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五章『第八話 お前は分かってない③』
少しだけ空いた、燐との距離。
その距離が、急に心許なく感じて。気付けば、燐の襟元へと手を伸ばしていた。
不思議そうにこちらを見る、赤い瞳。けれど、その視線には気づかないふりをして。俺は、ぎゅ、と襟首を掴んだ手に力を込める。
指が震える。上手く息もできなくて、ずっと心臓もどくどく言ってる。
それでも――――今度は、俺の番だから。ここで怖気づいてちゃ駄目だ。
そう思って、意を決して俺は、そのまま、ぐいと燐を引き寄せた。
「――――!」
瞬間。ふに、と、柔らかな感触が、唇に触れた。
ほんの一瞬、触れただけ。それなのに、唇から伝う熱が。触れた吐息が……熱くて。火傷してしまいそう。
――――あぁ、やってしまった。
これでもう、後戻りはできないと。熱に浮かされてぼうっしてる頭で、そんなことを思う。
……それなのに。どうして、こんなに嬉しいんだろう。
「っ、……」
は、と、押し殺していた息を吐いて、そっと顔を離す。すると、目の前に映る、まん丸な瞳。
やっぱ、流石の燐もびっくりした、よな。
いつも、なんだかんだ余裕そうに笑う燐が、言葉もなく固まっている。その顔に、今なら言えるかもしれないと……勇気を振り絞る。
「……何が、俺が安心できた時でいい、だ」
手だけじゃなく、声も震えてる。格好悪い。顔だって、きっと真っ赤だ。
でも、もう止められない。止めちゃ、いけない。
「そんなの……とっくの昔から、思ってるんだよ」
ただ、少しだけ、勇気が足りなかっただけで。怖さから、認められなくて。ずっと、言えなかった。
それでもずっと、ずっと――――燐のことを想ってた。
「……っ、くそ……」
そこまで言ったところが、もう限界で。耐えきれなくて、逃げるみたいに燐の胸元へ、ぽすりと額を押し付ける。
――――もう無理。これ以上は顔、見れない。
自分から仕掛けたくせに。唇に残る感触のせいで、心臓が壊れそうなくらい跳ねて苦しい。
思い切ったことをした自覚は、ある。でも、きっと自分は、ここまでしないと前に進めないって、自覚もあったから。だから、後悔はしてない。
とは言っても、恥ずかしいことには変わりないんだけど。
そんな状態で、真正面から燐を見る勇気なんかなくて。顔を伏せたまま、ぽつり、ぽつりと言葉を零す。
「……燐の隣はさ、あったかくて……陽だまりみたいで、安心する」
今も感じるこの温もりが、心地良くて。これが離れてしまうのが、嫌だと思ってしまった。
とくとくと奏でる心音に、思わずすり、と擦り寄る。
自分の鼓動は煩くて、燐にも聞こえてるんじゃないかって、離れないともっと苦しくなるって……そう思うのに。離れたくない。
あたたかい。落ち着く匂いがする。
「真面目な顔でおかしなこと言うところは、ちょっと……いや、かなり腹立つこともあるけど。……でも、そういうところに、助けられたこともある、というか……」
思いつくまましゃべってるから、いつも以上に上手く言葉にできなくて、ひどく拙い言葉に悔しくなる。
さっき、燐がくれた言葉の、俺なりの返事をしたいのに。伝えたいという気持ちだけが先行して、やきもきしてしまう。
「ふざけてるくせに、よく周りのこと見てて、さりげなくフォローしてくれたりさ。ほんの些細なことなのに、覚えててくれたり……ずるいんだよ、そういうとこ」
燐は、何も言わない。ただ静かなまま、俺の言葉を聞いている。
それが、なんだか恥ずかしくて。ぐぅっ、と唇を嚙み締める。
――――もう、なんか言えよ、バカ……っ!
反応がないままなのが耐えられなくて、半ばやけくそ気味に、勢いよく顔を上げた。
「〜〜~っ、だから! ずっと燐の隣にいたかったから、ここまで頑張って――――っ」
「もう無理」
「……へ?」
その瞬間だった。
「――――んっ⁉」
突然、唇に触れた熱に、びくりと肩が跳ねる。
続けたかった言葉は、一切音にならなくて。ただ、触れる唇の熱さに、目を見開いた。
「んぅ……っ! ちょ、り……っ⁉」
咄嗟に離れようとして身を捻れば、ほんの少し空いた距離。解放されたその隙に、燐の名前を呼ぼうとしたけれど。それもまた、燐の口の中に消えた。
「っ、! ぁ……ま、っ……! っ……り、ん……っ!」
目の前にある炎みたいな赤い瞳に、ぞくりと背筋が甘く痺れる。じりじりと焼き付くみたいな視線。それが、俺を捉えて、離さない。
どろりと、噎せ返るように甘く、蕩ける目。――――こんなの、見たことない。
「ふっ、……んっ、んぅっ……ぁっ!」
ずるずると堪えきれず後ろに倒れる身体が、またベッドへと沈む。それでも、燐は止めてくれなかった。
逃がさないとでも言うみたいに、深い、深い、口付け。その甘さに、腰が砕けて、上手く力が入らない。
さっき、自分からした触れるだけのそれとは、全然違う。
熱くて、苦しくて、気持ちいい。
「んっ、ぁ……っ、んぅ……っ」
「……っ、は……」
まるで、こちらを貪るように激しい口付けに。舌を絡め取られるたび、頭が真っ白になっていく。
息が、出来ない。
聞こえるのは、自分と燐の荒い呼吸と、水音みたいなリップ音だけ。
心臓なんて、さっきから壊れそうなくらい、暴れている。
――――っ、も、無理……っ、し、死ぬ……っ!
