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前編 静寂に沈む気配

 夏は嫌いじゃない。肌に張り付く服は不愉快だったが、一年で最も草木の勢いが増す季節は、路央(みちお)の悩みも鬱憤もすべて押し流してくれる気がしたから。  大学院の修士課程一年目。路央の日々に余白はない。世間が夏休みに浮き足立つ中、昼間は連日研究室に籠もり、同じ景色を眺め続ける毎日だ。  その鬱屈を晴らすように、夜の路央は繁華街へ繰り出した。目的は「新しい出会い」。研究の合間にスマホをスワイプし、マッチした相手でその日の予定を埋める。時には二丁目のバーにも顔を出し、刹那的な時間を全力で駆け抜けた。  けれど、どんなに条件の合う男に会っても心は晴れない。目の前の男のスペックを、無意識に「彼」と比較してしまう。そんな救いようのない自分に、路央は心底嫌気がさしていた。 「ミティ、最近順調?」  声をかけられるのと同時に、目の前にイチゴミルクのパックが差し出された。顔を上げると、研究室の同僚の女子がニヤニヤと笑みを浮かべて立っている。路央がそれを受け取ると、彼女は勢いよく隣に腰を下ろした。  路央はパックにストローを差しながら、力なく聞き返した。 「順調って、どっちの話?」 「色恋の方に決まってんじゃん!」  研究の進捗はどうでもいいらしい。路央が苦笑いしていると、彼女は鋭く切り込んできた。 「羽瑠矢(はるや)くんでしょ」  やはり、女の子に隠し事はできない。ましてや隣の彼女は、路央の性的指向も、二年前の夏に起こった出来事もすべて知っているのだ。  羽瑠矢。出会って以来二年の間、路央がどうしようもなく惹かれている男。しかし彼には、運命なんて綺麗な言葉では表せないほど、捩れた紐で絡み合った唯一無二の相手がいる。  路央の淡い思いが花咲くことは、一生ない。  やるせない思いを吸い上げると、空になったパックから地獄の底のような音が鳴り響いた。  ◇  週末の深夜。その日も収穫なく帰宅すると、リビングでは一人の青年がノートPCを開いていた。  現在路央がお世話になっている葉山(はやま)家の長男、郁杜(いくと)だ。路央が見上げるほど大柄でたくましい体躯。二十歳そこそこの若者らしい奔放さは微塵もなく、その静謐な佇まいはどこか近寄りがたさすらある。けれど、笑うと存外あどけない顔になるのを、路央は知っていた。 「おかえり」  郁杜はチラリと路央を一瞥しただけで、慣れた手つきでグラスに水を用意し、手渡してきた。路央は向かいに腰掛け、酔って火照った喉に冷たい水を流し込む。  この家に住み始めて二年。郁杜との関係は良好だ。つかず離れず、適度な距離感。普段なら気まずい沈黙も、彼が相手なら不思議と嫌ではなかった。 「今日会った奴さー、どうしようもなくて。終始、競馬とスロットの話。結局、俺がほとんど払わされた」  絞り出すような愚痴に、郁杜は短く「クズじゃん」と呟いて笑った。その柔らかい空気に毒気を抜かれ、路央はさらに言葉を零す。 「あーあ。俺のやってること、なんか意味あんのかな」  言ってから気づく。年下の、遠縁とはいえ親戚に漏らす言葉ではない。路央が慌てて「ごめん、忘れて」と取り繕うと、郁杜は不意に、射抜くような真剣な眼差しを向けた。 「意外とさ、近くにいるんじゃないの。路央くんのことを、一番に思ってる人」  真っ直ぐな言葉に、路央は虚を突かれて目を丸くした。  次の瞬間、郁杜は何事もなかったかのように、再び画面の文字を追い始める。 (いるんだろうか。思ったよりも、近くに……)  その日を境に、路央は新しい出会いを我武者羅に求めるのをやめた。空いた時間を研究室の仲間や学部からの友人たちに使い、唯一無二の相手を見つけるという命題を、一度棚に上げた。  一方、家では郁杜とよく話すようになった。課題を手伝い、共通の教授の物真似で盛り上がり、贔屓の球団の成績について議論する。  路央は、そんな時間に何よりも安寧を抱いている自分を、自覚し始めていた。  ◇  ある日、研究棟の自販機前でコーヒーを啜っていると、そこに路央の「宿敵」が現れた。  頭一つ抜けた長身、少女が夢見る王子のような美貌。天上天下唯我独尊、路央の「訳ありな」元カレとして校内でも有名な男、玖我(くが) 智紘(ちひろ)だ。  ここ最近の穏やかな気持ちが霧散するのを感じつつ、路央は一応の挨拶をした。 「智紘くん、お疲れ」  智紘はチラリと路央を見て、一度興味なさげに視線を逸らした。が、思い直したように再び路央を凝視する。そして、探るような顔で核心を突いた。 「路央、男ができた?」 「は?」  まさか智紘に話しかけられると思っていなかった路央は驚いた。この男とは、訳あって交際していたことはあったが、恋人らしいやり取りをした記憶はほとんどない。そして何より、智紘の「唯一無二」である羽瑠矢に路央が懸想していると知っているこの男は、何かにつけて路央を排除しようとするのだ。  路央は、何か企んでいるんだろうかと怪しみつつも、質問に答える。 「別に、男はできてない。最近人生が楽しいから、輝いて見えたのかも?」  冗談で流そうとしたが、智紘はそれを一蹴し、買ったばかりの缶コーヒーを手にポツリと言った。 「路央はもっと周りを見ないと。気付いた時には遅いよ」  言うだけ言って、智紘は踵を返した。すでに路央への興味を失ったらしい、相変わらず不遜で美しい後ろ姿。  一人残された路央は、コーヒーを一気に飲み干して膝を叩いた。よく分からないが、どうやら自分は周囲が心配するほど「周りが見えていない」らしい。 「ま、いっか。戻ろ」  考えるのを放棄して歩き出した路央は、まだ気づいていない。  智紘が指摘した「手遅れ」の足音が、すぐ背後まで迫っていることに。

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