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プロローグ ~転校生、一目惚れ~

「……咲都(さきと)か。なんだよあの子……可愛すぎるだろ」 全寮制男子校、紫苑(しおん)学園高等部。 1年生の棟、1階の最奥。 今日から俺の新しい城となる108号室の扉を閉めた瞬間、俺は共用リビングのソファへ脱力するように倒れ込んだ。 ――ドクン、ドクン。 早鐘を打つ自分の鼓動がうるさい。 親の都合で引越しを余儀なくされた俺は、親元を離れて自由にやるため、特待生というカードを使ってこの全寮制高校にやってきた。 どうせどこに行っても大して変わらない。 そんな退屈しのぎのような気持ちで足を踏み入れたはずだったのに。 (……とんでもないものを見つけてしまった) ソファに顔を埋めると、ほんの数十分前の記憶が、熱を帯びて鮮明に蘇ってくる。 *** ――息も詰まるような、ひどい熱帯夜だった。 入学資料のマップの縮尺を読み違えた俺は、片手に重いスーツケースを引きずりながら、まとわりつく湿気にうんざりしていた。 その時だ。 街灯に照らされた夜道の前方に、大きな買い物袋を提げて歩く、一つの人影を見つけた。 彼の歩く姿勢はひどく綺麗で、そこだけ熱帯夜の淀んだ空気が澄んでいるように見えた。 「あの……紫苑学園の学生寮って、どっちかご存知ですか?」 背後から声をかけた瞬間。 振り返ったその顔を見て、俺は思わず息を呑んだ。 (……なんだ、この子。……すごく、綺麗だ) 色素の薄い、透き通るような瞳。 それなのに、髪は夜の闇に溶けてしまいそうなほど黒く、風にあてられて軽やかになびいている。 そして何より、俺の顔を見た瞬間、彼の中に走った明らかな動揺が、手に取るようにわかった。 彼の呼吸が止まり、瞳が俺の顔に釘付けになっている。 「今日から入寮なんだけど、敷地が広すぎて迷っちゃって」 俺が彼を安心させるように、困ったように微笑んでみせると。 ドクン、という心臓の跳ねる音が聞こえてきそうなほど、彼はわかりやすくふわりと頬を染めた。 ちょうど寮に帰るところだと言う彼と、横並びで歩き始める。 「……買い物帰りなの?」 「はい。寮の幼馴染みがアイスを食べたいって言うので……ジャンケンに負けて、買いに出てたんです」 (……幼馴染み、か) 同室にそんな親しい相手がいるのかと思うと、胸の奥が少しだけチクッとした。 今まで、他人の交友関係なんて気にしたこともなかったのに。 「うわ、いいな。俺もアイス食べたくなってきた」 「……一つ、食べますか? 箱入りでたくさんあるので」 お人好しな彼は、見ず知らずの俺に、あっさりとアイスを差し出した。 見知らぬ男に道を尋ねられたら案内し、欲しいと言われればアイスも渡す。 笑顔を見せれば、やわらかそうで白い頬も赤らめる。 彼の、あまりにも無自覚な危うさと甘さにあてられた熱を冷ますかのように、俺はもらったアイスにかじりついた。 「ん、美味い。……久しぶりに食べたけど、誰かと一緒だからかな」 安っぽい柑橘系のアイスバー。 だが、横で少し赤らんだ顔の彼と一緒に歩いているというだけで、この鬱陶しかった熱帯夜が、ひどく心地の良いものに書き換えられていくのがわかった。 (……不思議な子だ。一緒にいるだけで、満たされていく) ずっとこのまま歩いていたかった。 だが、その穏やかな時間は寮のエントランスで中断された。 「おせーよ咲都! 待ちくたびれたぞ」 (……この子の名前は、咲都) 壁にもたれていた騒がしい男。 あれがさっき言っていた、幼馴染みだろう。 咲都に遠慮なく話しかけるその姿を見て、俺の中で、明確な嫉妬という感情が産声を上げた。 「遅かったねぇ! あなたが今日入寮の子だね! さぁさぁ、部屋まで案内するから中入って!」 タイミング悪く、寮の管理人が飛び出してくる。これ以上ここに留まれば、不自然だ。 「はい、よろしくお願いします! ……あっ、君、咲都っていうんだね。案内してくれてありがとう! アイスもごちそうさま!」 俺は、咲都にだけ極上の笑顔を向けて、寮の中へと足を踏み入れた。 (……しまった。自分の名前、言いそびれた) だが、振り返ることはしなかった。 今、彼とこれ以上関われば、俺の隠しきれない独占欲が、あの純白の天使を怖がらせてしまう気がしたからだ。 *** ――そして、現在。 「……俺、どうかしちゃったな」 誰もいない部屋のソファで、手の中に残った冷たい記憶を反芻する。 あのままの『俺』で近づけば、彼はきっと警戒し、一定の距離を保とうとするだろう。 俺が求めているのは、そんな中途半端な関係じゃない。 (……咲都は俺のこと、見つけ出してくれるだろうか) いや、違う。 俺の方から、咲都の隣をこじ開けるんだ。 そう思った瞬間、俺の頭の中に完璧な擬態のアイデアが閃いた。 もし、咲都がときめいていた今の『俺』ではなく。 男らしさとは程遠い、黒縁メガネをかけた、どんくさくて頼りない転校生として現れたら。 お人好しな彼はきっと、一切の警戒心を抱くことなく、世話を焼くために俺のすぐ隣に座ってくれるはずだ。 「……ふっ」 暗いリビングに、俺の乾いた笑い声が響く。 この完璧な学園生活の始まりに、俺は最悪で、そして最高に甘いハッキングを開始しようとしていた。

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