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第2話 遊郭「夜蝶楼」にて
「星宇 尻をしまえ」
愁一が部屋に戻ると、星宇と呼ばれた少年がチャンパオの裾がはだけて尻を丸出しにして夢中で本を読んでいる。
その尻っぺたを叩いて跨ぎ、雨で湿ったコートを窓枠にかけ、そこにかけていたタオルで髪を拭いた。
星宇はこの店の娼妓である。
しかし借金があるわけでも店に恩義があるわけでもなく好んでこの仕事をしているので、気が向いた時にしか仕事をしない、こんな店では珍しい存在だ。
そして大抵愁一の所でこんな風に遊んでいる。
「叩くなよー。愁一はこんな雨ん中どこ行ってた?」
「ちょっと散歩。黄浦江に上がったって人 確認 に行ってきた。寒かったわ」
部屋用の厚めな上着を羽織って、ガスストーブの前に屈んで暖をとる。
今回の秋は雨も多いが例年より異常に寒く、まだ10月と言うのに冬の格好でも寒いほどであった。
それでも8畳ほどの日本間は、ガスストーブで十分なほど暖かい。尻が出せるほどには。
「黄浦江に浮かんだ人 見に行ったの?悪趣味だなぁ」
言葉の割にはニヤニヤして、星宇は半身を起こす。
「なかなか容赦なかったな、あれは」
物理的に首の皮一枚の人間を思い出し、それでも口の端をあげて笑った。
「だってあいつ、心臓刺しても追ってくるんだぜ。おっかないからああするしかなかったよ」
口を尖らせて普通の文句のように軽くそう言う星宇を、愁一は
「ま、アヘン吸ってるし、そういうこともあるだろ」
と、これまた軽く受け流し、手を擦り合わせながら自らが『本職』と言い張っている執筆業を行う壁際の文机に向き直った。左手側の窓から、さっきより強くなった雨の音がする。
さっき見ていた人の成れの果て。
製造者は星宇だ。
2人は店にいるのとは違う顔を持っていた。
「そんなことよりお土産ないの?」
そんなことはどうでもいいとばかりに、星宇はいつも何かしら買ってくる愁一が手ぶらなのに不満そうだ。
「あ、忘れてた」
そう言われて愁一は上野の焼き菓子を思い出した。
「貰い損ねたわ」
「何を?」
「いま下 に上野さんが来てるんだよ。さっき会ってな。フランスの焼き菓子くれるって言ってたんだけど、店に案内してから貰うの忘れてた」
星宇は、えーーー!と大袈裟に声をあげ
「フランスの焼き菓子美味いじゃん!今いるんでしょ?貰ってきてよ」
「やだよ。華立 に会いに来たって言ってたから、もう部屋に行ってるんじゃねえの?そんなとこ行けるわけねえだろ」
星宇は後ろで束ねた背中までの髪を解いて、
「俺が相手じゃダメかな」
と、シナを作ってみせるが
「お前じゃ上野さんのタイプじゃないだろ。ホワリーだぞ?」
呆れてもう一度机に向き直る。
ホワリーは、名前の通りほんわりした感じの中国人の男の子で、ふわふわの髪をしてしっとりとした面倒見のいい、可愛い顔立ちをした子だ。
星宇とは真逆のタイプだった。
「比べんなよ!」
星宇が起こる程度には、ホワリーは出来た娼妓である。
「愁一こそ仕事なんかあるのか?」
比べられて、仕返しのように嫌味を言って愁一の肩から原稿用紙を覗き込んだ星宇は、真っ白じゃんと肩をすくめてまた畳に座り込む。
「今回は租界のレポートみたいなの書くんだよ。昨日頼まれてね。日本で宣伝して租界へ日本人誘致するんだってよ。やめた方がいいのにな」
へっと笑って、ペンを取った。時だった。
窓とは逆側の壁のドアがノックされ、誰だと思う間に引き戸が開いた。
「少しお邪魔するよ」
長身を屈ませて、上野がやって来た。
「あれ、どうしたんすか。ホワリーは?」
愁一と一緒に黄浦江の高台から雨の中歩いてきた割には、上野の襟足の短い横分けされた髪は、きっちりとしたまま少しも乱れてもいない。
「今から風呂入って磨いてくるって行ってしまってね。私は別に構わないと言ったんだがそうは行かないって」
そう笑いながら手にした紙袋を差し出して、
「これさっき渡し忘れてたやつ」
座る愁一に手渡す。
「ありがとうございます。今話してたんですよ貰い損ねたって。わざわざすみません。しかしホワリー 、上野さんにゾッコンじゃないすか。磨き上げてくるとかって」
「あの子いつもいい香りするからね。今日も楽しみだよ」
上野から受け取ったフランス語の書かれた紙袋を、すぐ後ろにいる星宇へ渡してやる。
