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2-5 転校生、身悶える

寝室のドアが閉まり、咲都の気配が完全に遮断されたのを確認してから、俺は深く、重い溜息を吐き出した。 「……あぁ……クソ、可愛すぎだろ……」 足早に洗面所へ向かい、洗面台に手をつく。 鏡に映る自分を見つめながら、邪魔な黒縁メガネを乱暴に外した。 シャワーを浴びて濡れた髪を無造作にかき上げれば、そこにいるのはどんくさい転校生の兵藤ではない。 夏休みの夜、咲都の視線を釘付けにしたあの男の素顔。 だから俺は、咲都が起きている間は絶対に風呂に入れない。 濡れた素顔を見られれば、俺が二学期からずっと彼を騙していたことが一瞬でバレてしまうからだ。 「……焦らして楽しむって、決めたのにな」 熱めのシャワーを頭から浴びながら、自嘲気味に呟く。 俺の服に包まれて、頬を真っ赤に染めて出てきた咲都。 捲り上げられた袖から覗く細い手首と、無防備に曝け出された鎖骨が、網膜を通じて脳にジンジンとした痺れをもたらす。 (……あんな格好で『嫌じゃない』なんて、無自覚にもほどがある) あのまま抱き寄せたい衝動を、どれほどの理性を焼き切って抑え込んだか、咲都は一生知らないままだろう。 俺の匂いが染み付いたベッドで、あの子は今、無防備に眠っていて。 その事実だけで、脳の奥が焼けるように熱を帯びていく。 シャワーを済ませ、趣味部屋のベッドに身を投げた。 薄暗い天井を見つめながら、西日に照らされ頬を真っ赤に染め、不安そうに声を震わせて咲都が紡いでくれた言葉の数々を反芻する。 (……俺のこと、覚えていてくれたんだ……) 兵藤晶と夏休みに出会った男が同一人物だとは認識していないとはいえ、まさか香りで俺の面影を追っていたとは微塵にも思わなかった。 それ以上に、俺自身にここまで心を開いてくれたことがたまらなく嬉しくて。 一方で、どこまでも不安げに話す咲都を見て、今すぐ抱き締めて何も考えられなくなるぐらいドロドロに甘やかしたい衝動にも駆られた。 そしてその衝動のまま、自分でも驚くほどごく自然に、やわらかく愛しい頬に触れ──そのまま唇を落とそうとしていた。 (俺、よく耐えたな……) 自分の右手を持ち上げ、虚空を見つめる。 指先にはまだ、白くなめらかな肌の感触が熱を伴って残っている気がした。 触れられて嫌がるどころか、安心したかのように力が抜けて潤んでいく、色素の薄い瞳。 窓から差し込む西日に照らされて美しく輝くやわらかい黒髪。 視界を埋め尽くす全てが尊いきらめきを放っていて、今まで覚えたことのない満ち足りた高揚が胸の奥から溢れていく。 それと同時に。 自分の性欲を処理するためではなく、ただ相手を安心させたくて、大切にしたくて唇を重ねたくなるという感情を、俺は生まれて初めて覚えたのだ。 ふと、枕元に散らばった哲学書の数々に視線を移す。 小学校高学年の時、親父の書斎で何気なく手に取ったのをきっかけに、俺を夢中にさせ続けている学問。 二千年以上も前から、人間が人間の答えを知ろうとしているその試み。 そこに記された、愛や恋で他者に執着し、思い悩む人間の様を読むのは面白かった。 けれどそれは同時に、自分とは程遠く一生理解し得ない感覚だという、諦めに近い憧れでもあった。 俺は一生、真の意味で人間という己に没入できない生き物なのだと思っていた。 だからこそ、衝撃だったのだ。 本の中の文字でしかなかった感情が、今、俺自身の血肉を通ってこれほどまでに激しく脈打っている。 俺の中にも、こんなふうに誰かを愛おしく思い、理性を手放すほどの熱があったのだと。 恋がこんなにもどうしようもなく、自分を人間たらしめてくれるだなんて──。 (……咲都。俺に恋を教えてくれて、ありがとう) 結局その夜。 狭いベッドの上で、己に起きたあまりにも美しく劇的な変化を持て余したまま。 俺は昂る熱を静めることもできず、一睡もすることができなかった。 *** カチャリ、と。 