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第1話 魔都上海

ちゅういがき 会話で「」の時は中国語で、【】の時は日本語で話しています。  夕方近くになると外灘(バンド)の外れ、黄浦江を見渡せる高台には、各国の『租界』から夜景目当ての客が増える。  その客に備えて、この場所では屋台が賑やかになるのが通例だ。  この時間になると、徐々に屋台が店を出し始めてくる。  天秤棒を担いで糖葫蘆(タンフル)を売り歩く者もいれば、手押し車で出汁のいい香りを漂わせるタンメン屋もいる。  底をカリカリに焼いた肉まん生煎饅頭(シェンジェンマントウ)を売る店も美味しそうな匂いを振り撒き、様々な屋台が増え始めた。  そんな高台で、安堂愁一(あんどうしゅういち)は霧雨が降り注ぐ中、ファーのついたコートのフードを被りタバコを咥えて真下の作業を見つめていた。  黄浦江の見所(みどころ)は水面に映る夜景だ。  だが今はまだ明るくて、いずれ夜景を綺麗に映す水面には今は人の成れの果てが浮かんでいた。  制服を着た警官が長い引っ掛け棒のようなもので、その成れの果てを船に引きずり上げているのを愁一は見つめている。 「容赦ねえなあ」  引き上げられたものを見て煙を吐いた愁一は、そう一言つぶやきその成れの果ての製造者である仲間の顔を思いうかべる。  引き上げられたものは本当の意味で首の皮一枚でしか繋がっておらず、警官はそれを『彼らなり』に丁寧に扱っていた。  愁一が雨の中散歩に出て、先ほど眺めていた『人の成れの果て』をわざわざ見にきてたのは野次馬根性ではない。『確認』だった。  1931年10月  上海   後ろを振り返ると、そろそろ街の明かりも点き始めいよいよ本領発揮の夜が始まる。  煌びやかで誰もが目を奪われる夜景を披露してくれるこの街は、欧米列強に加え今では関東州大連に司令部をおく関東軍というイケイケな日本陸軍までが、この国を食い物にしようと手ぐすねを引いて舌なめずりをしているような所だ。  それぞれの思惑が渦巻く闇を内包している街、上海。 「魔都…ねえ」  この街の表も裏も見て来ている愁一は、上海の異名であるこの言葉が結構好きだった。  人も増え、大都市となって行くにつれ犯罪の件数も多くなる。  魔都なる言葉がこんなに似合う都市はなかった。  中国は、この年起こった『満州事変』という大きな出来事のせいで、関東軍との衝突も未だ燻り続け、上海もその影響を受けないわけもなく容赦も遠慮もない関東軍がいつ租界にやってくるかと、人々は緊張感の中暮らしていた。  それに輪をかけて上海周辺は、この夏の荒天の影響かここの所雨が多く、どんよりした雲が世情の不安と共に民衆にダメージを与えているようでもあった。  今日も霧雨がしっとりと地面を濡らし、この暗い空模様が解消されるのはまだ先に感じる。  主に外国人が暮らす租界は、今ではフランスと米英の租界をまとめた共同租界が主で、その共同租界の片隅に日本租界は有った。  愁一はそこにある遊郭に世話になっていた。  日中のハーフのためどちらの言葉も堪能なので便利に使われている。 「寒いね、何みてるんだい?」  ぼんやりと租界の方を見つめていた自分の隣に立った男に、愁一は別に驚く風もなく顔を向ける。  高台は徐々に人が増え、大声で話す人夫や屋台の呼び声で賑やかになってきた。  そんな喧騒の中、隣に立った男は両手で豆漿(ドウジャン)(暖かい豆乳)のカップを握って手すりに置いて川を見ている。 「上野さん、久しぶりじゃないですか」  後ろを向いていた体を再び川へと向けて、アーモンド型の二重の目で上野と呼んだ男を見る。  上野は愁一が間借りしている遊郭の常連だ。 「ここ3週間ほど日本へ戻ってたよ。偉い人に呼ばれてしまってね」  カップの豆漿をひと啜りする上野のそんな言葉に『お忙しい事で』と肩をすくめて、愁一は視線を川へと戻した。 「土左衛門(あんなもの)みてると頭おかしくなるよ?」  川を覗き込んで眉間に皺を寄せながらそう言う上野に愁一も鼻で笑い 「あなたが言うと返って茶番ですね。で、今日はどうしたんです?うちの店にでも?」  火のついたままの吸い殻を川に投げ捨て、愁一は先頭に立って日本租界へと足を向ける。  その際に翻った愁一のチャンパオの裾を見て、 「そんな格好で出歩いてると、声かからないかい?