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10:冬至
Midwinter
電飾のオブジェがきらめく東小金井駅のnonowa。ガラス張りの天井に吊るされたイルミネーションが淡く輝いている。装飾で彩られた店先には、華やかにラッピングされたギフトや年末セールの札が並び、少し浮かれたBGMが流れていた。
しかし、夕方のラッシュ前の時間帯ということもあって、通りを行き交う人々はまばらだった。そのせいか、年の瀬特有の浮足立った空気が、妙に空疎に感じられる。静けさのなかに、目に見えない忙しさだけが満ちていた。
そんな街の賑わいには目もくれず、葦野は小走りで薬局のドアをくぐった。真っ直ぐに解熱鎮痛剤の棚へ向かい、迷いなくそれを手に取る。他に必要な物はと、スマートフォンを取り出してメッセージアプリを立ち上げた。
『体調が悪くて早退しました。今日の予定、リスケできますか?ごめんなさい。』
『大丈夫?夕飯の事は気にしないで。体調は?風邪?熱はある?』
自分のメッセージで終わったままのやりとりが、妙に現実味を欠いて見えた。葦野は画面を見つめたまま眉を寄せる。既読はついている。それがむしろ不安だった。
今日は仕事終わりに穂高と食事に行く予定だった。お互い師走の忙しさに追われる日々のなかで、やっと時間を合わせた約束だった。メッセージでは度々連絡を取り合っていたが、会うのはおよそ一か月ぶりだ。久しぶりだからと、葦野はいつもよりも少しだけ贅沢な店を予約していた。
昼過ぎに届いた穂高からの「体調が悪い」との知らせ。それきり返信は途絶え、その後メッセージを送っても既読がつくことはなかった。不安が焦りに変わるまでに時間はかからなかった。気づけば店を閉め、新宿の街を飛び出していた。
結局、薬局では解熱剤と冷却シート、経口補水液だけを買い、そのまま店を後にした。料理好きの穂高のことだ。食材を切らしていることはないだろう。それよりも、今は何より彼の様子をこの目で確かめたかった。
駅から徒歩十分ほどの穂高の自宅へ向かって歩き始める。すっかり日は傾いて、空は茜色から鈍い灰色へと変わりつつあった。今日が冬至だと気づき、納得する。この急な暗さと冷え込みはそのせいだ。
「さむ……」
吐く息が白い。西東京の冬は、関東山地から吹き下ろす冷たい風が滞留し、都会であることを忘れるほど厳しい寒さになる。葦野はダッフルコートの胸元をきゅっと押さえ、外していたマフラーを巻き直した。
未だに穂高からの返信はない。自宅には戻っているのだろうか。念のため、彼の通勤路をなぞって家まで向かうことにする。歩き慣れた道。穂高と何度も一緒に歩いたこの道が、今は妙に遠く感じられた。
穂高の住むマンションの玄関脇に置かれた鉢植えでは、エビネの深い緑色の葉が寒さに縮こまっていた。よく手入れされたそれも、冬の空気には敵わない。ドアの鍵は閉まっていた。帰宅しているのだろうか。あるいは、倒れて眠ってしまっているのでは。
葦野は恐るおそるメッセージアプリの発信ボタンを押した。手のひらがじわりと湿り気を帯びる。
「……は、い…」
弱々しい声がスピーカー越しに漏れた。応答があったことに安堵したのも束の間、その声にまるで力がないことに、冷気が頬をなぞった。
「泉?ごめんね、大丈夫?」
「がく……?」
「家まで来てるんだ。薬とか買ってきた。……鍵、開けてもらえる?」
「え……?」
重い息と布ずれの音。そして、ガタンと硬い音がスピーカー越しにした後、ドアの向こうから足音と呻くような声が近づいてきた。鍵が回り、ドアがゆっくりと開いた。暖房で温められた空気と、こもった熱の匂いが肌をかすめる。ドアを開けた穂高は、ドアノブを握ったまま、ふらりと膝をついた。
「泉……!」
葦野は反射的に穂高の肩を抱きとめ、厚手のトレーナー越しに伝わる異様な熱に顔をしかめた。