寝室のドアが開く小さな音で、俺はビクッと肩を揺らした。 「……んっ、おはよう、兵藤くん……」 寝癖をつけ、目をこすりながら現れた咲都。 俺のスウェットの袖からちょこんと出た指先。 肩口はずり落ち、鎖骨が露わになっている。 俺の服に着られているその姿は、警戒心など微塵もない無防備の極致だった。 「おはよう。ちゃんと眠れた?」 努めていつものふにゃりとした笑顔を作りながら、徹夜明けの脳内では限界の警鐘が鳴り響く。 (ダメだ。これ以上咲都と一緒にいたら、絶対に抑えきれない) 「おかげさまでぐっすり! ……あれ? 兵藤くん、なんだか顔色悪いよ? 僕のいびきがうるさくて眠れなかった……?」 壁の向こうで息をしているだけの気配に朝まで狂わされていたなんて、知る由もないくせに。 申し訳なさそうに下から覗き込んでくる潤んだ上目遣いと、心配そうに俺の腕に触れようと伸ばされた手。 その指先が触れるより早く、下腹部に重く暴力的な熱が集中するのがわかった。 本当は今すぐその手を掴み返し、テーブルの上に押し倒してしまいたい。 「間宮くんは超静かだったんだけど、ちょっと、頭痛くてさ。……ごめん、今日俺、学校休むわ」 「えっ!? 大丈夫……? 僕、何かご飯作ってから行こうか?」 「大丈夫。俺のことは気にしないで、間宮くんはちゃんと授業受けてきて」 優しい言葉で突き放すように、咲都の荷物を持って玄関へと誘導する。 これはただの仮病じゃない。 少しでも手を伸ばせば触れられる距離にこれ以上咲都がいると、確実に転校生の兵藤の仮面を引き裂いて泣かせてしまう。 俺自身から咲都を守るための、ギリギリのエスケープだ。 「……後でノート見せるから。ゆっくり休んでね」 パタン、と玄関のドアが閉まり、静寂が落ちる。 足音が完全に遠ざかったその瞬間。 俺はピンと張り詰めていた糸が切れたように、その場にズルズルとへたり込んだ。 「……はぁっ、……くそっ」 ふらつく足で立ち上がり、咲都が数十分前まで寝ていたベッドへ倒れ込む。 顔を埋めると、シーツには俺のグリーンの香りに混ざって、咲都自身の甘い体温と清潔な匂いが、頭がおかしくなるほど濃密に残っていた。 限界だった。 昨夜からずっと、理性のシャッターを何重にも下ろしてギリギリ保っていた仮面が、音を立てて崩れ去っていく。 「……っ、咲都……」 ズボンの上から、熱く硬く反り上がった中心を強く握り込む。 目を閉じると、脳裏に鮮明にフラッシュバックするのは、俺の脚の間に閉じ込められ、頬を赤くして俺を見上げるあの透き通った瞳。 そして、先ほどのずり落ちたスウェットの襟元から覗いた白く艶かしい肌。 他の誰にも見せたくない。 俺の匂いで、俺の服で、俺の体温で、咲都の全部をめちゃくちゃに汚して、泣かせたい。 でも同時に、誰よりも大切に、あの綺麗な瞳を濁らせないように甘やかして閉じ込めておきたい。 真逆の感情がぐちゃぐちゃに混ざり合い、息をするのも苦しい。 「……はぁっ、……っ、あ……」 薄暗い部屋に、ひどく甘くて、情けない喘ぎ声が響く。 生まれて初めて知った初恋という名の劇毒は、こうして熱を持て余し、一人で息を荒らげることしかできないほどに、俺を無様に狂わせていた。 「っ、咲都……、俺の……」 シーツを握りしめる手の甲に、白く骨が浮き出る。 限界を迎えた瞬間。 脳裏に弾けたのは、熱に浮かされて俺の名前を呼ぶ咲都の甘い泣き顔の幻影だった。 身体が大きく跳ね、熱い吐息と共に白濁した熱を散らす。 「……はぁっ、はぁ……」 荒い呼吸を繰り返しながら、乱れたベッドの上で虚空を睨む。 指先から伝わる余韻と、部屋に残る咲都の匂いが、満たされるどころか、さらに凄まじい飢餓感を煽ってくるようだ。 (明日また咲都の顔を見たら、俺……どうなるんだ……) 冷めない熱を体に宿したまま。 俺は、この持ちきれない熱をどうやりすごそうか、自分を狂わせる甘く重い感情に戸惑い、そしてどこか楽しんでいた。

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