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第1話

生ぬるい風が頬を撫でていく。 ふと顔をあげると立派な桜の木が目の前にそびえ立ち風が吹く度にヒラヒラと花弁が舞う。 実に幻想的な光景である。 ざぁっという枝を揺らす風の音の後に目も開けていられない程の突風が吹いた。 「先生…お久しぶりですね」 足音もなくいつの間にか近くに居た人物に、私は思わず目を細めた。 数年前私が中高の保険医を掛け持ちていた頃の高校の方で少し“ワケアリ”だった生徒だ。 「今時電報なんて驚いたよ」 「連絡先が変わられたみたいだったので、急にメールするより確実に届きますし証拠が残りにくいですから」 「君の生活は相変わらずなのかい?」 「ええ。相変わらずご主人様と仲良くしている…と言いたいところですが、数年前に新しい“玩具”が家に来て以来俺は随分と自由にさせてもらってますよ」 目の前に居る元生徒の高橋 己咲(たかはし みさき)は自虐的に笑った。 彼は子供の頃に引き取られた男によって性的虐待を長年受けている。 しかし、彼の口ぶりからするとその状況が好転した様に感じた。 「今は俺の事は良いんですよ。先生もお元気でしたか?」 「まぁ。そこそこ…かな」 高橋はこれ以上は聞くなとでも言う様に話を中断して私の近況を聞いてくる。 最愛の人が突然の事故で植物状態になってから私は養護教諭を辞めた。 それから暫くは何もする気が起きなくてふらふらと宛もなく生きて居た所に目の前の彼から連絡が来て正常な判断ができていたなら怪しんでいた筈なのに、今日何の疑問も持たずに指定の場所に来ていた。 もしも連絡がメールや電話だったなら、私はこの場には来ていなかったかもしれない。 目の前の差出人にも直接言ってしまったが、今時珍しい電報という形での連絡に興味を引かれてしまったのだ。 「それで…君は私に何の話があってこんなところに私を呼び出したんだい?」 「先生も自分の話を聞かれたくありませんか?」 私も言葉を濁して本題に入ろうとしたのだが、相手がクスクスと笑い出す。 しかし、彼はすぐに笑うのをやめてふっと上を向いた。 それにつられるように私も上を見上げると、桜の木が空を覆うように枝をのばしている。 「ご主人様の“新しい玩具”をもらってくれませんか?」 「は?」 お互いに上を向いたまま桜を眺めていると、世間話でもする様に話す彼に私は驚いて思わず彼の横顔をまじまじと見てしまった。 勿体ぶるようにこちらを向いた彼の顔は笑っている。 「俺はご主人様の“新しい玩具”に随分助けられました。そろそろ俺の目的も達成ができそうなので、信頼できる先生に“新しい玩具”を託そうと思いまして」 「私が断るとは思わなかったの?」 「いえ。まったく?」 彼は全く私の事を疑っていない様子で微笑んでいる。 久々に見た彼は学生時代よりも少し表情が明るくなった様に感じた。 現在の彼は私の好みでは無いものの、爽やかなイケメンといった雰囲気の青年へと成長をしている。 私がまだ養護教諭をしていた時に、彼が複数の女子生徒から告白をされていたがそれを全て断っていたと保健室によく出入りしていた進学校では珍しかった派手めの女子生徒達から聞いていた。 そんな彼が言う“新しい玩具”に私は心当たりがあった。 「先生はお優しいので」 「はっ。それは嫌味ですか?」 目の前の彼の言葉に私はついつい噛みついてしまった。 彼がそんな事を1ミリたりとも思っていない事が分かっているからだ。 しかし当の本人は気にした様子もなく、するりと自分の首筋を撫でる。 「とんでもない。俺はちゃんと貴方の“チャンス”になったでしょう?」 「そんな事を言ったこともありましたね」 「あの時はまだ子供であのばあさんの動向を教えることに何のメリットがあるか分かりませんでしたが、貴方はちゃんと“チャンスを逃がさない”を実行した」 私は首筋を気にしている彼を正面からとらえた。 今は昔の影のある雰囲気から何かが吹っ切れた清々しい雰囲気の彼が微笑めば同世代の女の子なんか一発で恋に落ちてしまいそうな完璧な微笑みを浮かべている。 そんな彼を改めて上から下までゆっくりと眺めるが、少し小首を傾げてあざとさを演出している。 彼の祖母は大きな会社を経営しており、しかもその地域一帯の地主なので私は学生の彼にご主人様を眠らせる為の睡眠薬を渡すかわりに祖母の動向を聞いた。 はじめは心身共にボロボロの彼を憐れんでの提案だったが、折角ならばとパーティーに出席した時に声をかけて顔繋ぎをしておいたのだ。 彼は知らないかもしれないが、彼の家と私の家はかなり遠くではあるが親戚関係にあったと後から知った。 「“新しい玩具”は本当に赤の他人なんです。