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中編 フォレストグリーンの腕

 残暑が厳しい九月のある夕方。  研究棟の窓から見える空は、焦げ付いたような茜色に染まっていた。研究室にいた路央が、重い腰を上げて帰り支度を始めたその時、デスクに置いたスマホが短く震えた。無造作に画面を覗き込み、路央の顔が露骨に歪む。  相手は、数ヶ月前に一度会ったきりの男だった。  二人で食事をした際、執拗に度数の高い酒ばかりを勧められた記憶が蘇る。店を出た後、露骨にホテルへ誘われていた。そのタイミングで、当時の想い人である羽瑠矢から呼び出しがあったのだ。路央はこれ幸いとそちらを優先し、食事代を男に押し付けたまま、逃げるようにその場を後にした。  そんな後ろめたさがあったから、二度目の誘いを無下にはできなかった。  大学を出てそのまま向かったのは、指定された路地裏のバー。  隠れ家風と言えば聞こえはいいが、妙に薄暗く、澱んだ空気が満ちている。気まずさを感じていた路央とは対照的に、現れた男は以前よりもずっと紳士的だった。路央の先日の非礼への謝罪を笑って受け流し、路央のペースに合わせて穏やかに酒を注ぐ。会話もそれなりに盛り上がり、路央は完全に毒気を抜かれていた。差し出されるグラスを、水でも飲むような勢いで空けていく。  そろそろ二軒目に行こうか、と男が腰を浮かせた、その時だった。  突然、視界がぐわんと大きく揺れた。  平衡感覚が消失し、椅子から崩れ落ちそうになった路央の体を、隣から伸びてきた男の腕が乱暴に抱き寄せる。 (やられた)  意識の端っこで、警鐘が鳴り響く。しかし、指一本動かすことができない。  引きずられるようにして連れて行かれたのは、近場の古びたラブホテルの一室だった。  男は路央を乱暴にベッドへ放り投げると、勝利を確信したような鼻歌混じりに浴室へと消えていく。  路央は鉛のように重い右手を必死に動かし、ポケットのスマホを掴み出した。視界は霞み、思考は霧に覆われている。  言うことを聞かない指先を叱咤し、トーク履歴の一番上にあった名前を叩く。  呼び出し音が一度、二度。  やがて、最近聞き親しんだ、低くて落ち着いた声が鼓膜に届いた。 『……路央くん?どうした』  その声を聞いた瞬間、路央の目尻にじわりと涙が浮かんだ。 「い、くと。やばい……盛られた……」  震える声でホテルの名前だけを告げる。それ以上は、もう言葉にならなかった。  電話越しに、郁杜の呼吸が激しく荒くなるのがわかった。 『今行くから、電話は絶対に切るな。――いいか、ぶん殴ってでも抵抗しろ!』  路央がベッドの上でか細く喘いでいると、シャワーを終えた下着姿の男が戻ってきた。その顔は、欲望にまみれた醜い笑みに崩れている。 「ようやく静かになったね」  男が路央に覆い被さり、顔を無理やり押さえつけて唇を重ねてきた。路央は残された全神経を総動員して暴れたが、力が入らない体では子供の抵抗にもならない。  口内にぞろりと侵入してきた他人の舌。その生々しい感触に、激しい吐き気がこみ上げた。  考えるより先に、路央は相手の舌を思い切り噛みちぎるつもりで力を込めた。  男が短い悲鳴を上げて顔を離す。その隙に手足を振り回したが、男は顔を真っ赤にして路央をうつ伏せに組み伏せた。  服に手がかけられ、乱暴に布地が引き裂かれそうになった、その時だった。  派手な衝撃音と共に、部屋の重い扉が蹴り開けられた。  入り口に立っていたのは、逆光を背負った巨大な影。逞しい体躯を持つ、静かなる大男。 「いくと……」  路央が掠れた声で呟くと、郁杜は迷いのない足取りでベッドへ歩み寄ってきた。  そして、路央の上に跨っていた男を、長い脚で容赦なく蹴り飛ばす。軽い動作に見えたが、その質量は凄まじく、男は容易にベッドを転げ落ちる。  郁杜は、虫けらでも見るような氷点下の瞳で男を射抜いた。 「警察来るから、覚悟してろよ。変態クズ野郎」  低く響くその声は、震えるほど冷ややかだった。  男を見下ろす郁杜の背筋は、そこら辺の格闘家よりもずっと雄々しく、威圧感に満ちている。早々に逃走を諦めた男が、部屋の隅でガタガタと震え出した。  郁杜は路央の元へ跪くと、壊れ物を扱うような手つきでその体を抱き上げた。  路央の肌は赤く火照り、体温が異常に上がっている。 「救急車呼ぶね。もう少し、我慢できる?」  耳元で囁かれた優しい声に、路央は首を横に振った。  不安と恐怖、そして薬による不快な高揚感。支離滅裂な感情の中で、路央は子供のように郁杜の胸に顔を埋める。 「家に帰りたい……。いくと、おねがい……」  その切実な懇願を聞いた郁杜は、重いため息をついた。  それは路央に向けられたものではなく、己の内側に渦巻く何かを抑え込もうとするような、深い吐息だった。  家までのタクシーの中で、郁杜は路央の油断を責めることは一度もしなかった。 「頑張ったな」  そう繰り返しながら、大きな掌で路央の背中をゆっくりとさする。一瞬たりともその体を離そうとはせず、むしろ自分の影の中に閉じ込めるように強く抱き寄せていた。  路央は、自分を包み込む圧倒的な質量と安心感に身を委ね、深い眠りの底へと沈んでいった。  ◇  人生最大の危機が過ぎ去ってから、二週間。路央の心は、一周回って理由のわからない爽快感に支配されていた。  あの時、命の危険を感じた瞬間。過去の自分なら、間違いなく羽瑠矢の顔を思い浮かべていただろう。けれど、無意識のうちに指先が選んでいたのは、郁杜の連絡先だった。  路央は、単純すぎるほどポジティブに結論づけた。 (これ、今度こそ新しい恋愛できるんじゃね?)  過去の未練が断ち切れたと確信した路央は、以前にも増して旺盛に夜の街へと飛び出した。マッチングアプリは辞めたが、身体に沿う衣服を纏って二丁目界隈へ繰り出し、友人の紹介の男たちと酒を交わす。  そんな全く懲りない路央の姿を、郁杜は呆れたような、けれどどこか昏い光を宿した瞳で黙って見守っていた。  路央と郁杜の関係は、変わっていないようでいて、その実、劇的に変化していた。  連日、酒の匂いをさせて帰宅する路央を、郁杜は玄関で待ち構えている。  そこからは始まるのは、郁杜による懇切丁寧な「世話」だ。  泥酔した路央の服を脱がせ、風呂場で手際よく体を洗い、湯冷めしないように着替えさせる。リビングでは、郁杜の膝の間に座らされ、胃に優しいお粥を一口ずつ食べさせられた。  最後には、子供のように歯を磨いてもらって布団へ運ばれる。  そんな日の夜は決まって、二階にある自室ではなく、一階にある郁杜の部屋のベッドに寝かされた。  路央は、郁杜の香りが染み付いたその場所が好きだった。深い森の奥に迷い込んだような、ふくよかで、静かな、安心する香り。翌朝目を覚ますと、視界いっぱいに郁杜の厚い胸板があり、その太い腕に隙間なく抱き込まれているのが常だった。  客観的に見れば、それは「異常」と言えるほど近すぎる距離感だ。  それなのに。  鈍感すぎる路央は、そこに一切の違和感も、自分を逃がさない檻の気配も感じてはいなかったのである。

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