。あの日、紅葉が始まったばかりの秋の山は、柔らかな光と風に包まれていた。色とりどりの葉が舞い、足元には小さな秋の花が咲いていた。お互いの弾む息と、イロハモミジやダンコウバイのステンドグラスのような木漏れ日。そして展望台での苦い記憶。 「また一緒に登りたいです」  葦野の素直な願いに、穂高は少し困ったように、それでも優しく笑った。 「……岳」 「ん?」  穂高は自分の左手をそっと胸の前にかざしてみせた。 「……手、に。傷があるでしょう」  彼の左手の側面には、引き攣ったような痕が浮かんでいる。それは以前から葦野が気づいていたことだったが、触れたことはなかった。 「うん、前から、知ってはいました……」 「……ありがとう。聞かないでくれていたの、分かってはいたんですけど」  穂高は少しだけ視線を落として、右手でそっと左のフリースの袖をまくる。肘の辺りまで袖が上がると、そこには想像よりもずっと大きな痕跡が広がっていた。肌が盛り上がったようなケロイド。その痛ましい傷跡に葦野は息を飲む。 「……この先にも、あるんだ」  穂高は淡々と言いながら、今度は襟元に手をかける。すべてを見せたわけではない。けれど、その肌に刻まれた傷痕の続きを想像するには十分だった。それは、ただの怪我ではない何かを物語っていた。  胸が締めつけられるような感覚に葦野は言葉を失った。 「……ん、まあ、そんなかんじなんだ」  穂高は努めて明るく言った。怖がらせたくなかったのだろう、しかしその優しさすら葦野には重くのしかかった。 「………い、痛くは…ないの?」  ようやく出てきた言葉は、どこか頼りなかった。穂高は少し驚いたように目を見開き、それから左手をそっとさする。 「もう痛くないよ」 「そっか……」  葦野はよかった、とほっと息を吐いた。目元に涙が浮かんだことに、穂高は気づいただろうか。 「その……」葦野が言葉に詰まると、穂高がそっと続きを促すように視線を合わせてきた。話してもいいかと目が問いかけてくる。  葦野は真剣に頷いた。 「……二年前……落ちたんです。槍ヶ岳で」  その言葉に、空気が凍りつく。葦野は体を強ばらせ、静かに息を止めた。 ーー  アクティブレンジャーの植生調査同行時。ランナーによって起きた落石から、後輩を庇って、稜線から足を滑らせて……。  穂高の語る事故の顛末は、葦野にとってはどれも現実味がなく、しかしひとつひとつが重かった。滑落、昏睡、リハビリ。その全てを経て、彼は今ここにいるのだ。 「……で、リハビリして、去年の秋から御苑で働いてる。まあ、山からは離れたけど、都会の中でも自然は楽しめるし、君みたいな友達もできたし」 悪い事ばっかりじゃない。穂高はふっと言葉を切った。 「……」  葦野は言葉が出せなかった。青ざめて、震える口を開いた。 「泉……ごめん……、」 「え?」 「ごめん!…何も知らないで一緒に山登りしようなんて言っちゃった……!」 「い、いや、岳は全く悪くないから。僕が言ってなかったことだし」 「……でも……だからあの日、展望台で……ごめん……!」  葦野の声に涙が混ざり震えはじめる。話し始めてしまったことを申し訳なく思い、こわばっている彼の肩へ手を伸ばしてゆっくりとさすった。 「違うんです。僕も登るまで、自分が高所恐怖症になってただなんて知らなくて、だから謝るとしたら僕の方なんです」  自己管理が出来てなかった。申し訳ない。穂高は真っ直ぐに葦野を見つめ、深く頭を下げた。 「泉……」  穂高は左手が暖かい温もりに触れていることに気づいた。いつのまにか葦野の少し荒れた両手が傷だらけの左手を包んでいた。傷痕に障らないように静かに、しかし力強く指先に力が込められた。葦野は呼吸を落ち着けて静かに穂高の言葉を待っていた。  許されたような気持になって、穂高はゆっくりと胸の内を吐きだした。 「……高山の世界が好きだったんです。今も、あの風景に……焦がれるくらい」  その声は、不思議なほど穏やかだった。思い出の中にしかない風景をそっと撫でるような声音だった。あの高く遠い場所。雲が足元を流れていく、空気が薄くて、すべてが静かだった。今は遠いその静けさ。 「今は高尾山にも登れなくて、悔しいし……やるせない。もう、高山に登ることは出来ないかもしれないって……そう思うこともある」 「惨めな腕だな…」穂高はそう呟いて、左手が再び自分の腕をさすった。そこに刻まれたものを、撫でるように。触れても触れても癒えない記憶を、抱きしめるように。  