「上野さんありがとう!」
星宇は紙袋を受け取って、早速中を見る。
甘い香りが鼻をくすぐり、少し厚い焼き菓子が入っていた。
その香りを嗅いで、ホワリーってどんな香りしたっけ?と、星宇はほんの少し考えた。
「俺これ好き。ホロっとしてて口の中でジュワッて溶けるんだ」
顔を綻ばせて取り出すと早速半分齧って、ご満悦の顔で咀嚼した。
上野はそんな星宇の前を横切りながら
「ガレットという焼き菓子だよ」
と教えてくれて、窓の下の壁に寄りかかるように腰を下ろす。
窓の下は通りとなっていて、そろそろ夜に差し掛かろうとする雨模様な割には人通りは多かった。
店は外観こそ中華風にしてあるが中は日本風の和室が主流で、やはり租界の客同様中国に長く駐在しているような客が多かった。
「あー、お茶も何もないんですけどね」
どうしようかな、と酒でもなかったかとキョロキョロする愁一を見て、
「俺貰ってくるよ」
お菓子のお礼なのか、星宇 はいつもよりも腰も軽く、お茶を取りに走って行った。
「星宇 はいつも元気だな」
上野は星宇を微笑ましく見送る。
「あいつ上野さんの相手自分がなんて言ってたんですけどね、まあタイプじゃないだろって留めておきましたんで」
「そんなことはないよ。彼は彼で可愛いし。まあいつかお相手願おうかな。あ、それとも君の…?」
「いやいや、俺は店に入る時に作法を教えるだけしか店の子は相手にしませんよ。お好きに遊んでください」
灰皿を進めると、2人してタバコに火をつけた。
「君はここで色々やってるんだったね」
上野は意味ありげに愁一を見て笑う。
実際、用心棒などと言ってはいるがそうそう問題が起こる訳でもなく、単発でくる物書きの仕事も食っていけるほどではない。
「知ってたんすねえ、上野さん」
愁一も同じ空気を醸して笑い、灰皿に一度灰を落とした。
「女衒って上海 で上手くやれるのかい?」
「まあまあっすね。九・一八で孤児になった子も多く流れて来たようでね、最近うちに2人、よそに5人は紹介できましたよ」
その言葉に上野の視線が再び愁一を捉え
「君に貢献できたわけか」
紅く塗られた窓枠に寄りかかり、タバコをもう一吸いする。
満州事変。
中国国内では九・一八事變と呼ばれ、満州鉄道の線路爆破が起因となり、中国当局の蛮行だと関東軍が中国に攻め入ってきた事変の事である。
その争いに巻き込まれた人も多く、孤児も多発した。
「貢献と言っちまいますか。まあ、そこんとこは俺には関係ないっすけどね…儲けさせてもらったし。しかし中々アコギなことしたって噂聞きますよ。関東軍の皆さんは」
タバコの煙の中、なんとも言えない視線を愁一は室内に投げかける。
実際後に判ることではあったが、この線路の爆破は関東軍における満州及びモンゴルへの権益を得るための自作自演だったのだ。
今の段階では明らかにされてはいないが、中国国内ではやってはいないことを責められたと問題視をされていて、そんな情報は愁一の耳にも入っていた。
上野は個人的にはその事変に直接は関わってはいないだろうが、帝国海軍の将校である。
その辺の情報は持っているだろう。
「陸軍は…特に関東軍は中々頭が硬いからね。海軍の紳士的なところを真似て欲しいものだけれど」
どの口が言うんだか…と笑って愁一はタバコを消す。
戦のために陸軍を満州へ連れて行ったのも、陸軍到着までの間繋ぎも全て日本海軍がやっていたのも周知の事実だ。
そして謀略を練った張本人の、『有能将校』を2人満州へお連れしたのも海軍である。
「海軍も随分『ご活躍』だったみたいじゃないですか」
「ご活躍だなんて滅相もないよ。おまけだよ。いいように使われただけさ。ま、私は蚊帳の外だったけれどね」
上野はいつでも私服であることを、愁一は訝しんではいた。
大抵日本の軍人は、『大日本帝国軍だぞ』と制服でうろつき回るのが常ではあったのに、この人のそんな姿は見たことがない。
とすれば…だ。裏暗い思考がよぎっても仕方のないことだ。
日本の軍隊にも『特務』という機関は存在するのだから。
口元に笑みを乗せながら、上野が身を屈めてタバコを灰皿に押し付けた所に、星宇がこぼさないようにお盆をもってゆっくりと入ってきた。
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