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11:登攀

Ascent  西国分寺駅のホームを渡り、武蔵野線に乗り換える。車窓には冬枯れた町の風景が流れていく。からりと晴れた薄い色の空と葉を落とした街路樹。どこか殺風景な町とは裏腹に、車内には艶やかな色彩が点在していた。鮮やかな振袖や、すらりとした背広に身を包んだ若者たちが、ぽつりぽつりと席に座っている。 「成人式だね」 「うん」  葦野のつぶやきに穂高が短く返す。車両の隅に寄り添って立つ二人のあいだには、穏やかな空気が流れていた。 「泉、寒くない?」 「大丈夫。暑いくらい」 「身体、絶対冷やさないでよ?」 「だいじょうぶだって」  葦野は穂高が着ている薄手のダウンジャケットが、どうにもお気に召さないらしい。天下のパタゴーニャのダウンだぞ。それに下はファー・ノースのフリース、肌着は山鈴(ヤマスズ)のメリノウールのインナー。ほぼ山装備だ。そう説明してみたものの、葦野はムッとした表情を浮かべたまま、いつものラクダ色のダッフルコートに合わせていたマフラーを外し、そっと穂高の首の後ろに滑り込ませた。その過保護ぶりに苦笑いしながらも、穂高は半月前のことを思い出して、それもそうかと思う。  先日まで穂高は冬の冷え込みで半身に負った挫創の古傷が痛み、さらに仕事の多忙さによる不摂生が重なって、一週間ほど寝込んでいたのだ。その間、葦野はほとんど付きっきりで看病をしていた。そして不思議なことに、すっかり体調が回復してからも、葦野は穂高の家に入り浸るようになった。今日も一緒に家を出てきたところだ。 「岳の匂いがする」 「そっ……ういうこと言わないの」  穂高はマフラーに口元をうずめた。花のような香りが心地よい。その様子を見ていた葦野は、困ったように眉をひそめ、目を逸らした。穏やかで飄々とした雲のような男が、自分にべた惚れしていて、その愛情を何も考えず素直に受け取れるのが正直嬉しかった。  あからさまに照れている彼の表情がどうにも可愛らしくて、つい意地悪をしたくなってしまう。いい年をした男が、まるでティーンエイジャーのように心を浮つかせている。葦野と恋人になってからのこの半月、どうにも自分は少しおかしい。 「岳は、成人式はスーツ? 袴? どっちだった?」 「ん……どっちだったかなあ……あんまり記憶にない。成人式、出たっけ……あーでも、袴着た記憶がある……?」 「あは、もう二十年も前のことだもんなあ……」 「泉は? 袴姿、似合いそう」 「僕は出てない」 「えっ、意外……どうして?」 「その頃、色々忙しくてね」  祝日の鈍行列車は、ゆっくりとした速度で二人を次の目的地へと運んでいた。 ーー 「おおー」 「結構大きい施設だね」  今日の目的は、クライミングジムで汗を流すこと。穂高の地元に新しくジムが出来たことを聞きつけ、ふたりで体験してみることになったのだ。  三階建てよりもさらに高く見えるビルの外壁はガラス張りで、その内側にはそびえ立つようなクライミングウォールが見えた。ロープを使って壁を登る人影がいくつか揺れている。  その様子に、隣に立つ穂高がごくんと息をのんだのが分かった。葦野は穂高にちらりと視線を向ける。  昨年の秋に高所恐怖症を発症した穂高は、それ以来、克服のためのトレーニングに余念がない。不慮の事故を完全に避けることは難しいが、知識と経験をもって恐怖心と共存していくことはできる。そう言って、穂高はレスキュー講習会に参加したり、ロープワークを学んだりと、仕事以外でも多忙な日々を送っていた。練習と称してレスキューロープで縛られたときは、――ただのもやい結びだったが――若干変な気持ちになったけれど。また葦野と共に山の自然を楽しみたいという気持ちがきっとそうさせるのだろうと思うと、努力している姿が愛おしかった。 