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第一夜 奪われた視線、甘き口づけ
東都のはずれ、鬼禪町 。
この町では、夜になると風の音がひとつ多いと言われている。
その中心に佇むのが、陰陽師一家――東雲 家だった。
この家で生まれ育った灯緒 も今夜、二十歳になる。
「浮かない顔をしているな」
「……父上」
日が沈む様を縁側で眺めていた灯緒の隣に父が立つ。
「この大正の時代に、陰陽師など……必要でしょうか。怪異さえも、今ではほとんど現れていません」
――それなのに、なぜ自分だけが、その役目を背負わなければならないのか……もっと適した者 がいるのに。
「その心であるならば、おまえは確かに、この時代に陰陽師となる必要はないだろう……本来ならな」
縁側に座った父は、灯緒の肩に手を置くと優しい口調でそう言う。
「未熟な力が怖いか?」
「そういうわけでは」
「私は信じているよ」
――灯緒を喪ってはいけないからね。
瞼の奥で、父が何か言っている気がした。
だが、その言葉は聞き取れない。
「……おまえは母上と弟を守った過去があるのだから」
――けど、あの一度きりだ。あれ以来、僕は力を使いこなせていない。
弟が生まれる日のこと。この町に怪異が現れた。
母の乱れた息が、悲鳴が裂けるように響いたあの日。
弟の誕生を阻止しようとした怪異を、まだ幼かった灯緒が祓う。
この時は自分の力を信じることができていたのだ。
「己の力を過信することなく、信じられる者は少ない。今のおまえは確かに迷っているが、私はおまえの勇気を信じているよ。だから今夜は胸を張りなさい。新当主・灯緒様」
茶化すような言葉に眉を下げて笑い返す灯緒。
父の言葉は嬉しいはずなのに、まだどこか自信が持てなかった。
なんだかいつもの風の匂いと違う気がして。
ぽつり。
ふと雨が降ってきた。
「……来てしまったか」
夜の雨は不吉の予兆。
父に何度も言われてきたが、この町は少なくとも十五年の間、夜間に雨は降らなかった。
その雨が、なぜ今。
東雲家の現当主・燈利 が立ち上がり、印を組む。
その時、灯緒の背後に結界で作られた道が広がった。
「その道は祠へと続いている。そこで契約を結ぶのだ」
「父上、僕も……!」
言葉を言い切ることもできず、結界のなかへと突き飛ばされる。
視界が途切れる前に、禍々しいにおいが鼻を掠め、直後に漂った血の香りが、脳を突き刺すようだった。
「一体誰と契約なんて……!」
――けど、契約をすればあの気配とも戦えるのかも……。
灯緒は足を前へ前へと進め、結界の出口へと向かった。
結界から出ると、灯緒の目の前には見慣れた祠の祀られた屋敷が広がる。
結界はいつのまにか風に消えて、なんだか息苦しい。
灯緒は父の言葉の通り契約者を探そうと、あたりを見回した。
――鬼が祀られた町なんて不思議だろう。
父と母はいつもこの屋敷を大切にしている。
母は料理をお供えし、父は毎朝くまなく掃除をしていて、面倒くさがる弟も手伝っていた。
もちろん灯緒も率先して屋敷を手入れしていた。
雨漏りがあれば屋根を直し、床が軋めば張り替えた。
「この祠で、何と契約しろと……」
ここはいつもと変わらず穏やかな風が漂っている。
まるで先ほどの不穏なにおいも知らないように。
そのとき、風の匂いがひとつ増える。
背後を振り返ると、そこには燃えるような赤い髪の男が、ゆらりと立っていた。
その男は明らかに人とは違う匂いがある。
男の瞳が灯緒の視線と絡むと、匂いはより一層優しくなった。
――契約は、彼とするのか……?
妖しいはずなのに、不思議と肩の力が抜けていく。
同時に男の赤い眼光から目が離せなかった。
灯緒の身体に絡まるような視線は、心臓が上ってくるような感覚までも呼び起こさせる。
彼が一歩ずつ近づいてくる。
その足音がまるで耳元で響くようだった。
視線を奪われたまま、灯緒も一歩踏み出しかけた、そのとき――。
ドォンッ!
