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プロローグ ~夏休みの幻影~

息も詰まるような、ひどい熱帯夜だった。 肌にまとわりつく湿気と熱のせいで、僕の思考は少しだけ、のぼせていたのかもしれない。 ……いや、そう信じたかった。 なぜなら僕は、名前も知らない初対面の男性に。 生まれて初めて、どうしようもないほどの胸の高鳴りを覚えてしまったのだから──。 *** 事の始まりは、夏休みも終盤に差し掛かったある日の夜。 同室の幼馴染みである彰那(あきな)との、些細なやり取りだった。 「咲都(さきと)、アイス食いたくね?」 「あれば食べたいけど、冷凍庫にストックなんてないよ?」 「まじかー。じゃあ、ジャンケン負けたやつが買いに行こうぜ!」 「えっ、僕が夕飯の洗い物しておくから、言い出しっぺが行きなよ……」 「いや、負けた方が買い出し! 勝った方が皿洗い!」 普段は家事を避ける彰那が、珍しく皿洗いを請け負うという。 その提案にうっかり乗ってしまった僕は、見事にジャンケンで敗北し、1人大きな買い物袋を提げて寮への帰路についていた。 夜になっても、アスファルトから立ち上る熱気は冷める気配がない。 (……早く帰らないと、アイスが溶けちゃうな) 袋の中で結露する箱入りのアイス。 暑さを紛らわせるため、歩きながら一本食べてしまおうかと手を伸ばしかけた、その時だった。 「あの……紫苑(しおん)学園の学生寮って、どっちかご存知ですか?」 背後から、低く、耳に馴染む滑らかな声がした。 振り返った瞬間――僕は、呼吸をするのを忘れてしまった。 「……え」 そこに立っていたのは、大きなスーツケースを引いた、同年代か少し上くらいに見える長身の青年。 緩くパーマのかかった茶髪が、無造作にかき上げられている。 街灯に照らされたその顔は、彫刻のように整っていて、ひどく大人びていた。 人の見た目にあまり関心のない僕の目が、一瞬で釘付けになる。 ただ立っているだけなのに、彼から放たれる圧倒的な色気。 周囲の空気がそこだけピンと張り詰めているように感じた。 「今日から入寮なんだけど、敷地が広すぎて迷っちゃって」 彼が、微かに困ったように微笑む。 その表情に、ドクン、と心臓が大きく跳ねた。 「……ご、案内します。僕もちょうど、寮に帰るところなので」 「本当? 助かる。夜道でいきなり声掛けて驚いたよね、ごめんね」 「いえ……。僕も初めて来た時は広さに驚いたので、気持ちはわかります」 横並びで歩き始めると、蒸し風呂のような熱気の中にふわりと、爽やかなグリーンの香りが混ざった。 初めて嗅ぐ、大人の香り。 それが彼の体温から漂っているというだけで、むせ返るような暑さがスッと引いていくような錯覚に陥る。 「……買い物帰りなの?」 不意に、彼の視線が僕の手元のビニール袋に落ちた。 「はい。寮の幼馴染みがアイスを食べたいって言うので……ジャンケンに負けて、買いに出てたんです」 「うわ、いいな。俺もアイス食べたくなってきた」 「……一つ、食べますか? 箱入りでたくさんあるので」 「え、ほんとに? それなら一緒に食べながら歩こうよ」 僕が袋から取り出した柑橘系のアイスバーを渡すと、彼は「ありがとう」と目を細めてそれを口に含んだ。 「ん、美味い。……久しぶりに食べたけど、誰かと一緒だからかな」 「……この暑さだから、余計に美味しく感じるんだと思いますよ」 「確かにね」 彼がくすりと笑う。 涼しげな横顔。 アイスが通過して上下する、男らしい喉仏。 すぐ隣を歩く彼の存在感が大きすぎて、僕はアイスの味なんてまったく分からなくなっていた。 「……もしかして、あの明かりのついてる建物が寮?」 「あ、そうです。入ってすぐに管理人さんがいると思うので、声を掛けて……って、彰那!?」 寮のエントランス前。 スマホをいじりながら壁にもたれていた彰那が、こちらの足音に気付いて顔を上げた。 「おせーよ咲都! 待ちくたびれたぞ。なんだその荷物、明日の飯の分まで……」 「この暑さの中、わざわざ買いに行ってあげた僕に向かってその言い方? アイスあげないよ」 「悪かったって! ……で、隣のやつは? 知り合い?」 「この人は……」 僕が紹介しようとした、その矢先。 スーツケースの音に気付いたのか、エントランスから寮の管理人が飛び出してきた。 「遅かったねぇ! あなたが今日入寮の子だね! さぁさぁ、部屋まで案内するから中入って!」 「はい、よろしくお願いします! ……あっ、君、咲都っていうんだね。案内してくれてありがとう! アイスもごちそうさま!」 彼は僕にひらりと手を振り、鮮やかな笑顔を残して、そのまま寮の奥へと消えていった。 「待っ……」 伸ばしかけた僕の手は、空を切った。 彼の名前を、聞きそびれてしまった。 僕の名前だけが、彼に知られてしまったのに。 「げっ。お前、あいつに俺のアイスあげたのかよ」 「……うるさいな。箱なんだから、彰那の分もまだあるよ」 不満げな彰那の声も、今の僕にはノイズでしかない。 僕の鼻先には、まだ彼が残していったグリーンの香りが微かに漂っていた。 同じ男の僕ですら目を奪われてしまった、あの整った顔立ちと、余裕のある大人の色気。 きっと、上の学年に違いない。 (……もし今度、どこかで会えたら) その時は、絶対に僕から声を掛けて、名前を聞こう。 溶けかけのアイスの棒を握りしめながら、僕は熱を持った胸の奥で、静かにそう誓った。

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