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EP1.愛の亡霊、泥濘の春

 世闇に沈んだ部屋の隅で、間接照明の淡い光だけが室内に歪な陰影を落としている。高級ホテルのような、生活感の一切ない無機質な部屋。その真ん中に置かれたベッドの上で、智紘(ちひろ)は女と体を絡ませていた。  視界の端で、女があられもない声を上げて身をよじっている。智紘が指を動かし、影がゆらめくたび、壊れたおもちゃのように高い音が鼓膜を叩く。 (出来の悪い人形みたいだ)  そう思った瞬間、ふいに胃の底からせり上がるような不快感がこみ上げた。人形が何かを求めて口をパクパクと動かしている。智紘はいつもの「王子様」の笑みを貼り付け、至近距離まで顔を寄せてやった。それだけで、人形は思った通りに、安っぽい快楽に溺れて鳴く。  智紘の額から、生ぬるい汗が滴り落ちた。女の体温と混ざり合うそれが、たまらなく吐き気がするほど気持ち悪い。智紘はそれを手の甲で乱暴に拭うと、目の前の人形の柔らかな腹になすりつけた。  ◇  大学の校門を彩る桜は、今まさに盛りを迎えていた。  うららかな春の陽気の中、新生活に胸を躍らせる人々が手を取り合って行き交う。そんな始まりの季節にはおよそ似つかわしくない絶叫が、淡いピンクの天蓋の下に響き渡っていた。 「あたしたち、付き合ってるんだよね……!?」  女が地面を激しく踏み鳴らし、化粧の崩れた顔で泣き喚いている。智紘は困ったような、それでいて慈しむような完璧な笑みを浮かべて答えた。 「そうだよ。君が俺に好きだと言って、俺はそれを受け入れたじゃん」  だが、女の激情は収まらない。震える手で突きつけられたスマホの画面には、智紘が別の女と繁華街の隅で唇を重ねる写真が映し出されていた。 「じゃあ、この女は誰! 浮気でしょ!」 「浮気?」  智紘は不思議そうに首を傾げた。その仕草すら、計算されたように美しい。 「ああ、その子は……確か、マユちゃん。先週から付き合ってる子」  当然の事実を述べるような平淡な声に、女は愕然と目を見開いた。 「意味わかんない……。あたしのこと、愛してるって言ったよね!?」  智紘は、これ以上ないほど優しく微笑んで、とどめを刺した。 「うん、愛してるよ。俺のことを好きでいてくれる子は、みんな等しく大好きだ」  桜の下に、ふたたび悲鳴が上がった。  通りがかる学生たちが「またあいつか」という顔をして通り過ぎていく。智紘が「もう行っていいかな」と踵を返そうとしたその時、背後から涼やかで低い声が届いた。 「おい、智紘」  振り返る前から、体温が上がるのがわかった。女に向けていた貼り付けたような笑顔が、ふっと体温を宿した柔らかいものに変わる。 「羽瑠矢(はるや)」  そこには、ゆるいウェーブのかかった黒髪を靡かせ、少し眠たげな、それでいて鋭い眼差しを向けた男が立っていた。園 羽瑠矢。智紘と並んでも見劣りしない長身を、少し気だるげに揺らしている。 「またやってんの。いい加減にしろよ、お前」 「心外だな。俺は何もしていないよ」  羽瑠矢は盛大にため息をつくと、泣きじゃくる女の前に歩み寄った。 「お姉さん、泣かないで。こんなクズ男のために涙流すなんて、勿体無いよ」  女が顔を上げ、突如現れた色気のある美形に毒気を抜かれる。羽瑠矢は手慣れた動作で女の肩を抱き寄せた。 「あったかいもの飲んで落ち着こう。あっちに座れるところあるから」  去っていく二人の背中を、智紘は満足げに眺めていた。  中学の頃から続く、自分たちの「お約束」。自分にまとわりつく湿った感情を、羽瑠矢が鮮やかに剥ぎ取ってくれる。その清涼感だけが、智紘にとっての救いだった。  十五分後。女を宥めて戻ってきた羽瑠矢に、智紘が声をかける。 「どうだった?」 「ああ、あの子なら帰した」 「そうじゃなくて」  羽瑠矢は露骨に顔を顰めた。 「……連絡先は聞かれたけど。ああいう『割り切れない』タイプは、好みじゃない」  羽瑠矢は智紘の顔をじっと見つめ、心の底から理解できないというように吐き捨てた。 「おまえ、なんでああいう女ばっかり捕まえんの。今、何人いんだよ」 「数えてないから知らない。だって、みんな勝手に俺を好きになって、勝手に絶望して離れていくんだよ。俺は、ただそこにいるだけなのに」  羽瑠矢の瞳が、僅かに細められる。  中学の教室の隅で笑い合ったあの日から、この男は何も変わっていない。溢れるほどの愛を浴びながら、その実、一滴の愛も蓄積できない砂漠のような空虚。  羽瑠矢は歩き出しながら、低く笑った。 「おまえさ。いつか本当にたった一人の誰かを好きになって、なりふり構わずみっともなく縋る姿を俺に見せるんだよ。……ああ、楽しみだな」 「いつもそれ言ってるね。でも俺は、歴代の彼女たち全員を本気で愛してたよ。わかる?」 「わかんねー」  春の柔らかな風が、二人の頬を撫でて吹き抜ける。  二人の男は、いつものように肩を寄せ合い、出口のない迷路のような雑踏の中へ踏み出した。

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