「ご……めん……すぐ、起きる」
穂高はそう言いながらも、力が入らないようで、ただ葦野の胸に額を預けるだけだった。髪は汗でしっとりと濡れている。
「せん……体調悪いのにごめん。ちょっと待ってて」
葦野は小さく囁き、片手でドアを閉め静かに鍵をかけた。再び穂高の体を抱えたとき、その軽さに違和感をいだく。細い見た目だが筋肉質でしっかりとした体だったはずだ。会わなかった一か月のうちに彼に何があったのだろうか。
「……移動するよ。大丈夫だからね」
自分に言い聞かせるように呟き、慎重に歩き出す。部屋の奥はカーテンが締め切られ、外との境がわからないほど薄暗い。シンプルながら温もりある家具が並ぶ部屋が、今はどこか心細げに見えた。
ソファの端に穂高をそっと座らせ、葦野はその前に膝をついた。
「水、飲める?」
買ってきた経口補水液のボトルを取り出しながら訪ねると、穂高は重いまぶたをわずかに持ち上げこくりと頷く。そのわずかな動きさえ痛々しく、葦野はそっと手を伸ばした。
「ベッド行く前に汗ふきましょう。……箪笥、開けていい?」
「ん………ごめん、迷惑を……」
「迷惑じゃない。ぼくが勝手に来たんだから、謝らないでください」
水分を口にして少しだけ表情が和らいだ穂高は、のろのろと動き出しトレーナーとインナーを腕から抜いた。そのときだった。
「泉、これ使っ……」
ぬるま湯で絞ったタオルを渡そうとした葦野の手が止まった。目の前に露わになった穂高の上半身。腕から首、肩、腰へと走る、痛々しい傷痕。あの日ちらりと見せてくれたのは、彼の傷のその一部に過ぎなかったのだ。穂高が語った山での事故の光景が高い彩度で脳内に過り、思わず息を詰める。
「……ごめん……見苦しくて……」
「そんな、見苦しくなんてないよ……」
穂高はかすかに笑ったが、すぐに顔を歪め、体をこわばらせて俯いた。肩が小さく震えて苦し気な息遣いが漏れている。
「! 苦しい? 痛いの? どこが痛い?」
「……だいじょうぶ……」
左腕が小刻みに震えていた。
「……触っても大丈夫?」
「ん……」
熱で荒くなった呼吸、火照る身体とは裏腹に、腕は氷のように冷たい。自分の熱を分けるようにその冷たさを手で覆うと、震えが少しだけ落ち着いた。
「……寒くなると、ときどき……痛むんです」
弱弱しく吐き出すような言葉。熱で潤んだ瞳が葦野を見た。
「なにか、できることある……?」
穂高は大丈夫だというように小さく首を振った。その動作のか細さに、腕に当てる手に思わず力が入りそうになる。
「きてくれて、助かりました」
葦野はただ、優しく穂高の手を握った。返事の代わりに、彼の熱を、痛みを少しでも分け合うように。
ーー
穂高をベッドに寝かせると、まるでその瞬間を待っていたかのように、すぐに静かな寝息が聞こえはじめた。葦野はそっとしゃがみ込み、穂高の額にかかる前髪を指先で静かにかき上げる。汗が浮かぶその肌に、冷却シートを丁寧に貼りつけると、肌がかすかに震えた。
結露した窓の外には、夜の街灯がぽつりぽつりと灯っていた。窓辺の空気は澄み、冷たい。どこか遠くから救急車のサイレンの音が聞こえた。葦野は立ち上がり、カーテンをそっと閉めると足音を忍ばせて台所へ向かった。
「えっ……」
冷蔵庫を開けた瞬間、思わず小さく声が漏れる。いつもなら作り置きのおかずや旬の野菜で整然と埋まっていた冷蔵庫が、今はがらんとしていた。それがどれほど穂高らしくないことかを物語っている。
「納豆、みそ、生姜……しめじ、枯れてる……」
呆然と呟きながら、葦野は冷蔵庫の扉をゆっくり閉じた。広くて明るかったはずの台所が、急に寒々しく感じられた。人の気配が消えた家のような、そんな寂しさだ。
ふと目をやると、電子レンジの横にレトルトカレーの箱が無造作に置かれているのが見えた。まさか、と思ってゴミ箱をのぞき込む。案の定、律儀に洗って捨てられたレトルトパウチやカップヌードルの容器が詰められていた。