葦野はただ頷いた。穂高の言葉が痛みを伴って胸に染みる。 「御苑での今の仕事も、やりがいはあるんですよ。毎日自然に触れられるし」  彼は少し笑った。それはどこか、皮肉にも似ていた。 「けど……正直に言うと、つまらない。味気ないんです。だから……君と出会えたのが、救いでした」  葦野の肩がわずかに震えた。  穂高は、ぽつぽつと、言葉を置くように話した。一つ一つの言葉が、今までずっと誰にも見せなかった心の断片のようで、葦野の胸にじくじくと沁みこんでいく。  言葉がふっと消え、部屋の空気が静かになった。穂高は眉を少し寄せて、まるでそれを振り払うように続ける。 「……後輩を庇ったこと、自分のしたことに、誇りを持ちたいのに……。一瞬でも後悔した自分を、許したくない」  穂高の目がわずかに潤んでいた。カーテンの向こう、窓のガラスにその姿がかすかに映っている。星の代わりに、町の街灯がゆらゆらと揺れていた。 「都会って……苦手なんですよ。人が多すぎるし、空が狭いし……でも」  そこで穂高は、葦野を見つめた。 「都会の真ん中で花を愛して、花で人の人生を飾り立てる君が……まぶしくて、」  静かで、確かな言葉だった。すべてを肯定するには、まだ時間が必要なのかもしれない。それでも、穂高は前を向いていた。  葦野の頬に一筋の涙が伝った。 「!、ちょっと、ちょ、泣くな…… あー、ほんと……もう……泣き虫……」 その琥珀色の瞳が、溶けていくようだった。  この色が穂高は好きだった。 「岳……。岳? ……泣き止んで……? 本当に、こんなことを話してごめん……」  葦野は首を横に振り、さらにぽろぽろと涙をこぼした。 「うう……」  穂高はちり紙を掴みその涙を拭いた。言葉とは裏腹の少しぞんざいな手つきだったが、声はどこか晴れやかだった。 「今、リハビリしてるんです」 「……りはびり」 「うん。高所順応とかいろいろ。また、君と山に登りたいので」  その言葉に、葦野はまた顔を両手で覆ってしまった。涙に混ざって「がんばってえらいよお…」とくぐもった声が漏れた。 「ほんと…ありがとう、聞いてくれて」 「んっぐ…」  涙の海の中で、小さく葦野が返事をした  すっかり夜も遅い時間になっていた。夕食の余韻だけが食卓に残り、部屋には秋の終わりのような静けさが漂っている。せっかくの夕食だったのに。つい葦野のやさしさに甘えてしまった。 穂高はふとデザートの存在を思い出して、ソファーから立ち上がろうとした。 「山葡萄のタルトがあるんだった。食べませんか」 「……ハグしたいです」 「…………は……?」  中途半端に腰を上げたまま、葦野の言葉に固まる。  ……ハグ?ハグとは、抱擁のことだろうか?  今まさに話していたのは、山葡萄のタルトのことだ。東北に住む知人が送ってくれた季節の贈り物の話だった。お返しを何にするか、ずっと考えていた。そう、タルトのはずだった。  穂高はふいに手を優しく引かれて、気づけば彼の腕の中にいた。  葦野は自分より十センチほど背が高い。その体にぐっと引き寄せられると、抗う余地もなく包まれてしまった。薄手のセーター越しに感じる体温と、静かな鼓動。 「ちょ、……っと……岳……」  傷のある方の肩に頬を寄せられ、涙のぬくもりがじんわりと肌に触れた。  不思議と、嫌ではなかった。 「話してくれて。……生きて、助かってくれて……ありがとう」  掠れた、低く、優しい声が耳元に落ちてくる。胸の奥に蕾が咲くような、暖かな何かがぽんと灯って、恥ずかしさと安らぎがいっぺんに溢れ出す。またぐすぐすと涙の気配がして、葦野の腕がさらに強く、自分を包み込んだ。泣き疲れた子どものような熱い体。そのぬくもりに、あの時の後悔が少しだけ融かされた気持ちになる。  宙ぶらりんだった両腕をおそるおそる動かして、彼の背中にまわす。かたい背骨を感じながら、ぽんぽんと背中を叩くと、ほっとしたような息が耳にかかってくすぐったかった。  このあと訪れるであろう気恥ずかしい空気を思い浮かべながら、穂高は、山葡萄のタルトの甘酸っぱい味を想像していた。 【生き物メモ】 ヤマブドウ(山葡萄) ブドウ科ブドウ属のつる性落葉低木樹。 果実は生で食べるほか、ジャムやジュースなどに、根皮を外用薬に、つるは籠編みなどに使われ、様々な物事に利用される。 花言葉は「好意」「信頼」「思いやり」「感謝」など。

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