「泉は、やったことある?」 「実は初めて。山でも鎖場越えるくらいしか」 「そっか。お互い初めてで嬉しいね」 「うん」  葦野が軽い口調で尋ねると、穂高の表情が少しだけ柔らかくほころんだ。彼の手を取ると、少し冷えていた。きゅ、と指先に力を込め、建物の入り口までの数歩をともに歩く。手はすぐに離した。日当たりの良いジムの店先には早くもジンチョウゲの花が開き、甘いレモンのような香りを漂わせていた。 「クライミング、オリンピックのやつかっこよかったよねえ」 「うん。あんなにはならなくていいけど、体を鍛えることは間違いなく良いことだから」 自動ドアが音もなく開き、暖かい空気が二人を包み込む。軽やかなBGM、色とりどりのギアや用具に溢れた賑やかな空間が視界いっぱいに広がった。 ーー 「えっ、あれ?泉……? 穂高泉! 久しぶり……!?」  受付から、驚きの声が上がった。突然名前を呼ばれて、穂高はぎょっとして顔を上げる。そこにいたのは、懐かしい姿の女性だった。 「えっ……あ、…あ!? 涼子……?」  葦野は穂高のうしろで小さく首を傾げた。受付に立っていたその女性は、どうやら穂高の知り合いらしい。すらりとした体つきで、肩にかかるボブスタイルの髪が揺れていた。穏やかそうな、同年代の女性。 「わーほんと久しぶり、懐かしい〜。こっちに帰って来てたんだね? 今何してるの?」 「いや、あ、うん……そう。都内で働いてる」 「へえ! そうなんだ。ね、この辺でさ、成人式でライブやったの覚えてる?」 「あー……そうだね、懐かしいな」  穂高が低い声で相槌を打つ。 「バンド?」   そういえば、穂高は学生時代、軽音部でギターが得意だと言っていた。その時は聴きたいと何度もせがんだが、色々あって有耶無耶になっていた。頭の隅に追いやられていた彼との約束を思い出しながら、葦野がぽつりと声を漏らす。 「バンドメンバーのひと?」 「あ、ごめんなさい、はじめまして。私、長岡って言います。泉とは学生の時のバンド仲間で」  長岡は葦野の存在に気づくと、胸元に下げられていたネームプレートを掲げた。 「そうなんだ。はじめまして、葦野といいます」 「長岡?」穂高が首を傾げた。 「そー。結婚したの。子どもが二人とも小学校に上がったから、日中だけここで働いてるんだ」 「そうだったのか……。教えてくれたらよかったのに」  思わずといった穂高の言葉に長岡はなじるような目をして口を開く。 「教えるも何も、別れてから連絡先知らないし。センちゃん転勤ばっかりで、バンドメンバーみんな、どこにいるのか分かんなかったんだよ?」 「ちょ……っと」 「え? ふたり、付き合ってたの?」  葦野の戸惑ったがかすれ声が聞こえる。穂高は、ぎ、と首を回して見上げると、彼は気まずそうに少しだけ視線を逸らし、それからまたこちらを見て、困ったように笑った。 「そうなの。大学のときに。お互い年取ったねー」 「んっ……」  穂高はわざとらしく咳払いをして、「もういいだろ」と言わんばかりの視線を長岡に向ける。葦野のコートの袖をぐっと引っ張った。思わず力が入ってしまったらしく、葦野がたたらを踏んでよろけた。 「そうだけど、今はこの人とお付き合いしているから。……とりあえず一時間コース、ふたりとも初心者なので、色々教えてください」 ーー 「むっ……無理無理無理、むりむり……!」  ぎいーっと、もはや言葉にならない悲鳴をあげながら、葦野はボルダリングの壁にへばりついていた。膝はガクガクと震えている。  ビギナーコースは、高さ約四メートルの壁に色とりどりのホールドが無数に埋め込まれているブースだった。専用のウェアに着替えた葦野は、ホールドを必死に掴んでいるが、普段とは違う身体の使い方故、その長身をうまく支えきれていないようだった。 「岳、頑張って。右手、上に伸ばして」 「むり、おちるぅ……!」  