27 / 27

小話9 深林の庭

 梅雨は嫌いだ。湿度の高い空気が重く体に纏わりつき、お気に入りの服が肌に張り付く感触を想像するだけで反吐が出る。  世間は華の金曜日。路央は、その日初めて顔を合わせた男と向かい合い、中身のない会話に勤しんでいた。  目の前では、小綺麗な格好をした年上の男が、やにさがった顔で路央を値踏みしている。男の瞳は路央の瑞々しい身体をなぞるのに夢中で、路央が丁寧に投げた会話のパスは、まともに返ってきやしない。  食事を終え、店を出るなり男が腰に腕を回してきた。最近の、成果の上がらない日々を思って自暴自棄になりかけた路央が、このままコイツに連れられてホテルでも何でも行ってしまおうかと考えた瞬間、スマホが特別な通知音を鳴らした。  誰からの連絡か、音だけで判る。路央は瞬時に画面を確認すると、瞳に光を宿して「急用ができた」と適当に断り、夜の繁華街を駆け出した。  電車に揺られること約十五分。辿り着いたのは、一等地に聳え立つ高級マンション。部屋番号を押せばオートロックは即座に解かれ、エレベーターが最上階へと彼を誘う。  重厚な扉が開き、路央を迎え入れたのは羽瑠矢だった。仕事帰りらしく、洒落たシャツとスラックスをさらりと纏っている。 「わ、本当に寿司だ。うまそー」 「会食のお土産にたくさんもらっちゃってさ。路央が来てくれて助かった」  羽瑠矢が目尻を下げて笑い、路央を優しく椅子に座らせる。路央は束の間のお姫様扱いを堪能した。即座に差し出された酒の缶を煽ると、羽瑠矢が驚いたように目を丸くする。 「すごい勢いで飲むじゃん。さては何かあっただろ」  さすが、世紀のモテ男に隠し事は通じない。路央は堰を切ったように、ここ数週間で出会った男たちの愚痴を展開した。写真詐欺、自慢話のオンパレード、筋肉信仰の押し売り……。 「今日会った人なんて、顔はまあまあ好みだったんだけど、勧めてくる酒がどれも度数の高いやつでさ。意図があからさまに透けて見えて、こっちはガン萎えだよ」  だから連絡をくれて助かった、と路央がこぼすと、羽瑠矢は可笑しそうに「路央の純潔を守れて良かった」と笑った。  特上の寿司に舌鼓を打っていると、玄関が開く音がした。路央は内心でげんなりする。この広い城の主は二人しかいない。一人は目の前の聖母、もう一人は路央の宿敵――傲岸不遜なあの男だ。  リビングの扉が開き、城の主が帰還した。彼――智紘は路央の姿を視界に入れるも、一瞥だにせずスルーする。  元恋人という関係性はあれど、年々扱いが酷くなっていく。路央は意識して綺麗な笑みを浮かべ、「お邪魔してます。昼間ぶりだね」と声をかけた。  羽瑠矢が帆立のにぎりを頬張りながら首を傾げる。 「あれ、二人今日会ったんだ」 「うん。廊下ですれ違ったから、声かけたんだけど、無視された」  路央と智紘は同じ大学の修士課程一年。研究室は違えど顔を合わせる機会はある。最初は作り笑いで応じていた智紘も、二ヶ月経った今では挨拶さえ返さない。  路央が恨み言を並べる横で、智紘は優雅に寿司を口に運んでいる。一切話を聞いていないのだろう。缶ビールを煽るその姿さえ無駄に美しく、いらついた路央はテーブルの下で智紘の脛を思い切り蹴り飛ばした。  食後、グラスを片手に羽瑠矢との会話を楽しんでいると、智紘が冷や水を浴びせるように口を開いた。 「路央、そろそろ終電の時間だよ」  羽瑠矢が「明日土曜なんだからいいじゃん」と食い下がるのを制し、智紘は無慈悲に路央を玄関の外へ追いやった。  最後に、智紘が非の打ち所のない華麗な笑顔で「気を付けて」と言い放ち、重い扉が閉まる音が廊下に響き渡った。  酔いの回った身体を持て余しながら電車に揺られ、自宅の最寄り駅に着く頃には日付を跨いでいた。ふらふらと改札を出て歩き出した途端、強い力で腕を掴まれる。  ぎょっとして振り返ると、そこには見知った大柄な影が立っていた。 「なんだ、郁杜(いくと)か」  実家を追われた路央の面倒を見てくれている葉山(はやま)家の、長男。見上げるほどの長身を丸め、郁杜が呆れたような声を出す。 「路央くん、ひどい顔をしてるよ」 「えー。ひどい顔ってどんな顔だよ」 「クソ酔っぱらいの顔」  容赦ない言葉に路央がきゃらきゃらと笑うと、郁杜は深い溜息をついて路央の腕を引き寄せた。  深夜の静まり返った住宅街。酔いのせいかよく回る路央の口は、聞かれてもいないことを喋り続けた。やがて自宅へ着くなり、慣れない香りのするベッドに放り投げられる。 「あれ、ここどこ……」 「俺の部屋。さすがに二階まで持ち上げるのはだるいから」  酒で思考能力の落ちた頭で納得し、路央はベッドでもぞもぞと服を脱ぎ出した。 「おーい、郁杜、脱がせろ」  本日何度目かの溜息と共に、郁杜が甲斐甲斐しく路央を剥いていく。下着一枚の姿になると、路央は全身の力を抜いて手足を伸ばした。  火照った細い肢体、角張った肩、潤んだ瞳。郁杜が瞬きもせずに見つめていることに気づき、路央はうっそりと笑った。 「こわ。見すぎでしょ」  途端、郁杜の身体が動いた。一回り以上大きな体躯に覆い被され、自由を奪われたまま、耳に思い切り齧りつかれる。 「いって!」  路央が声を上げると、重みはすっと離れていった。感情の読み取れない瞳が、じっと路央を見下ろしている。  郁杜は小さく鼻を鳴らすと、無言のまま部屋を出ていった。後に残されたのは、状況の掴めない酔っぱらい一人。 「なに、あいつ」  路央は早々に思考を放棄した。さらりとした毛布にくるまり、深い森のような香りに全身を包まれる。そうして、溜まった鬱憤もストレスも一切を忘れて、泥のような眠りに落ちていった。 ──── 本日から、路央を主役にしたお話も別タイトルで投稿していきます。 合計1万字程度のボリュームです。 『深緑の庭、狼は愛を喰らう』よろしくお願いします

ともだちにシェアしよう!