26 / 27

小話8 箱庭の供物

 汗ばむような陽気の日が増え、人々が肩の荷を下ろすように上着を脱ぎ捨てる五月。  新社会人となった羽瑠矢は、多忙な日々を駆け抜けていた。平日は仕事に慣れるべく東奔西走し、休日は仕事の付き合いや旧友たちとの会合で繁華街へと繰り出す。  そんな羽瑠矢が家に帰り、電池が切れたように動かなくなると、智紘の出番だ。世間からは「何で稼いでいるのかわからない謎の金持ち」と評される彼も、この家の中では、消耗した恋人を慈しみ、世話を焼く静かな日常を送っていた。  ある朝、シャワーから上がった智紘が、洗面台で髪を整える羽瑠矢に声をかけた。 「羽瑠矢、シャンプーもう切れるよ」 「まじ?」  羽瑠矢が少し考えるように視線を巡らせた。二人が愛用しているのは、羽瑠矢が行きつけのサロンで定期的に仕入れているこだわりの品だ。  羽瑠矢は鏡越しに智紘を見つめた後、思い切ったように提案した。 「俺、しばらく買いに行く時間なくて。悪いんだけど、代わりに行ってきてくれない?」  こうして、玖我智紘(22)の「はじめてのおつかい」が決行されることとなった。  ◇  智紘が裏通りにある高級サロンに顔を出すと、案の定、スタッフ一同が平伏せんばかりの勢いで彼を迎えた。羽瑠矢と親しい、屈強ながらも立ち居振る舞いの可憐な男性スタイリストに手を取られ、促されるまま椅子に座らされる。抵抗する間もなく、予定外に頭をいじくられること数十分。完璧にスタイリングを施された自分の頭を鏡越しに眺め、智紘は無表情に頭を振った。 「智紘くんには本当に感謝してるのよ。きみのおかげで常連さんが倍増したんだから」  結局、目的のシャンプー以外にも、「試供品だから」と手渡されたパウチや、「サンプルだから」と押し付けられた重いボトルが紙袋を埋めた。どさくさに紛れて写真も数十枚撮られ、サロンを出る頃、智紘は既に言いようのない疲労感に包まれていた。  自宅の最寄り駅で降り、昔ながらの活気ある商店街を歩いていると、八百屋の前で突然行く手を阻まれた。 「あなた、羽瑠矢くんのお友達の子でしょ!」「芸能人みたいねぇ」  ご近所の主婦の一団であった。返事をする間もなく、レディたちの話題は勝手に盛り上がっていく。どうやら羽瑠矢はこの八百屋の常連で、来るたびに彼女たちの井戸端会議に首を突っ込み、孫の相談から今夜の献立まで聞き役に回っているらしい。 「羽瑠矢くん、最近忙しそうで見ないけど、よろしく伝えておいてね」  彼女たちはそう言い残すと、各々の買い物袋から立派な野菜や(かぐわ)しいフルーツを取り出し、智紘の手に押し付けて嵐のように去っていった。  困惑しながら自宅へ急いでいると、今度は魚屋の店先から威圧的な声が飛んできた。 「おい、おまえ。こっち来い」  椅子に座った頑固そうな大将が、智紘を睨みつける。 「良い真鯛が入ったんだ。持ってけ」 「いや、捌いたことないです」  智紘が短く返すと、大将は鼻を鳴らして奥へ引っ込み、数分後には三枚に下ろされた桜色の切り身を持って戻ってきた。 「あの二枚目の兄ちゃん、最近見ねえが元気でやってんのか。……うちのが一番旨いって、教えとけよ」  なるほど、ここも羽瑠矢の領土(テリトリー)だった。  その後も、川沿いの遊歩道を歩けば、雑貨屋の主人が「羽瑠矢の気に入っている細工の皿が入った」と呼び止め、馴染みのワインバルが「いい赤が入ったんだ」と智紘の肩に腕を回してくる。  智紘は、重くなる一方の荷物を抱えながら、不思議な感覚に陥っていた。  自分は彼をこの街の、あの部屋という名の檻に閉じ込めたつもりでいた。けれど、羽瑠矢はたとえ地の果てへ行こうとも、そこに「二人の居場所」を作ってしまう。羽瑠矢が外の世界の眩しさを運び込み、智紘の孤独を塗り替えていく。その事実が、智紘の胸を静かに熱くした。  ◇  仕事を終えた羽瑠矢が帰宅すると、ルーフバルコニーには驚きの光景が広がっていた。  テーブルの上には、艶やかな鯛のカルパッチョ、魚の出汁が香るアクアパッツァ、色鮮やかな野菜のアヒージョ。 「え、なに?……なに?」  混乱する羽瑠矢に対して、智紘は「作った」とだけ短く言い、二人分のグラスに芳醇な赤ワインを注いだ。  羽瑠矢の顎が落ちる。生粋のお坊ちゃまで、中学の調理実習ですら包丁を握らなかったはずの智紘が、手ずから料理を作ったという。  二人でテーブルを囲みながら、智紘は今日あった出来事をつらつらと語った。両手が塞がって玄関の鍵を開けるのにも苦労したという話をする彼の表情は、げんなりしつつも、どこか満足げでさえあった。  羽瑠矢は、嬉しさのあまり踊り出したくなるのを堪えた。この箱庭に閉じこもることを好む男は、羽瑠矢が見ている景色を共有するために、自分の足で一歩を踏み出す努力を厭わないのだ。  智紘は、雑貨屋で手に入れたという新しい皿にフルーツを盛り、不遜な態度でワイングラスを傾けた。 「仕事、きつかったらいつでも辞めていいからね」 「うざ。絶対辞めねー」  羽瑠矢は笑い声を上げながら、強がって返した。  初夏の夜風に吹かれながら、二人は心地よい酔いに身を任せた。その後、仲良く一緒に風呂に入り、広いベッドで子供のように、あるいは愛し合う獣のように身を寄せ合って、深い、幸せな眠りへと落ちていった。

ともだちにシェアしよう!