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プロローグ
僕は母の食堂〈はなれ亭〉でカウンターを拭きながら、客たちを眺めるのが好きだった。
昼のざわめきが落ち着く午後3時。味噌汁の湯気が立ちのぼるたびに、店の空気がやわらかくなる。22歳の大学生にとって、ここは勉強の合間に呼吸を整える場所みたいなものだった。
「いらっしゃいませ」と声をかけると、ふっとお客さんの表情がほどける。その瞬間が、たまらなく嬉しい。
最近、気になる人がいる。社員証の文字で名前を知った――彼は花沢友則さん。〈はなれ亭〉の近くの会社に勤めている。
最初は背の高いイケメンと一緒に来ていたけれど、ある日を境に一人で来るようになった。
髪はきれいに整っているのに、スーツの襟に少しだけ皺が寄っていて、どこか疲れて見える。注文を待つ間、湯気の向こうで静かにまぶたを伏せるその横顔が、どうしても気になった。
放っておけない――というより、見ていると胸の奥がざわつく。花沢さんが箸を置いて「ごちそうさま」と小さく笑うだけで、なぜだか1日が明るくなる気がした。
今日も、いつもの時間にドアの鈴が鳴る。厨房から顔を上げると、やっぱり彼だった。僕はすぐに声をかける。
「いらっしゃいませ! いつもの味噌汁定食でいいですか? なんか、元気なさそうですね」
花沢さんは少し驚いたように目を瞬かせてから曖昧に微笑み、それから小さく頷いた。
(やっぱり、何かあったんだ。数週間前までは、あのイケメンと笑い合っていたのに――)
「お待たせしました。お熱いうちにどうぞ!」
彼が座るカウンターに味噌汁定食を運びながら、僕はそっと隣の席に腰を下ろした。閉店間際で他の客はいない。母さんも奥で帳簿をつけている。
花沢さんは箸を手に取って、ぽつりとつぶやいた。
「いつもありがとう。ここの味、すごく落ち着くんだ……」
その声が、ほんの少しだけ震えて聞こえた。だからこそ、僕は小さく笑って答える。
「それは良かったです。僕、遠藤拓海って言います」
「あ、俺は花沢友則。……拓海くんは見た感じ、大学生くらいかな?」
「はい。大学4年です」
「そっか。だったら、就活で忙しいだろ?」
彼が僕に興味を示してくれたのが嬉しくて、思わず図々しく訊ねてしまった。
「僕の就活の話よりも、花沢さんのことが気になります。最近、一人で来てるけど……何かあったんですか?」
その瞬間、箸先でつまんでいたサバの味噌煮が、ぽとりと皿の上に落ちた。視線を落としたままの彼の瞳が、悲しげにゆらゆら揺れているのを見たら、胸がきゅっと締めつけられる。
「あのですね、僕のこと拓海くんって呼んでくれたから、花沢さんのことは――友則さんって呼んでいいでしょうか?」
「……拓海くん」
「友則さんよりも年下で頼りないですけど、もしよければ話を聞かせてください。どんな話でも、絶対に引いたりしませんから」
努めて明るく笑う僕に、友則さんは少しずつ自分のことを話してくれた。
あのイケメンが元恋人だったこと。二股をかけられた挙句に、結婚を選ばれて最近捨てられたこと。
僕はただ黙って聞いていた。けれど、心の奥ではすでに決めていた。
――この人の傷は僕が癒してみせる。絶対に!
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