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第3話 希佳(シージャ)1

「お待たせしましたー」  上野の前に座り、茶托ごと上野の前へ置く。 「ありがとう。|星宇《シンユー》が淹れてくれたのかい?」 「うん。女たち何だか忙しそうだったからね」  星宇は、齧った菓子の残り半分を口に入れた。 「あ、上野さんも一個どうぞ」  愁一に懐紙を貰い、一つ載せてまた前へ置く。 「私はいいのに。どうもありがとうね」 「俺には?」  愁一が手を出すと 「忘れてた〜」  と、その手に一つのせてやる。  さっきのピリついた会話は止まり、星宇から店の子の裏話などを面白おかしく聞くうちに、下働きの男が上野を呼びにきた。 「旦那様、|華立《ホワリー》の準備が整いましてございますよ」 「うん、ありがとう。今行く」  上野は立ち上がり、先ほどのコートは着ていなかったがスーツのポケットから|1角《イージャオ》硬貨2枚をだすと(1角は1元の10分の1の価値) 「お茶代だ。美味しかったよ」  と星宇へ手渡し、じゃあと去っていった。 「上野さんって紳士だよねえ〜〜」  後ろ姿にありがとう〜と叫んで、星宇はお金を握りしめた。 「こんな茶には少し高い気もするが、よかったな」  と喜ぶ星宇を見つつ再び机に向かおうとした時、またしても引き戸が開いて今度は遊郭でいう『遣り手』と呼ばれる女性が入ってきた。 「なんですかもー。ノックっていうのして下さいって言ってますよー」  何度も仕事の邪魔をされ、少々イラついて顔を上げた愁一の目に、遣り手に連れられた少年が入ってきた。 「せんせ、お し ご と です。全て『綺麗』にしてあるんで、あとはお作法とか開通とかお願いしますよ」   遣り手と言うと婆を連想するが、ここの遣り手は多少トウが立った程度の存外若い女性だ。  下手したら愁一と同じくらいか。  日本風の着物を着て、襟を大きく抜きドーランもちゃんと襟足まで塗っている綺麗な女性である。  この店は、働く方も娼妓も日本人中国人半々が居た。  なので会話は中国語だけで行われるが、女将やこの遣り手は日本人でどっちの言葉も堪能である。 「それで忙しそうだったのかー」  |星宇《シンユー》が3個目の焼き菓子を咀嚼しながら納得をした。  新入り…というか、店に新しい子が来ると、まず店側は徹底的に洗い流す。  文字通り風呂に入れ、石鹸で綺麗に流し、女の子なら髪を洗って漉いて中国風に結い上げる。  男子の場合はそこに、所謂『洗浄』が入ってくるのだ。  直腸の内部をそこそこ奥まで徹底的に洗われ、中を綺麗にしてからこうして愁一の元へと連れてこられる。  もちろんその際、これから自分でやるやり方も教わってきているはずだ。  愁一の仕事とは勿論、この少年に閨の作法と男の受け入れ方を教えることだ。  女の子は初物が売りになるから、愁一は閨の作法を口頭で教えるだけなのだが、男子となると話が違った。  男子に限っては初ものを売りにはしない。というかできないのだ。  15、6にもなると男子は力も強くなる。  初物など出した日には、恐れに負けて逃げ出したり暴れたりする可能性があり、女性の多い廓内では抑えきれない。  その為に、愁一が一通り客とすることを教え込むのである。  少年は俯いて、着せられたチャンパオの太ももの辺りをギュウっと握りしめている。  そりゃあ怖いよなぁ、と毎度思う。  想像するに九・一八事變で親兄弟でも亡くして、騙されて連れてこられたんだろう。  見るからに日本のいいところの坊ちゃんに見える。  屈辱的な洗浄に耐えた顔には涙の跡も新しい。 「部屋はいつものとこですよ。じゃあお願いしますね〜。あ、名前は|希佳《シージャ》ですんで、よろしく」  |希佳《シージャ》という名前は、少し前にこの店を去っていった娼妓の名前だった。女の子で気立もよく、可愛らしく笑う子だったから日本企業の駐在員が妾にと引いていったのだ。  