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1-1 淡い期待

九月一日。 長い夏休みが明け、二学期が始まる。 一年四組の教室の扉を開けると、今日来るらしい転校生の話題で持ち切りだった。 自分の席につきながら、ふと、あの熱帯夜の記憶が蘇る。 彫刻のように整った彫りの深い顔立ち。 引き締まった長身と涼しげな目元から放たれる色気。 そして、特徴的な大人びたグリーンの香り。 (……もしかして、あの人かも) あり得ない期待を抱いてしまい、ドクン、と胸の奥が大きく脈打つ。 その浮つきをごまかすように、僕はギュッと自分の膝を握りしめた。 やがて、担任の入室と共に教室が一瞬で静まり返る。 「おはよう。早速だが、転校生の紹介だ。入れー」 心臓が、喉から飛び出そうだった。 息を呑んで見つめる教室の入り口。 そこに現れたのは──。 「兵藤晶(ひょうどうあきら)です。よろしくお願いしますー」 拍子抜けするほど、気の抜けた声だった。 あの彼と同じくらいの長身だが、猫背気味。 野暮ったい黒縁メガネに、寝癖が混じった緩いパーマの茶髪。 黒板の前に立つその姿は、あの夜に僕の呼吸を奪った圧倒的な色気とは対極にある、ふにゃりとした雰囲気をまとっていた。 (なんだ……。やっぱり、あの人な訳ないよね) 少しだけ残念なような。 でも、それ以上に、強烈な安堵があった。 だって、あの彼が同じクラスにいたら、僕の心がざわついて、落ち着かなくなる気がして──。 黒板の前でへらっと、少し頼りなげに微笑む転校生に、温かな歓迎の拍手が響く。 「みんな、よろしく頼むな。兵藤の席は、窓際の最後尾。隣の間宮が学級委員だから、困ったら頼るといい」 「えっ、あっ、はい、先生!」 名前を呼ばれ、僕は慌てて立ち上がった。 僕の方を見た転校生の兵藤くんは、パッと顔を輝かせ、トコトコと左隣の席へと歩いてくる。 「よろしくね、間宮くん」 彼が椅子に腰を下ろした、その瞬間だった。 ──ふわりと。 窓から吹き込んだ風が、彼の髪を揺らす。 僕の鼻先を、爽やかで、けれどひどく深く脳を痺れさせる、あの夜と同じグリーンの香りが掠めた。 心臓が、嫌な音を立てて跳ね上がる。 (まさか、あの時の……? いや、そんな訳ない。だって見た目も雰囲気も全然違うし、もしそうなら、彼だって僕に気づくはずだ) 僕の頭の中で、必死に論理的な否定が繰り返される。 隣の席の彼は、机に頬杖をつきながら僕の方へ体を向け、黒縁メガネの奥でつかみどころのない、やわらかな笑みを浮かべていた。 「……こちらこそ、よろしく」 僕は、引きつりそうな顔を必死に笑顔の形に固定して、頷き返すことしかできなかった。 無害なはずの彼の笑顔。 それなのに、なぜか得体の知れない動悸が止まらない。 朝のホームルーム。 担任の言葉なんて、今日の僕の耳には、ただの一文字も入ってこなかった。

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