激しい音がして、灯緒が振り返る。
すると炎が上がっているのが目に入った。
家がある辺りだ。
「父上……!」
灯緒は契約のことも忘れて自宅の方へと戻っていく。
心臓は激しく鉢を叩くように鳴っていた。
「|兄様《あにさま》……」
「|燈赫《とうかく》!」
自宅の門にもたれていたのは弟だ。
駆け寄り無事を確認する。
弟の頭からは血が流れ、霊力は乱れていた。
「おれは大丈夫……けど、母上が……」
燈赫が見つめる先に視線を向けると、無残に裂かれた母の姿があった。
その先では父が片腕を失いながらも怪異に立ち向かっている。
「父上ッ!」
一瞬父が灯緒を振り返る。
光の尽きた瞳に再び熱が戻っていき、父は片手で印を組もうとした、その瞬間。
父の命が、もぎ取られた。
怪異は灯緒へ首をごとりと傾ける。
ひっくり返った顔のひとつひとつが、笑みを浮かべた。
この家で一番の腕を持った父が死んだ瞬間。
灯緒は自動的に新当主となるが……。
しかし、あまりの動揺から灯緒の思考も、身体も動けずにいた。
「どど、と、もお。よおおおお、よめ、よめになれ」
怪異が首を傾げたまま一歩ずつ近づいて来る。
「よ、め……?」
灯緒が思わず怪異の言葉を拾うと、それは嬉しそうに駆け寄ってきた。
「よよよ、よぉ、嫁、よめにいいい、な、ななれ。れれ」
「ッ!」
――燈赫を守れるのは今、僕だけだ。
力の配分を考え、印を結ぶ。
その時に自身の手のひらを短刀で切る。
血を地面へと垂らし……。
燈赫を守る分、三割。
この怪異を封じ込める分、二割。
この家に抑え込む分、五割の霊力を残し、放つ。
「この血の引かれた先に封じ込め――!」
顔を上げた瞬間、頬に衝撃。
気づくと数メートル飛ばされていた。
塀にぶつかり、背中を打った痛みで起き上がれない。
「よめ、よよ、よめは。かわいい。美味い! ち、ちち血。うまいイイい」
「……とう、かく……」
――こんな怪異のせいで、すべてを失うなんてダメだ。
――弟くらいは守りたい。僕に力があれば叶ったはずなのに。
……ぱちぱち。音がして視線を移す。
そこにはいつの間にか火の玉が浮かんでいた。
――こんなときに、新たな怪異……?
火の玉がゆらりと形を変えていく中、灯緒は印を組もうと震える手を持ち上げた。
次第に人の形を作ると、火の玉から声がする。
『三度、俺を扱うことを許してやろう』
その姿は、ついさっき祠の屋敷で見た男。
『一度目は母と弟を救わんとした日、二度目は今夜、その変態から――』
男は続ける。
『三度目だけは、お前に選ばせてやる』
燃え滾る赤い長髪を風に漂わせ、男が近づいてきた。
その口が弧を描き、灯緒の身体を宙に浮かべる。
「弟を守りたい……ちからを……力を貸してくれ!」
灯緒が伸ばした手。その小指に男の太い小指が絡む。
そして彼は頬を寄せて唇を開いた。
男の息が、灯緒の唇にかかる。
「命じるな。――お前はもう、俺のものだ」
まだ誰のぬくもりも知らない灯緒の唇に、男のそれが吸い付く。
強引にこじ開けられた隙間から侵入した舌が、灯緒の熱と絡み合った。
「んぅ……!」
ぬるい熱と湿り気が、口の中で混ざり合い、頭の奥が震える。
弟を守ろうと張りつめ冷えた身体が、男に触れられた場所から溶かされていくようだ。
男の指先が、灯緒の腰から首へと滑っていく。
反対に、小指と絡んでいた手は血管をなぞり、力強く灯緒を引き寄せた。
「ん、は……あぁ……」
ようやく唇が離れたときには、灯緒の腰はすっかり砕けて力が入らない。
「きき貴様ァあああアあアア!」
一部始終を見て固まっていた怪異が発狂すると、男は灯緒に背を向けて拳を握った。
「ハッ。怪異ごときが」
男の姿は一瞬で視界から外れ、怪異を殴り、消し飛ばす。
「祀られしこの俺に敵うか。愚か者が」
彼の支配の熱を唇に感じたまま、灯緒の意識が散っていく――。
戻ってきた男は、灯緒の身体を掬い上げるとその首筋に吸い付く。
赤いしるしが浮かび上がると、それをなぞるように舌先がすべった。
「……契約は成ったな」
成立した契約。式神となった男。
この男が今まで家族で大切に祀ってきた鬼であると、灯緒はまだ知らない――。
そしてその鬼が、自分を二度と手放さないことも。
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