この悪縁から開放してあげたくて」 「君、知ってたんですか!」 「えぇ。色々調べているうちに…」 口元に控え目に当てた手がこれまたあざとい。 子供の頃から男に飼われている筈なのに、彼は不思議な事にちゃんと男の体つきをしているのだ。 少し胸や臀部が大きいかもしれないが、きちんと“メスの身体”ではなく“男の体つき”をしている。 二次性徴期にきちんと身体が発達したのだろう。 そんな彼を祖母は認めておらず、パーティーの時でさえ息子である彼のご主人様の話はするが孫である筈の彼の話は一切出てこなかった。 長男の嫁の事が相当気に入らなかったらしく、しばらく彼を施設に預けていたらしいのだが息子の問題行動に相当頭を悩ませた挙げ句業者を使って赤の他人として彼を迎え入れたと資料にあった。 そんな事情など知らない筈の彼の口から赤の他人という言葉が出てきた事に驚いたが、彼は知っていたらしい。 「では、私と君が遠い親戚だという事も知っていたと?」 「ええ。本当にかなりの遠縁で、うっすらとですが血縁関係があったみたいですね。少し驚きました」 言葉とは裏腹に、血縁関係など心底どうでも良さそうに話す彼の表情は学生の頃に比べると全く読めなくなっていた。 若さ故の分かりやすさというのがあったのに、こんな事にも成長を感じてしまう。 唯一分かる範囲の親族は自分を存在から認めていない祖母か、甥である彼を自分の性の捌け口としてしか扱っていない叔父しか居ないのだから“親族”という括りでは期待が持てなかったからだろう。 「それで?私はこれから何をすれば?」 「特に何も?指定の日に“新しい玩具”を連れて行きますので引き取ってくださればいいだけです。逆に俺はどこに連れていけばいいですか?」 「“彼”が心配じゃないんですか?」 「先程も言いましたが、俺は貴方を信用してます。しかも、今傷心中でしょ?ペットをお世話する事なんて造作もないでしょう?」 「私そんな事言いましたっけ?君、可愛げを何処に置いてきたんですか?」 わざとらしい会話に一瞬場の空気が和らぎ思わずお互いに吹き出してしまった。 私が傷心中だとどこからか調べてきてこの話を断らないだろうと思ったのかもしれない。 確かに彼の言う“新しい玩具”くんは私の好みに近い。 養護教諭時代にメンタルが安定せず、時々保健室に来ていたのでよく覚えている。 少し標準よりぽっちゃりとした身体に塩顔で特徴が無いと言われがちな子だったが、話すと愛嬌があって子犬の様で愛らしい印象だった。 幼少期にトラウマがあり、ある特徴を持った男性を見るとパニック状態に陥る。 そんな彼が逃げ場として使ってくれていたのが保健室だった。 その子にとって幸運な事に教諭にその特徴を持った人物はいなかったのだが、たまに来る業者にその特徴を持った人物が多かった様でその時期によく保健室に来ていたのを思い出す。 「可愛げだけじゃ生きていけませんから、そんなものとっくの昔に川に捨てましたよ。それに、俺は昔から可愛げが無いと言われてきましたけど?」 目の前の彼はにっこりと感情が読み取れない笑顔を顔に貼り付けつつ吐き捨てる様に言った。 不意に彼はポケットから携帯電話を取り出し、画面を見るとまたポケットに戻す。 「俺から呼び出しておいて申し訳ありませんが、そろそろタイムオーバーです。ご主人様が激しく遊び過ぎて“玩具”が今日は使い物にならなくなったそうです」 本当に何でもない様にこちらに頭を下げると足早に去っていく。 私は呆気に取られつつ彼の後ろ姿を見送った。 また突風が吹いて髪の毛が大きく乱れる。 耳の横辺りを押さえながら風の刺激で目が痛くなってぎゅっと目を瞑った。 風がおさまったので目を開けると、ほんの短い時間だった筈なのに彼の姿は完全に消えてしまっていた。 一瞬白昼夢でも見ていたのかと錯覚してしまうが、手には彼から来た電報が握られていたのでいくら精神的に参っていても物的証拠が手の中に残っているのだから夢ではないだろう。 桜の花びらが地面に落ちてそれを巻き上げるように風の渦ができているのが目視できる。 これは嵐になるだろうなと思いながら、私もこの場を後にする事にして駐車場までの道程を少し小走りの様な速度で向かう。 風がどんどん強くなってきていて、急いで自分の車に乗り込んだ頃には髪の毛がボサボサになってしまっているのがバックミラーに写っている。 「はぁ…ペットねぇ」 私は大きなため息をつきながらエンジンをかけて車を発信させる。 ついにフロントにはプツプツと雨粒があたりたじめた。 今の天気と同じ位に重い気持ちになりながら私は帰路についたのだった。

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