そう言いつつも、足元のマットからは三十センチも離れていない。葦野は力尽きたように手 の力を抜き、ふらりと壁から離れてマットにへたり込んだ。 「毎日、硬い茎とか枝とか切ってるのにね……?」葦野は悔しそうに、自分の手のひらを開いたり閉じたりしていた。 「うーん……うまく体を使えてないんじゃないかな」  穂高は葦野の手のひらを両手で包み込むように握ると、そっと自分の手を葦野の腕、肩、背中へと滑らせながら言った。 「手だけじゃなくて、こう、腕と肩と背中、全部つながってる筋肉を意識して動かすんだよ」  葦野は、うーんと首を傾げながらくすぐったそうに笑った。 「つぎ、僕の番」そう言って、穂高は壁の前に立ち、ホールドに手をかけた。一呼吸置いて、足元のホールドに足をのせ、上方のルートを確認する。  高所恐怖症を初めて自覚したのは、高尾山の稲荷山コース、標高四百五十メートル地点だった。その後、職場近くの都庁の展望室で再確認しようとしたが、やはり気分が悪くなった。ただ、室内だったこともあり、そこまで深刻ではなかった。  今回、クライミングジムに来たのは、自分がどんなトリガーで恐怖を感じるのか確認するためでもある。そしてもちろん、恋人になった葦野と一緒にアクティビティを楽しむ、という目的も。  スッと息を吸う。右手に力を込め、ホールドをしっかり掴み、筋肉を駆使して体を持ち上げる。確認していたルートを思い出しながら、無心で登っていく。  体を動かすのは、好きだ。目的のために筋肉を使う。呼吸と脳と神経がひとつにつながり、体のすべてが連動しているような感覚になる。  天井に、手が届いた。 「泉、すごい!」  ホールドを掴んだまま振り向くと、少し離れた場所に立つ葦野が、心配そうにこちらを見ていた。 「だいじょうぶ、ぜんぜん怖くない」  安心させるように声をかける。壁を下りてマットに戻ると、葦野が駆け寄ってきた。 「すごい、かっこよかった! 一撃だったね!」 「一撃?」 「一発クリアのこと言うんだって」  そう言って、葦野はジム手製と思われる「クライミング用語集」のラミネートパウチを見せてきた。ページをぺらぺらとめくる。 「へえ……じゃ、つぎ。岳、リベンジ。『ガンバ』 」 「はぁい」葦野はふわりと笑って、再び壁に挑んでいった。  三十分ほど、お互い夢中で体を動かした。ほどよく汗をかいたところで、一息入れることにした。すると穂高の軽快なクライミングに目をつけたスタッフが、彼に体験でリードクライミングを勧めてきた。穂高は迷うことなく二つ返事で参加を決めた。 ーー  葦野はされるがままにハーネスを装着されていく穂高を見ながら、胸がざわつくのを感じていた。いくら命綱があるとはいえ、彼には「怖い」と感じてほしくなかった。四メートルは大丈夫と言っていたが、今度の壁は二十メートルもある。  そんな葦野の心配をよそに、穂高はスタッフとやり取りしながら、聳え立つ壁をスルスルと登り始めてしまった。 「泉……無理しないでよ!」 「だいじょーぶ」  長袖のウェアに隠れているが、その動きから穂高の体が無駄なく、しなやかに動いているのがよくわかる。葦野は最近『ダーウィンが来た!』で見た南米のヤマネコを思い出していた。  もうすぐ、十メートル地点だ。 「おわー、やば」 「ガンバガンバ!」「十五メートルの青い星マークまで行ってみましょう!」  穂高の気の抜けた声に、スタッフが明るく指示を飛ばす。 「あー、楽しいかも……」  その一言が、宙にふわりと落ちてきた。葦野はホッとしつつも、落ち着かない。穂高がどんどん遠くへ行ってしまうような、不思議な寂しさもあった。しかし十メートルを超えると、穂高の動きが少しずつ鈍くなっていく。呼吸も、さっきより浅くなっているようだった。  不意に、穂高が振り返った。不安げに葦野の姿を探すように視線がさまよう。  目が合う。 「泉!! 