きっとそれにあやかってつけられたのだろうこの少年も、綺麗な顔立ちに品が上乗せされ見るものには上玉にみえる。  だがそれが余計に物悲しさを助長していた。  遣り手は少年の背中をトンと押して部屋へ入れると、その後ろで引き戸をガラガラと閉めて戻っていった。 「腹減ってない?」  星宇が焼き菓子を差し出すが、少年は黙って立ったまま返事もしない。 「俺の経験上さ、何か腹に入れたほうがいいと思うんだよ。俺お茶まだ口つけてないから飲んでたべな?この人のデカいから体力いるよ?」  『怖がらせるんじゃないよ』とツッコミを入れてみるが、その冗談も通じないのか希佳が口を開かないので、愁一はそばに呼んで座らせ 【言葉がわからないか?】  と、日本語で聞いてみた。  希佳は思わず愁一の顔を見て、ほんの少し安心した顔をして 【9月に来たばかりで…単語が2.3わかるくらいです】  と、やっと喋ってくれ、次にはまたチャンパオを握りしめる。  今が10月11日だから、渡ってきてまあ大体1ヶ月くらいか。  『はあ…言葉からなあ…』  軽くため息をついて、愁一は星宇へ通訳する。 「言葉がわからないそうだ。お前日本語すこーーしできるな。それで話してやれ」 「少しって言っても本当に少しだけどなあ…」  星宇は菓子を手にして 【食べな。食べないと大変】  希佳はその言葉に|星宇《シンユー》を見つめ、そして菓子に目を落とすと、『いいの?』と聞き返した。  それに星宇が笑ってうなずくと 「シェイシェイ」  と辿々しい中国語で礼を言いお菓子を受け取った。  洗われたからには店に来たのは今日なのだろうが、ペロリと一つを平らげたところを見ると腹は減っていたようだ。  飯くらい食わせてやれよと少々憤る。  二つ目をもらい、再び勢いづいて食べている|希佳《シージャ》をみて愁一は 【何をするところかはわかってると思うけど、早まったことは考えるなよ?育ちのいい、元々武家の家の子だったりすると身の処し方まで伝授されてっから舌でも噛みそうでおっかねえんだよ。とりあえず星宇の…こいつ|星宇《シンユー》っていうけど、こいつのいう通り食え。食って冷静に考える思考を戻せ】  愁一にそう言われ、希佳の顔が暗くなった。  確かに満州に来るに当たって、父親からは『相手に殺されるくらいなら自決を』とは言われてきてはいた。  仕事で来ることになったが、そんな怖いところなんだと覚悟も決めてはきたが、こうなるとは希佳自身も思ってはいなかった。 【確かに、そういう教えは受けたけど…この場合はどうしたらいいのかわからなくて。…ただただ怖い】  食べる手を止めて、やっと話を始めた。 【親はどうしたんだ】  そう問われると希佳の顔は一気に不安そうになり 【わかりません…わからないんです…】  チャンパオを握って俯いてしまう。  愁一と星宇は顔を見合わせた。 【父の仕事で家族で満州に来たんです。大連…ですか?その港に迎えがくるはずだったみたいなんですけど来ていなくて…父は、汽車に乗れば長春に着くからと、迎えを待たずに汽車に乗ったんです】  思い出すようにゆっくりと、希佳は話し始めた。 【汽車にのって暫く行った時に、乗っていた汽車が先の方で線路の爆破があってこの先はいけない、と言われて、そこで汽車を降りました。駅でもない変なところでした】  爆破があって汽車が止められた?愁一は眉を寄せる。  聞いた話だと、九・一八のきっかけは夜に線路が爆破され、その夜のうちに関東軍は奉天に攻め入っていたはずだ。  この家族はその只中に入り込んでしまっていたのか…。 【それで…両親と、まずは奉天というところに行こうと向かったんです。そこなら何か情報があるだろうと父が言って】  その頃にはもう、奉天は戦闘状態ではなかったか。  船旅で、起こったことを知らなかったとはいえ随分なところへと入り込んだなと、今聞いても驚くばかりだ。 