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第一章 出会いと傷の影
友則さんから語られる話は意外なほど淡々としていたが、言葉の端々に滲む痛みを僕はどうしても聞き逃せなかった。
話によると元恋人のイケメンは、会社の本店にいる指導係だった先輩で、2年間付き合っていたそう。最初は男同士の関係を隠しながらも、幸せだったらしい。
けれどある日、「彼女と結婚する」と突然告げられ、二股だったことを知ったのだという。
「バカだよな、俺。あの人を信じてたのに……」
そう呟いた友則さんの笑みは、痛々しいほど壊れかけていた。僕は味噌汁のおかわりを注ぎながら、そっと相槌を打つ。
「そんなヤツ、クズだよ、クズ! 友則さんみたいな優しい人が、なんでそんな目に遭うんでしょうね。でも、ここに来てくれてよかった。僕、話を聞くのが好きですから、遠慮せずにいつでも来てください!」
友則さんは一瞬きょとんとして、それからふっと瞳を細めた。
「……ありがとう、拓海くん」
先ほどまでとは違う明るい声に、ちゃんと僕の名前が乗っていた。それだけで胸の奥がじわりと熱くなる。
22歳の僕にとって、会社員で年上の彼は遠い大人の世界の人。それでも彼が見せた寂しげな笑顔がどうしても気になって、頭から離れなかった。
数日後、友則さんはまた店に来た。仕事帰りのスーツ姿でネクタイを緩め、少し疲れた顔でカウンターの端に座る。僕はすぐにいつもの定食を下準備して、さりげなく隣に腰を下ろした。
母さんが奥から「拓海、手が空いてるなら皿洗いして!」と声をかけてくるけど、聞こえないふりをして友則さんに話しかける。
「今日のおすすめは、母さんの特製豚汁だよ。友則さん、豚汁好き?」
「うん、それをお願いしようかな。最近、寒くなってきたし」
外では秋風が窓を揺らし、店内の湯気がやわらかく漂っている。友則さんが注文した豚汁定食を配膳してから、他愛のない会話を交わした。
広告代理店での忙しい日々、僕の大学生活、そして「食堂を継ぐか迷っている」という話――。
「拓海くんが下町の味を守るの、すごくいいと思う。俺、こういう場所が好きだよ」
その微笑みが嬉しくて、思わず見惚れてしまう。けれど話の最中、時折ふっと遠くを見るような目をするのが気になった。きっと、まだ元恋人の影が残っているんだろう。
だから僕は、わざと明るい口調で話題を変える。
「友則さん、週末に近くの公園で紅葉を見に行きませんか? 僕暇してて、一人じゃ寂しいんですよ」
「確かに……一人じゃ、ね」
「だから、僕と一緒に行きましょう!」
強引に誘うと、友則さんは少し照れたように笑って頷いた。
それからというもの、彼は週に何度も〈はなれ亭〉に来るようになった。カウンターで友則さんと話す時間が、僕の日常のいちばんの楽しみになっていく。
母さんが「拓海、あのお客様にだけ、やけに愛想いいじゃない」なんて茶化すけど、「常連さんだから」とごまかした。でも本当は、その通りなんだ。
そんなある日の夕方、雨でお客も全然来ないので、店を閉めようとしていたときだった。引き戸が静かに開くと、ずぶ濡れの友則さんが呆然と立ち尽くしていた。
「ちょっ、友則さん!」
「すみません、雨宿りさせて……」
僕は慌てて彼にタオルを渡し、厨房に戻って急須に湯を注ぐ。
「いいですよ。体が冷えてるでしょ? まずは温かいお茶、飲んでください」
静まり返った店内に、雨音だけが一定のリズムで響く。その静けさに包まれながら、彼はぽつりと口を開いた。
「今日、元恋人と職場で会ったんだ。……結婚式の招待状を配っていたらしくて、笑いながら手渡された。元カレ相手によくやるよね……」
髪から滴った水滴が友則さんの頬を伝い、涙みたいに落ちていく。それを見ているだけで、胸が痛くなった。
「そんなヤツ、気にしなくてもいいですって。友則さんは、もっと幸せになれるんだから!」
気づけば、僕の手が彼の肩に触れていた。友則さんは一瞬びくりと体を強ばらせたが、逃げなかった。手のひら越しに、彼の体温が伝わってくる。
「拓海くん、優しいね。今はその優しさに甘えたくなってしまう……」
泣き出しそうな面持ちで告げた友則さんの言葉で、何かが決壊した。僕はそっと顔を寄せ、彼の唇に軽く触れる。それはほんの一瞬の、やわらかい衝動だった。
「ご、ごめんなさいっ! 今の忘れて!」
慌てて離れる僕を見て、友則さんは小さく首を振った。
「……大丈夫。ただ、びっくりしただけ」
そのときの笑顔が少しだけ温かくて、少しだけ切なかった。
「友則さん……」
「少しの間でいいから、手を繋いでくれないかな。お願い――」
僕は華奢なその手を握った。温度の違う指先が触れ合い、やがて静けさだけが店内を満たしていく。
雨が止むまでの間、僕たちは黙って手を繋いでいた。けれど沈黙は重くなくて、むしろ彼の心に触れているような気がした。
不意に、友則さんが小さく息を吐く。
「……ごめんね。変なところ見せちゃった」
「変なんかじゃないですよ。むしろ……頼ってくれて嬉しいです」
言葉にした瞬間、自分でも驚くほど胸が熱くなる。彼は俯いたまま、そっと指を絡め返してきた。
「拓海くんがいると、救われる気がするんだ」
その一言で、僕の心が揺らめきそうになった。あの震えも、零れかけた涙も、全部抱きしめたくてたまらない。でも言葉にすれば、きっと壊れてしまう。
だから僕は、繋いだ手の力を少しだけ強くして答えた。
「僕、友則さんのこと、ちゃんと支えますから」
彼は驚いたように目を上げ、それから微かにほほ笑む。まだ脆いけれど、確かに僕だけに向けられた笑みだった。
ふたりで目を合わせている間に、雨が静かに上がっていく。小さな食堂の湿った空気の中で、僕の心は確実に彼へ傾いていた。
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