大丈夫!」  こんなに声を張り上げたのは、いつ以来だろう。その声に、穂高はハッとしたように葦野の目を見つめ、しっかりと頷いた。  葦野は自分と穂高の鼓動が、まるで隣で鳴っているかのように感じられた。  やがて穂高は、残りの数メートルを登り切り、目標の青い星マークに触れた。歓声が上がった。 「手、離していいですよー。怖かったら目、つむってくださーい」  スタッフがロープを引き、穂高がゆっくりと降りてくる。今度は、まるで首根っこを掴まれた猫のようだった。 「泉! がんばったね!」  穂高の足がマットに着いた瞬間、葦野は駆け寄ってその体を抱きしめた。穂高はにんまりと笑い、背伸びをして葦野の首に手を回し、グッと強く抱きついてくる。 「あはは、登れた! 岳! 君のおかげだ」  耳元で、弾けるような声がする。葦野の胸が踊り跳ねるように高鳴った。  そっと額を寄せ合い、穂高の無事を静かに噛みしめた。 ーー 「岳? 何見てるの?」  脱衣所から出た穂高が居間に戻ると、葦野はソファーでスマートフォンを見ながらくつろいでいた。無表情ながら、ほんの少しだけ目尻が下がっている。動物の動画でも見ているのかと思い、「シャワーどうぞ!」と声をかけると、葦野は「わっ」と慌ててワイヤレスイヤホンを外した。 「何の動画?」  どうやら帰宅してからずっと見ていたらしい。じっと葦野を見つめると、観念したようにスマホの画面を見せてきた。 「!!!!!!」  そこに映っていたのは学生時代の穂高だった。クローゼットの奥に今も眠るアコースティックギターを抱え、弾き語っている姿だった。 「帰りがけに、長岡さんがURL教えてくれて……」 「あ……あ……あいつ……」  穂高が低く呟く。ジムの帰り、会員登録をしている横で、葦野と長岡が何か話しているなとは思っていた。限定公開の動画のようだが、当時、記録用にアップしていたのだろう。それにしても、今見ると、下手すぎる。恥ずかしすぎる。 「ぎいーッ」  穂高は水滴の残る髪をガシガシと掻きむしった。 「泉、鳥みたいになってる」「誰がコゲラだっ」「……それって……どんな鳥?」  葦野は笑いながら穂高の髪を手櫛で整えた。 「ほら、冷えるから。上、もっと着て」  そう言って、カーディガンを穂高の肩にかける。 「こんなの見られるくらいだったら、ちゃんと、弾いたのに……」 「それも嬉しいし、こうやって昔の泉のことを知れるのも嬉しいよ。ちょっと昼間は、やきもちやいたけど。長岡さんもいい人だったし、」 「……」  押し黙る穂高の腕をそっと引いて、ソファの隣に座らせた。背中に腕を回し、優しく寄り添う。   シャワーを浴びたばかりの体はホカホカと暖かい。彼が暖かくしているだけで幸せだ。 「泉、大好き」 その一言が、暖かな夕暮れの部屋に溶けていった。穂高は少しだけ葦野に体重を預けた。 「ねえ、なんていうバンド名だったの?」 「SIHKI-ROCK……」 「へえ、シキってフォーシーズンの四季?泉っぽいね」 「うん……や、調べても出ないと思うけど」 「!……めっちゃ出てきたけど、これ?」 「わあーッ!なんで?!……見ないで!」  スマホを操作する葦野の手元を固定しようと穂高が身を乗り出す。ヤマネコのようなしなやかな重さに、葦野の胸が温まる。スマホを静かに手放すと、その体をそっと抱きしめた。  穂高は自分の置かれた状態に少しだけ顔を赤くしながらも、潔くその体温に身を寄せた。 生き物メモ: ジンチョウゲ(沈丁花) ジンチョウゲ科ジンチョウゲ属の常緑低木。春先に咲く花からは甘酸っぱくスパイシーな香りがする。クチナシ、キンモクセイとともに、日本の三大芳香木の一つに数えられ、庭木としても人気。 花言葉は「永遠」「不滅」「栄光」など。

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