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EP2.深海への回帰
喧騒の渦巻く夜の繁華街。
智紘は、瀟洒な創作料理屋の前に置かれたベンチに腰掛け、長い指先で挟んだ煙草を燻らせていた。
行き交う人々は皆、何かに浮き立っている。色とりどりのネオン、店から漂う脂っこい香料、それらがセッターの紫煙と混ざり合い、肺の奥を汚していく。
(気持ち悪い)
喉元まで迫る不快感に目を伏せたその時、雑踏の中に「それ」を見つけた。
頭ひとつ抜けた長身、群衆に埋もれることのない独特の気配。
「羽瑠矢」
弾かれたようにその名を呼ぶ。羽瑠矢はすぐに足を止め、吸い寄せられるようにこちらへ歩み寄ってきた。
羽瑠矢は智紘を一瞥した後、背後の店の看板に目をやった。
「なに。女の子放り出して、一人で楽しんでんの?」
揶揄うような笑み。その声を聞いた途端、智紘は肺の汚れが浄化され、劇的に息がしやすくなるのを自覚した。今すぐこの場を放り出し、羽瑠矢を連れて夜の闇に消えてしまおうか――。そんな衝動が指先まで走った瞬間、羽瑠矢の背後から「異物」が顔を出した。
「羽瑠矢、お友達? カッコいい」
洗練されたオフィスカジュアルを隙なく着こなした、年上の女。羽瑠矢が好む、自立した「大人の女」の匂いがした。
「あ、こいつはやめた方がいいよ。顔だけの手に負えないクズ」
「なによ、羽瑠矢だって人のこと言えないじゃない」
「俺は女の子を泣かせたりしないよ。わかってるだろ?」
羽瑠矢が女の腰に手を回し、二人がクスクスと共犯者のように笑い合う。その光景が、智紘の視神経を不快に逆撫でした。
「智紘くん、お会計終わったよ。……あ、羽瑠矢くんだ」
店から出てきた智紘の彼女が、羽瑠矢を見て頬を染める。智紘の腕にしがみつきながら、その視線は潤んで羽瑠矢を追っている。
羽瑠矢はそれらすべてを「いつものこと」として受け流し、ひらりと手を振った。
「じゃ、俺たち行くわ。……お互い、楽しもう」
去り際、一瞬だけ目が合った。
二人だけにしかわからない、微かな、そしてあまりに冷ややかな口角の動き。
女を連れて夜の街に消えていく羽瑠矢の背中を見送りながら、智紘は脳裏に、ひらひらと舞い落ちる淡いピンクの記憶を重ねていた。
すべてを見透かす、あの深い海ようなの瞳。
智紘の人生に「色」がついたのは、あの春の日だった。
◇
満開の桜が舗装路に作る絨毯を、智紘は足で蹴散らしながら歩いていた。
校内には、威圧的なほど高価なスーツに身を包んだ保護者たちが、緊張で強張った顔の息子を写真に収めている。そこにあるのは、純粋な祝福ではなく、勝者の選民意識だった。
歴史の重みを感じさせる煉瓦造りの校舎を抜け、教室へ入る。
真新しい制服。浮き足立った少年たちの声。
智紘が入室した瞬間、凪いでいた空気が一変した。同年代より頭ひとつ抜けた背丈と、既に完成された端正な造形。幼い子供たちの視線が、憧憬と嫉妬を混ぜて彼に集中する。
「でけぇ!」「名前なんていうの?」「塾、どこ行ってた?」
厳しい受験戦争を勝ち抜いた万能感に酔う少年たちが、智紘を囲む。智紘はいつものように、鏡の前で覚えた「王子様」の笑顔を完璧に貼り付け、空疎な質問をそつなく捌いていった。
――その時だった。
「そこ、うるせー」
鋭いナイフのような声が、騒がしい教室を切り裂いた。
声変わり前の、鈴の鳴るような、けれど冷徹な響き。
教室の隅。逆光の中で、大きすぎる制服を乱暴に着崩した少年が座っていた。ゆるくウェーブした長い髪が、憂いを含んだ目元に影を落としている。
一団は少年の放つ圧倒的な「異質感」に気圧され、蜘蛛の子を散らすように去っていった。
智紘は、逃げなかった。
少年と目が合う。光をなみなみと湛えながら、底が見えないほど深い色彩の瞳。
「……何見てんだよ」
剥き出しの敵意。それは、今まで智紘の周りにいた「行儀の良いお坊ちゃん」たちからは決して向けられることのない、生々しい人間の拒絶だった。
智紘は、吸い寄せられるように彼へ歩み寄った。
「俺、玖我 。玖我 智紘」
配られたばかりの学生証を差し出す。少年はそれを、チラリと横目で一瞥した。
「……ともひろ?」
「だから、ちひろ」
少年の、人形のように整った唇が、ふっと弧を描いた。
「女の子みてー」
揶揄うような、けれどどこか優しい響き。
智紘を立て、持ち上げ、顔色を窺う者しかいなかった世界で、初めて自分を対等に「弄ぶ」人間が現れた。智紘は、この少年をもっと深く知りたいと、本能が叫ぶのを聞いた。
「母親がつけたんだよ」
そう返すと、少年の瞳が驚いたように輝いた。彼は懐からいそいそと自分の学生証を取り出すと、智紘の鼻先に突きつけた。
「俺の名前も、母さんがつけたんだ。……羽瑠矢」
園 羽瑠矢。
「はるや……」
その名を口にした瞬間、まるでずっと前から呼んでいたかのような錯覚に陥った。
「……キラキラネーム。人のこと言えないじゃん」
智紘がわざと生意気に笑うと、羽瑠矢は顔をクシャクシャにして破顔した。
笑うと棘が消え、等身大の子供の顔になる。
智紘もつられて、腹の底から笑い声を上げた。
教室の隅で、肩を震わせてクスクスと笑い合う。
それは、生まれて初めて触れた、他者との「共有」だった。
はじめから、隣にいるのが当たり前だったかのように。
彼ら二人の歪な物語は、その日、静かに産声を上げた。
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