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小話7 銀白の城の主
名残雪が舞う空の下、凛とした空気の中で梅の花がほころび、季節の移ろいを告げている。人々も自然も、厚いコートを脱ぎ捨てる春に向けて、静かに、けれど確実に鼓動を速め始める頃。
羽瑠矢は、大学生活最後となる数ヶ月を、文字通り駆け抜けるように謳歌していた。三年生の終わりに着手した就職活動は順調を極め、某大手アパレル企業の営業職の内定を勝ち取った。卒論という義務も無事に果たし、卒業式を待つばかりの自由な時間。
「羽瑠矢ー! 飲んでるか!?」
貸し切りのフロア、重低音が内臓を揺さぶる喧騒の中で、友人がコロナの瓶を突きつけてくる。羽瑠矢もまた、慣れた手つきでグラスを掲げ、笑い声を返した。
フロアの真ん中では男女が音楽に合わせて身をくねらせ、バーカウンターでは数人がテキーラショットで潰れている。
視覚、聴覚、嗅覚。その全てを麻痺させるような過剰な刺激に満ちた空間。羽瑠矢は、自分でも呆れるほどに「賑やかさ」を求めていた。幼少期、古く狭い部屋で母の帰りを待ち続けたあの耳の痛くなるような静寂を、一秒たりとも思い出したくない。その根源的な飢えを、アルコールと爆音で塗りつぶし続ける。
数人の女たちが羽瑠矢を見つけて色めき立ち、手を振っている。羽瑠矢はグラスの中身を一気に煽ると、淀みない足取りで、光と音の渦中へと再び身を投じた。
◇
日付を超えて久しい深夜。酒で脈打つ頭を抱えながら帰宅すると、リビングでは智紘がPCを開き、真面目な顔で作業に没頭していた。羽瑠矢の気配に、彼はチラリと視線を向ける。
「おかえり」
「え、起きてたん」
「いろいろ片付けてたら、この時間になったから。そのまま起きてた」
智紘は甲斐甲斐しく羽瑠矢の重い上着を脱がせ、冷えた水の入ったグラスを差し出す。喉を鳴らして水を流し込んでいると、智紘が温度の読み取れない無垢な瞳で告げた。
「午後、出かけるから。ちゃんと起きてね」
羽瑠矢は意外な言葉に目を丸くした。智紘から外出を提案してくるのは、出会ってから数えるほどしかない。
デートである。一気に気分が跳ね上がった羽瑠矢は、疲れた肌を入念に磨き、日が昇る前にベッドに潜り込んだ。
正午過ぎに目を覚まし、遅めのランチを済ませた二人は、智紘の運転する車で街へと繰り出した。到着したのは、目黒川の気配がほど近い、閑静ながらも洗練された一等地。そこに、周囲を圧倒するような輝きを放つ、新築のレジデンスが聳え立っていた。
エントランス付近はまだ外構工事の真っ最中で、真新しいコンクリートの匂いが漂っている。智紘は迷いのない足取りで養生の張り巡らされた共用部を抜け、エレベーターに乗り込んだ。懐から取り出したカードキーをセンサーに翳すと、最上階、ペントハウスのランプが点灯する。
静かに箱が上昇し、扉が開いた先、重厚な玄関ドアを智紘が開け放つ。
「入って」
招かれるまま足を踏み入れると、そこには羽瑠矢の想像を絶する空間が広がっていた。
一面の窓から午後の柔らかな光が降り注ぐ、広大なリビングルーム。天井まである掃き出し窓を開ければ、そこは都心のビル群を一望できる開放的なルーフバルコニーだ。
羽瑠矢は他人の家を見学するような気楽な気持ちで、室内をちょろちょろと徘徊した。タイル張りのラグジュアリーなバスルーム、主人の帰りを待つ広すぎる寝室、そして用途すら思いつかない幾つもの個室。
わー、とか、おー、とか声を上げる羽瑠矢を横目に、智紘は電話で誰かと話していた。その通話が終わったタイミングで、最も気になっていたことを問う。
「で、この部屋は何?」
智紘は顔に表情を乗せぬまま、さらりと言った。
「うん。ここに引っ越そうと思って」
予想はしていたものの、羽瑠矢は少し驚いた。今の自宅は羽瑠矢の母から譲り受けた場所だが、智紘もそこを気に入っているとばかり思っていたからだ。
「買ったの?」
羽瑠矢が抱えきれないほどの疑問の中からまず一つを投げかけると、智紘は変わらぬ調子で返した。
「そうだね、買ったっていうか……建てた」
羽瑠矢の顎が落ちた。対する智紘は、夕飯の献立でも説明するかのような気軽さで言葉を継ぐ。
「もともと不動産は持っておきたいと思ってたんだけど、ちょうど銀行の担当者が話を持ってきてくれてさ。せっかくだから最上階をペントハウスにしてもらった」
融資を引くのにえらく苦労しただとか、新築の割に利回りが高くて減価償却もおいしいだとか、彼は満足げに専門的な話を続けている。
要するに、智紘はこの十数階建ての立派な新築マンションのオーナーになったということらしい。全ては、自分たちの新しい拠点を作るために。
羽瑠矢は複雑な思いに駆られた。今の自宅――母から譲り受けたあの場所には、二人の濃密な記憶が全て染み付いている。とりとめもなく語り合ったリビング、並んで煙草を燻らせたバルコニー、言葉もなく抱き合った青い闇の寝室――。
羽瑠矢の表情から揺らぎを敏感に察した智紘は、「少し歩こう」と言って彼を西日の差す街へと連れ出した。
マンションから数分歩き、川沿いの遊歩道に出ると、そこには活気あふれる街の風景が広がっていた。オープンテラスのカフェ、異国の香りがする雑貨店、賑やかなワインバル。
智紘は目に入る店を一つずつ指差しながら、「ここはランチが美味しいらしい」とか「あそこは羽瑠矢が好きそうな酒を出す」などと説明して回った。
彼が語る「新しい生活」の断片を聞いているうちに、あっという間にこの街で暮らす自分のイメージが湧いてくるのだから、我ながら単純なものだと思う。
川に架かる小さな橋の上で、智紘が足を止めた。楽しそうに行く人々を眺めながら、彼は静かに言う。
「新しい家さ、リビングとキッチンが大きかっただろ。あそこにたくさん人を呼ぼう。羽瑠矢が変な気を起こす隙なんて全くないくらい、賑やかにさ」
その言葉を聞いた瞬間、羽瑠矢は目頭が熱くなるのを堪えきれなかった。
智紘は解っていたのだ。羽瑠矢がなぜあんなにも喧騒を渡り歩くのか。そして、羽瑠矢が抱えるどうしようもない闇も孤独も、その全てをまとめて責任を取ると言っているのだ。
次第に、おかしな笑いが込み上げてきた。恋人のためにマンションを一棟建てるなんて、この世でビルゲイツか玖我智紘くらいではないだろうか。
羽瑠矢は智紘の肩に腕を回し、その逞しい身体に全体重を預けて言った。
「家具見に行こう。あの馬鹿みたいに広い部屋に合うやつ。いつが空いてる?」
智紘はそれを聞いて、真面目な顔でスケジュールを確認する。
「来週の火曜か金曜なら」
羽瑠矢は耐えきれず吹き出した。断られることなど微塵も考えていない、不遜なまでのその態度。
来たるべき春の暖かさを予感させる風が吹き抜け、賑やかな街の喧騒の中に、二人の晴れやかな笑い声が溶けていった。
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