【よく奉天に入れたな…戦闘状態だったとこっちでは聞いているが…】 【僕達が行ったところは、人が走り回ってはいましたが、ただ賑やかなだけかと思う程度だったんです…けど、奉天に着いて父が調べていた日本人のお店に行った時…父と母が…連れて行かれてしまって…それ以来分かりません…】  チャンパオを握る手に涙が落ちた。  怖かっただろうな、とその手を撫でてやる。  あの日の当日だ。攻撃を受けた中国側は、かなり激怒して日本人狩りをやっていただろう。日本人経営の店などは、まず目をつけられる。  次第に辛そうになってくる希佳に、愁一は茶を勧めて 【両親が連れて行かれた時、お前はどうしてたんだ】  茶を啜る希佳に問う。 【僕は…お店に入ってすぐにご不浄に行っていたんです。日本人のお店だったので安心していました。そこに、急に中国語を話す人がたくさんやってきて…】  愁一はタバコを咥えた。 【ご不浄にまで声が聞こえてきていて、その中で母が『来てはダメよ』と日本語で叫んでいるのが聞こえたんです。僕は怖くてそこから出られなくなっちゃって…しばらくうずくまっていました】  星宇は日本語がわからないから、希佳が何を語っているのかはわからないようだったが、悲痛な声は伝わるようで…正座をしてチャンパオを握っている希佳の両手をギュッと握ってあげていた。  そんな星宇に、涙で潤んだ目を向けて『シェイシェイ』と、なんとか希佳は微笑む。 【それで…怖い声が聞こえなくなるまでそこにいたら、急に『大丈夫だから付いておいで』って日本語で声をかけられたんです。小さな声で、自分は日本人だから、って言って店から連れ出してくれました】  日本語に安心してしまったんだろう。  普段なら簡単にはついて行かないだろう見知らぬ人間に、しかも言葉も通じない異国の街でよくついていったなという驚きはあった。  ただそこから出るにはそれしかなかったのだろうことも理解はできる。  しかし、一気に抗日気運が高まって満州では戦争のような状態になっている中、よく1ヶ月もの間…助けられたといえこの店まで来られたものだ、と愁一は希佳の身の幸運さに感嘆した。  可哀想だが多分父親は見せしめに銃殺されるか、もうされたか。  母親に関しては、女性という事で中国軍に売られたかもしれない。 【助けてくれたのは日本語が話せる人でしたが、基本中国語を話している人で、あまり日本語は話すなと言われました。その人から簡単な中国語を教わったんですけど、あまり覚えていないです。夜中に日本語で話しをしてくれて、上海の“租界”と言うところに行くと言われてここに来ました】  |上海《ここ》へ連れてくるという判断は、その時にしては正解だ。  連れて来た者が誰かはわからないが、自分から日本人と名乗ったと言うことは、矢庭には信用はできない。  しかし、恐らく見目はいいこの子を売って金儲けしようとしたのは違いないにしても、同胞である日本人の子供を少しでも安全な所へ…とは思ったのであれば、日本人の可能性は高かった。  どんな経路でここまできたかはわからないが、1ヶ月…逃げ隠れしながら必死に来たのだろう。  愁一は本当に運のいい子だと希佳の背中を一度、ポンと叩いた。  頑張ったなの意味を込めて。  そんな時 【これ、フランシュのかし。おいし?いぱいたべな。これくれたのにほんじんからあんしんのこと】  暗い雰囲気なのを払拭しようとしたのかなんなのかわからないが、星宇が辿々しく、でも一生懸命に日本語で話しかけてきた。  その甲斐あって希佳の表情が少し和む。 【もう店のなかま。いっしょね。なかよし】  こんな時、星宇のポジティブさは頼りになるなと愁一は、咥えていたタバコに火をつけ、同じくらいであろう年の2人を見ていた。  ふと、言葉は星宇に任せれば案外早いかもと思い、あとで話をつけようと考えていた。

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