「忙しかったんだね……」
ぽつりと呟いた言葉は、慰めにも、問いかけにもなっていなかった。
料理上手な穂高が、いつからこんなふうに過ごしていたのだろうか。メッセージのやり取りだけでは分からなかった、彼が暮らした冬の日々。葦野の胸に鈍い痛みが広がっていく。もっと早く気づいていれば。今日だって、ほんの少しでも食材を買ってきていれば。
それでも何かを作らなければと、米を水と一緒に鍋に入れて火にかけた。穂高ほどではないが、葦野も料理はできる方だ。
ふつふつと小さな泡が鍋の底に立ち始める頃、ポケットに手を突っ込んだ拍子に、自分がまだコートを着たままだったことに気づく。
「あ」
指先が触れたのは、しっとりとした球体。
「ユズだ」
左右のポケットに一つずつ。今朝、花農家が配達のついでに自家製の果実を手渡してくれたことを思い出す。受け取ってそのままポケットに入れ、すっかり忘れていた。ボコボコといびつな形をした、月のような黄色い果実。鼻先を近づけると、ふわりと爽やかな香りが立ち上り、葦野の心をほんの少しだけやわらげてくれた。
ーー
夜が深まるにつれ、部屋の中は静まり返っていった。
柚子と生姜を煮たシロップの甘い香りが、ほのかに部屋の空気を包んでいた。まるで、ささやかな祈りのような匂いだった。
穂高はベッドの上で、小さく体を丸めて眠っている。葦野もまた、居間のソファに身を預け、浅い眠りに引き込まれかけていた。そのとき。
「……っ……!」
かすれた声とあえぐような荒い呼吸音が、夜の静寂を破った。穂高が眉をひそめ、寝返りを打つ。次の瞬間、その体が大きく跳ねるように痙攣する。
「……うう……」
「泉……?」
葦野は飛び上がり、すぐに寝室へ駆け寄った。扉をそっと開け、常夜灯のスイッチを入れる。薄明かりの中で穂高は目を見開いていた。呼吸は荒く、浅く、まるで追い詰められた獣のように肩を震わせている。焦点の定まらないその瞳が宙をさまよっていた。
「落ちた……?」
震える声で、誰にともなく呟いた。
葦野は慌てて穂高の手を取る。その指先は、氷のように冷たかった。
「泉、落ちてない、大丈夫だよ」
両手でそっと包み込み、声をかける。できる限り静かに、優しく、ゆっくりと、それでも確かな声で囁いた。穂高の肩はまだ震えていたが、葦野の言葉に反応するように指先がわずかに動いた。
「……ここ……」
「うん。ここにいるよ、泉」
葦野は柔らかく微笑みながら、その手をあたため続けた。
熱に浮かされた瞳が、少しずつ現実の光を取り戻していく。
「がく……」
か細い声がもれた。ほんのわずかだが、穂高の声に力が宿っている。シーツの上に投げ出された左手には、雲よりも高い場所から重力に引かれて出来た、目を背けたくなるような挫創の痕。
「触っても、いい?」
「うん……?」
葦野は穂高の左手へ、そっと指先を伸ばした。その冷たさが、彼の過去の重さをはっきりと物語っていた。
「あの……とき……」
穂高の声が静かに届いた。
「……うん」
「落ちたとき、……とにかくさむくて、いたくて、ど…にかなりそうで、」
「泉……」
「ハイマツがいいにおいで、山…風が吹いてて、ライチョウの声がし…て、ああ、あめが、ふるな…あって…」
「うん……」
穂高は熱に浮かされた様子で、まだ夢の中にいるかのように呟き続けた。
「でも……まだ空は、ずっときれいで……さいごにみる空ならこれでい……かって」
その言葉に、葦野は思わずうめき声をもらした。これは夢で見た風景などではない。あのとき、穂高が見ていた本当の空だ。
気がつけば葦野は、穂高の毛布の中に潜り込んでいた。突然のぬくもりに、穂高はぼんやりとしながらも目を白黒させた。
「……嫌じゃない?」
おずおずと尋ねる葦野の声に、穂高が首をかしげた。