気持ちいいのと苦しいのとでまともに頭が働かなくて。本気でそう思った頃……ようやく唇が離れた。
「は、っ……ぁ……っ、はぁ……っ」
酸素を求めるみたいに、息を吸う。
今、何が起きたのかもうよく分かってないけれど。とにかく、呼吸を整えないと。
涙で視界が滲む。燐は今、どんな顔をしてる……?
そう思っている時。
「……はぁぁぁ」
頭上から、深い吐息が落ちてきた。
「……やっちゃった」
ぼそり、聞こえた声にゆっくり視線を上げる。
そうやって目に映りこんだのは、片手で顔を覆った燐の姿。
眉間に皺を寄せて、耳まで赤くなったその顔からは、いつもの余裕さが感じられなくて。思わず目を丸くする。
「……りん?」
今まで、見たことがない顔。今日、この瞬間だけで、何度燐のそんな顔を見たんだろう。
それに驚いて、まだ舌が上手く回らないまま燐の名前を呼ぶと、燐は顔を覆ったまま、低く呟いた。
「……なんでお前、そういうことすんの」
「え……」
「お前ほんと、俺が今どれだけ堪えてたか、分かってないだろ……」
ああくそ、と。
珍しく悪態までつく燐に、ぱちぱちと瞬く。
――――燐も、そんな顔するんだ。
さっきまでとは違う。余裕なんて、全部どこかへ消えてしまったみたいな、そんな顔。
あんなに、獲物を喰らい尽くさんばかりの獣のような眼をしていたくせに。今の燐は、悪戯がバレた子供みたいな、申し訳なさそうで、それでいて困った顔をしている。
そんな燐を見ていたら、なんだか可笑しくなってきて。
「……っ、ふ」
気付けば、くすりと笑ってしまっていた。
「……何笑ってんだよ」
途端、燐がむっと唇を窄める。
本当、お前は自覚がない、なんてぶつぶつ零すその姿に、しまったと口を噤む。
「ご、ごめ……っ、違くて、燐がおかしいとか、そういうんじゃなくてさ……っ」
笑ってしまったことを謝りながら、それでも頬は緩んだままで。おかげで、燐のじとりとした目が痛い。
ああ、なんでだろう。たったそれだけなのに、胸の奥が、なんだかじわじわと熱くなってくる。
「……なんていうか、その……俺だけじゃなかったんだなって、思ったら、その……」
そこまで言いかけた言葉が、震える。視界が滲んで、声が詰まる。
「……っ」
瞬間、胸の奥に溜め込んでいたものが、一気に溢れてくる。
大好きで、愛おしくて。ただ離れたくないと、そう願ってしまった、この男に対しての想いが。
「――――!」
そんな俺を見下ろしていた燐が、わずかに目を見開いた。
「……――――」
けれど。次の瞬間にはまた、あの、困ったみたいな優しい眼で、俺を見つめてきた。
――――ああ、もう。
その顔、ずるいなぁ。
その目に、見つめられて。ついにぽろ、と頬を涙が伝う。
「……泣くなよ」
「っ、む、り……っ」
掠れた声で、なんとかそう返す。そうしたら、燐が、仕方ないなって顔で、涙を拭ってくれた。
触れるその指が、あんまりにも優しくて。それが余計に俺の胸をいっぱいにして、涙を溢れさせたものだから。俺を見て、燐はふはっ、と笑った。
それから、どれくらい経っただろう。
泣き疲れて、ようやく落ち着いてきた頃。燐は、もう休めと俺を宥めるように言ってきた。
「夕廉さんが治してくれたとは言っても、一回呪い受けてんだから。午後の仕事は気にしなくていい」
俺に任せて、ゆっくり休めと。燐はそう言って俺の頭を撫でた。
本当は、すぐにでも仕事に戻りたかった。これ以上みんなに負担を掛けたくなかったし、自分だけ休むのも、落ち着かなかったから。
でも。多分、今のまま戻ったら、余計周りを心配させる。
それくらいは、自分でも分かったから。
「……分かった」
「ん」
大人しく俺が頷いたら、燐は嬉しそうに笑った。
――――その顔……なんか腹立つ。
「…………」
「…………?」
数拍の間が、俺たちの間に流れる。けれど、燐の動く気配がまったくなくて、思わず首を傾げる。
「……燐、戻らないのか?」
「……あと五分」
「いや、なんだよそれ」
俺に任せろと言ったんじゃないのか、と、さっきの燐の言葉を思い出しふ、と笑う。
「駄目だろ、みんな待ってる」
「ぐぅ……じゃあ、あと十分」
「伸びてどうする」
なんてやり取りを、何度か繰り返して。ようやく燐を仕事へ戻らせた頃には、入れ替わるように夕廉さんが医務室へ戻ってきた。
「……あらぁ?」
途端、にまにまとした顔を向けられ、うっとする。
――――あー、絶対なんか察された……。
思わず顔を逸らしたくなったけれど、そこを突っ込まれたら終わる気がして。俺は必死に平静を装った。
すると、夕廉さんもそこは空気を読んでくれたのか、深くは触れてこなかった。
「さ、それじゃあ手の方を診ましょうかねぇ」
そう言って、どこか楽しそうに笑いながら、傷の具合を確認するだけに留めてくれて。その距離間に、なんとなくむずむずとした心地になったのは、ここだけの話だ。
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