1 / 5
プロローグ ~夏休みの幻影~
息も詰まるような、ひどい熱帯夜だった。
肌にまとわりつく湿気と熱のせいで、僕の思考は少しだけ、のぼせていたのかもしれない。
……いや、そう信じたかった。
なぜなら僕は、名前も知らない初対面の男性に。
生まれて初めて、どうしようもないほどの胸の高鳴りを覚えてしまったのだから──。
***
事の始まりは、夏休みも終盤に差し掛かったある日の夜。
同室の幼馴染みである彰那 との、些細なやり取りだった。
「咲都 、アイス食いたくね?」
「あれば食べたいけど、冷凍庫にストックなんてないよ?」
「まじかー。じゃあ、ジャンケン負けたやつが買いに行こうぜ!」
「えっ、僕が夕飯の洗い物しておくから、言い出しっぺが行きなよ……」
「いや、負けた方が買い出し! 勝った方が皿洗い!」
普段は家事を避ける彰那が、珍しく皿洗いを請け負うという。
その提案にうっかり乗ってしまった僕は、見事にジャンケンで敗北し、1人大きな買い物袋を提げて寮への帰路についていた。
夜になっても、アスファルトから立ち上る熱気は冷める気配がない。
(……早く帰らないと、アイスが溶けちゃうな)
袋の中で結露する箱入りのアイス。
暑さを紛らわせるため、歩きながら一本食べてしまおうかと手を伸ばしかけた、その時だった。
「あの……紫苑 学園の学生寮って、どっちかご存知ですか?」
背後から、低く、耳に馴染む滑らかな声がした。
振り返った瞬間――僕は、呼吸をするのを忘れてしまった。
「……え」
そこに立っていたのは、大きなスーツケースを引いた、同年代か少し上くらいに見える長身の青年。
緩くパーマのかかった茶髪が、無造作にかき上げられている。
街灯に照らされたその顔は、彫刻のように整っていて、ひどく大人びていた。
人の見た目にあまり関心のない僕の目が、一瞬で釘付けになる。
ただ立っているだけなのに、彼から放たれる圧倒的な色気。
周囲の空気がそこだけピンと張り詰めているように感じた。
「今日から入寮なんだけど、敷地が広すぎて迷っちゃって」
彼が、微かに困ったように微笑む。
その表情に、ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
「……ご、案内します。僕もちょうど、寮に帰るところなので」
「本当? 助かる。夜道でいきなり声掛けて驚いたよね、ごめんね」
「いえ……。僕も初めて来た時は広さに驚いたので、気持ちはわかります」
横並びで歩き始めると、蒸し風呂のような熱気の中にふわりと、爽やかなグリーンの香りが混ざった。
初めて嗅ぐ、大人の香り。
それが彼の体温から漂っているというだけで、むせ返るような暑さがスッと引いていくような錯覚に陥る。
「……買い物帰りなの?」
不意に、彼の視線が僕の手元のビニール袋に落ちた。
「はい。寮の幼馴染みがアイスを食べたいって言うので……ジャンケンに負けて、買いに出てたんです」
「うわ、いいな。俺もアイス食べたくなってきた」
「……一つ、食べますか? 箱入りでたくさんあるので」
「え、ほんとに? それなら一緒に食べながら歩こうよ」
僕が袋から取り出した柑橘系のアイスバーを渡すと、彼は「ありがとう」と目を細めてそれを口に含んだ。
「ん、美味い。……久しぶりに食べたけど、誰かと一緒だからかな」
「……この暑さだから、余計に美味しく感じるんだと思いますよ」
「確かにね」
彼がくすりと笑う。
涼しげな横顔。
アイスが通過して上下する、男らしい喉仏。
すぐ隣を歩く彼の存在感が大きすぎて、僕はアイスの味なんてまったく分からなくなっていた。
「……もしかして、あの明かりのついてる建物が寮?」
「あ、そうです。入ってすぐに管理人さんがいると思うので、声を掛けて……って、彰那!?」
寮のエントランス前。
スマホをいじりながら壁にもたれていた彰那が、こちらの足音に気付いて顔を上げた。
「おせーよ咲都! 待ちくたびれたぞ。なんだその荷物、明日の飯の分まで……」
「この暑さの中、わざわざ買いに行ってあげた僕に向かってその言い方? アイスあげないよ」
「悪かったって! ……で、隣のやつは? 知り合い?」
「この人は……」
僕が紹介しようとした、その矢先。
スーツケースの音に気付いたのか、エントランスから寮の管理人が飛び出してきた。
「遅かったねぇ! あなたが今日入寮の子だね! さぁさぁ、部屋まで案内するから中入って!」
「はい、よろしくお願いします! ……あっ、君、咲都っていうんだね。案内してくれてありがとう! アイスもごちそうさま!」
彼は僕にひらりと手を振り、鮮やかな笑顔を残して、そのまま寮の奥へと消えていった。
「待っ……」
伸ばしかけた僕の手は、空を切った。
彼の名前を、聞きそびれてしまった。
僕の名前だけが、彼に知られてしまったのに。
「げっ。お前、あいつに俺のアイスあげたのかよ」
「……うるさいな。箱なんだから、彰那の分もまだあるよ」
不満げな彰那の声も、今の僕にはノイズでしかない。
僕の鼻先には、まだ彼が残していったグリーンの香りが微かに漂っていた。
同じ男の僕ですら目を奪われてしまった、あの整った顔立ちと、余裕のある大人の色気。
きっと、上の学年に違いない。
(……もし今度、どこかで会えたら)
その時は、絶対に僕から声を掛けて、名前を聞こう。
溶けかけのアイスの棒を握りしめながら、僕は熱を持った胸の奥で、静かにそう誓った。
ともだちにシェアしよう!