「……や、じゃないけど……へん、じゃないか……こんな……」
困ったように眉を下げる穂高に、葦野はかすかに笑った。
「変かもしれないけど……こうしたくて。もうちょっと、触ってもいい?」
「……うん……いい……」
葦野はゆっくりと、穂高の背に腕を回した。どうしても、彼を一人にしたくなかった。青くて、寒い、美しいだけの場所にいる彼を。せめて彼の夢の中でライチョウになって、フワフワの羽毛で暖めたい。薄い背中をぎゅっと抱きしめ、身で彼を包み込む。
熱が籠って、息苦しいくらいに暑い。けれど、それは穂高が今もここに生きている証だった。
夜の底で、互いの鼓動を確かめ合うように、二人はただ静かに寄り添っていた。
ーー
翌朝、ぼんやりと目を覚ました穂高は、身体を誰かにそっと抱きしめられていることに気づいた。暖かく、しっかりとした重みに包み込まれている感触に目をゆっくりと開く。ほんのり甘くやさしい香りが鼻先をかすめた。それが葦野の香りだと気づくまで、そう長くはかからなかった。
「がく……」
かすれた声が喉の奥から漏れる。身じろぎをすると、肌にまとわりついていた熱がいくぶん和らいでいることに気づく。しかし、身体の芯にはまだ鈍い重さが残っていた。首筋にひやりとした空気が触れて、小さく身震いする。
そのわずかな動きに、寄り添っていた葦野が目を覚ました。薄く目を細めた彼はこちらを見つめ、ふっと息を吐いた。安堵の色がその表情に滲んでいる。そして無言のまま、穂高の額に手を当てた。
その手のひらの感触は優しく穏やかで、確かな温度を持っていた。カーテンから染み出した朝日に、淡く照らされた彼の虹彩が美しく揺らめく。
葦野の顔はどこか幼く見えたが、その目元にはかすかな疲れの影が浮かんでいた。遅くまで自分の看病をしてくれていたのだろう。
「……少し下がったみたいだね。よかった」
葦野はそう言って手を離し、穂高の髪を優しく梳いた。その手つきに身を委ねながら、穂高は昨晩のことを思い出していた。寝込んでいるところを彼が訪ねてきて、看病をしてくれたことは覚えている。けれど、一晩中、こうやって抱きしめてあたためてくれたのだろうか。熱に浮かされていた時の記憶はおぼろげで、夢だったかもしれないとも思う。しかし、今目の前にいる葦野のそのまなざしや仕草が、それが現実だったのだと静かに告げていた。思わずまた熱が上がるような心地がする。
寒くないかと、葦野が低く優しい声で尋ねる。穂高は小さく首を振った。
そのとき、葦野が「あっ」と小さく声を上げた。スマートフォンを手に取り、画面を見た瞬間に明らかに慌て始める。
「泉、ごめん、今日店に入荷がある日だった」
「……忙しいのに、ごめん」
「忙しいわけじゃないの、タイミングってだけ」
葦野は渋々といった様子で起き上がり、居間へと出て行った。しばらくして、寝室へ戻ってくる。上着を羽織りながら、柔らかく声をかけた。
「すぐ戻ってくるから、ちゃんと暖かくしてて」
「ん……」
布団の上からさらに毛布を巻きつけられた。撫でるようにまた頭に手を置かれ、思考が朝の光と葦野の手の温度にかき回される。穂高はつい目を閉じた。
玄関扉が開く硬い音の後に、葦野の声がわずかに聞こえた気がした。急ぎ足の音が戻ってくる。
「泉、外、少しだけど雪が積もってたよ」
葦野がそう言って、どこから取り出したのか、カーディガンとひざ掛けを毛布の上にさらにかけた。暖房のリモコンを操作する音が聞こえ、室温がまた上がっていく。
「絶対あたたかくしててよ」
羽毛のように柔らかく、包み込むような声だった。葦野はそれだけ言い残して、もう一度だけ穂高の頭を撫でてから、今度こそ出て行った。朝まで寄り添っていてくれたことには、何一つ触れなかった。