私なら声かけるね」  上野は飲み干したカップを、ゴミが溢れたゴミ箱に日本人らしく丁寧に置いて後に続き、厚手のコートのポケットからタバコを出して火をつける。 「声なんかかかるわけないじゃないですか。その界隈じゃ俺はもうトウが立ってますよ。この格好が楽なだけです。でも上野さんが声かけてくれるなら、考えてもいいかな」  フードの中で長めの前髪についた水滴を4本指で払って、『いつものやり取り』を軽く流した。  愁一はフードがついたウール地の長いコートのなかに、チャンパオという脛までの長さのカンフー着のような物を着てクーズーというゆったりしたズボンを履いていた。  遊郭()の子達は、そのチャンパオの下には何もつけずにいるので、上野はそれを思い愁一にそう言ったのだ。 「冗談でもそう言ってもらえると嬉しいね。しかしまだ24歳だろう。トウが立ってるなどとそんなに卑下するもんでもなかろうに」  その言葉に愁一は『へっ』と声をあげて笑う。  もう自分で商いたくないだけだ。  愁一はせっかく暖かいコートを着ているのに前を開けているので、腰までスリットの入ったチャンパオは風に翻弄される。  クーズーを履いているとは言え大胆に翻らせて歩いている愁一は、その店の子よりも年齢分熟れて見えて、上野にはそれが艶にしかみえなかった。 「で、今日はどうしたんです本当に。まあ俺は店に案内しますけど」  店に世話になっている手前、お客様は積極的にご案内することにしている。  明らかに話を変えて、歩きながら後ろ向きに上野の方を向いた。  上野は黒いコートの襟にグレーのマフラーを綺麗に収めて、見える足からは濃いグレーのスーツがみて取れた。中々の洒落者振りである。 「今日はフランス租界へ出向いてちょっと人と会ってきたんだ。長い話し合いで少し疲れたから、ちょうどそちらへ伺おうとしていたところだったよ。あと…」  少し含みを持たせて、タバコを一吸い。 「君にこっちに戻った挨拶をしようと思ってね。それと日本の土産がなかったからこれ、焼き菓子買ってきたから渡そうかなと思って」  脇に抱えていた袋をみせてくる。  なるほど、確かにフランス語っぽい文字の書かれた紙袋を手にしている。 「俺に挨拶なんて今までしたことないじゃないですか。何事です?」  白い息を靡かせて、前に向き直りながら愁一は肩越しに笑った。  『それもそうか』とつられて笑ってしまった上野は、灰がコートにかかったのを払いながら 「まあ、君のいる店で遊びたかっただけだよ。でも焼き菓子は本当のお土産」 「有難うございます。しかし甘いんすよね、あいつらの菓子は」  前を向いて喋っている少し遠い声に 「要らないのかい?」  と意地悪な言葉をかけて 「不味いって言ってませんし、くださいよ。結構茶に合うんだ」  振り向かせることに成功した。  上野はそれに満足して、『どっちなんだよ』と笑って日本人らしからぬ行為で川へタバコを投げ捨てた。  しばらく歩くと街の入り口が見えてくる。  外から見るとあからさまに日本を強調している訳ではないが、中へ入れば一転大通りは日本語の看板が街に溢れ、ヨーロッパの影響なのか煉瓦造りの建物と並んで和風建築の木造住宅や日本料亭などが並ぶという日本風な街並みが連なっていた。  一方一本入った裏通りは、大通りの半分ほどの幅の道沿いに飲み屋や女性などを買う遊郭もどきな店が並んでいる歓楽街となり、その一角に愁一が『うちの店』と言った娼館があった。  『夜蝶楼(イエディェロウ)』と名乗る店は男女混合の娼館で、この店はあまり日本人にいい顔をしない中国人も密かに通ってくる店だった。 「遊びに来たんでしょ?表から行ってください」  裏口に着くと、自分はいつも裏から出入りしているが客の上野をそこから入れるわけにもいかず表を促す。  表には大きな提灯が下がり、小さな赤い中国提灯もいくつも下がり華やかである。  そこには案内人が立っていて、上野なら顔パスなはずだ。 「そうさせてもらうよ。所で華立(ホワリー)はいるかな」  馴染みの娼妓の名前をウキウキと言い出す上野に、この人もここへ来ればただの男だなと微笑ましく思いながら 「まだ店は開いたばかりなんで、いるとは思いますけどね。話しときますから表からどうぞ」  愁一は素っ気なく店に入り、見送った上野は手にした紙袋に気付くと 「渡し損ねた」  と戸惑ったが、女将に渡せばいいかと店の表へと足を向けた。

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