部屋に静けさが戻る。毛布を巻いたまま、穂高はそろりと身体を起こし居間へと移動した。まだ少し体は重かったが、寝ているだけでは心のほうが持たなかった。カーテンを引くと、向かいの建物の青い屋根がうっすらと白くなっていた。路面にも粉砂糖を振ったような雪が残っている。光の反射に思わず目を細めた。アパートの敷地に植えられているナナカマドの木の赤い実も雪に飾られ、そこへツグミがやってきて夢中でついばんでいる。その下の通りには、一つだけ足跡が残っていた。キツネのように真っ直ぐな足跡。葦野のものだろうか。
「すぐ戻る…って」
葦野の言葉がふと思い出される。あの言葉は、この部屋に、また戻ってくるという意味なのだろうか。穂高はソファへ視線を落とした。そこには、葦野のマフラーが丁寧に畳まれたままになっていた。
台所に用意されていた粥を温め直して食べ、薬を飲む。淡い味に満たされ、静かな余韻に身を預けながら穂高はまた眠った。
それからの時間は、ただ静かに流れていった。穂高は浅く眠っては目を覚まし、また眠った。
昼下がりになっても葦野はまだ戻ってこなかった。起き上がって再びカーテンを開けると、雪はほとんど融けてしまっていた。窓の外から、ヒヨドリの甲高い鳴き声が聞こえる。どこか落ち着かない。
食欲は湧かず、湯を沸かして冷蔵庫を開ける。中には見覚えのない柚子のシロップの瓶が入っていた。白湯にそれを溶かして飲む。ふわりと立ち上がった柚子と生姜の香りに、それが葦野が作ったものだとなんとなく思った。
ソファに沈み込んでいると、昨夜、左腕に感じた手のひらの感触が、ふっと蘇ってくる。少しだけ荒れていて、あたたかい手。熱い息をひとつ吐いて、穂高はソファに身体を横たえた。
ぬるく、とろけるような柚子の香りに包まれて、ゆっくりとまどろむ。夢の中では、また葦野の腕が自分を包んでいた。
ーー
蝋燭のようにか細くなった冬の陽が窓辺に差し込んでいた。その光は、淡く鈍いオレンジ色で、窓辺に置かれたブルースターの越冬鉢を、ほんのりと温めている。ハシブトガラスの透き通った鳴き声が遠くから聞こえ、続くように町の夕方のチャイムがくぐもったメロディーを奏でた。
ソファに小さく丸まるように、穂高は毛布にくるまっていた。どうやらまた眠っていたらしい。そこへ玄関の扉が開く音がして、意識が水面に浮かぶようにゆっくりと戻ってくる。
「泉、体調どう?……ソファーにいたの?」
声がする。懐かしい声だった。胸の奥にまで届くような、低く掠れて、優しくて、安心させてくれる響き。しかし、穂高の唇は重たく、声にならなかった。喉の奥に言葉がつかえて、うまく吐き出せない。
「どうしたの?…大丈夫?」
音を立てず近づいてきた気配とともに、葦野がそっと額に手を当ててくる。
外気で冷やされた手が熱を持った体に心地よかった。触れられた額から、じんわりと安心が染み込んでくる気がした。
そのやさしさに、胸がいっぱいになった。
「……どうしてくれるんだ……」
ぽつりと落とした言葉は、空気を震わせるほどの力を持たず、かすれて口の中で溶けていった。
「……うん?」
葦野は穂高の隣に膝をつき、毛布をかけ直しながら、聞き逃すまいと顔を寄せてくる。
「もう、夕方…」
「うん、そろそろ四時半くらい」
「すぐに戻ってくるって……」
「……あ、色々食材とか、薬とか買ってて…遅くなってごめんね」
葦野は声を小さくして詫び、「体調悪くて心細かったよね」と安心させるように穂高の頭を撫でた。
その瞬間、穂高は喘ぐように息を吸い込んで肩を震わせ、彼の手を振り払うと毛布の中に顔を沈めて小さな声で呟いた。
「違う…。ちがう……!なんで……」
「泉?」
「君には……。君には…今も、大切な人がいるのに…なんで、…どうして、僕にこんな……!」
その声には涙こそなかったが、震えるほどの熱がこもっていた。あふれる気持ちが行き場を失い、やり場のない思いが言葉になって溢れ出た。それは怒りではなく、ただただ戸惑いと苦しさの裏返しだった。
葦野の気持ちに気づかないほど鈍感ではない。むしろ、気づいてしまったからこそ、心が揺れていた。信頼してもらえることが嬉しかった。彼の声に、視線に、触れる手に、自分への好意が滲んでいることも分かっていた。それが嫌ではなくむしろ心地よいと思ってしまう自分に戸惑いながら、けれど、受け入れようとする度に、彼の左手に光る細い指輪が穂高の心をためらわせる。
あの秋の日の夜、彼に抱きしめられてから、ずっと、おかしくなりそうだった。
葦野は、静かに微笑んだ。無理に言葉で返すことなく、そっと両腕を広げて、穂高をその中に迎え入れる。抵抗する間もなく、穂高の身体はその胸に包まれた。やわらかく、逃れようのない温もりに満ちていた。心臓の音が近づく。鼓動の音が、重なっていくことに穂高は安堵と同時に、怖くなった。
求めていたはずなのに、強くなりすぎた気持ちが、今にも自分を壊してしまいそうだった。
目をぎゅっと閉じる。
「泉、ごめん……君のこと、……好きなんだ」
その低く真っ直ぐな声が、耳元で静かに響く。
穂高は、目をそっと開いた。
「…………知ってる……でも…」
葦野の左手の薬指には、今も大切な思い出がそっと寄り添っている。それを否定することはできないし、したくもなかった。
葦野は穂高を抱きしめたまま、言葉を紡ぐように口を開いた。
「……彼女は、ぼくに、そのままで良い って言ってくれたんだ……でも」
葦野にとって穂高は、世界そのものを違う光で見せてくれた人だった。ただ一緒にいるだけで、穂高のまなざしが差し込む先に、新しい美しさを感じさせてくれる。青空は、こんなにも鮮やかにやさしく世界を包んでいるものなのだと教えてくれたのだ。
「君が青い色を見せてくれたんだ。……雲の上にある山から降りて、ぼくのところに来てくれた」
ほんの些細な日常が、彼にとっては新しい風景だった。
穂高のまなざしが触れるものすべてが、美しく思えた。
「手放せない……」
君にとっては、不本意だったかもしれない。それでも、どうしても一緒にいたい。穂高と、生きていきたいと思ってしまった。
「泉……」
なんでもそつなくこなすくせに、言葉はどこか不器用で、落ち着いているかと思えば、時々少年のように無邪気で。野の花を愛していて、山が好きで、
同い年で、同性の、美しいひとだと思った。
それは、葦野の心からの声だった。
「君と、一緒にいたいよ」
強く、深く、抱きしめる。
「ぼくのところに落ちてきて」
その腕に一層強く抱きしめられ、低い声が耳のすぐ横で響く。穂高は苦し気に息を吐いた。
「……僕も……岳と一緒がいい……君のこと、……」
言葉の続きを告げる前に、穂高の身体からふっと力が抜けた。
燃えるように熱を帯びた身体は、感情の嵐のあとで、静かに眠りへと落ちていく。
「泉……?……!」
その様子に、葦野は驚いて身を起こし、すぐに穂高を抱き上げてベッドへと運んだ。
首元に手を当てて熱を確かめる。先程よりも熱が上がっているような気がした。無理をさせた自覚はある。心配で仕方がなかった。しかし、それ以上に、胸の奥があたたかく満たされていくのを止めることができなかった。
今晩も冷え込む予報だ。葦野はカーテンを静かに閉めると、穂高の隣にそっと横になり、その熱を逃がさないように、優しく、けれども固く抱きしめた。
この胸の中で眠る彼の存在が、これから自分のすべてになる。
そう、確かに思った夜だった。
生き物メモ
ユズ(柚子) Citrus junos
ミカン科ミカン属の常緑小高木。初夏に小さな白い花を咲かせる。果期は秋から冬にかけて球形の黄色の果実を結ぶ。酸味は強く、独特の爽やかな芳香を放つ。
花言葉は「恋のため息」「汚れなき人」など。
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