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XII 半分のオレンジ
〈エンポリアー号〉がガラノスの町を発ったのは、そのすぐ後の事だ。よく晴れた月曜日だった。
ガラノスの住民と親交を深めた船乗りの中には、また新たな形での再会を約束した者もいたようだ。〈エンポリアー号〉以外にも、いくつかの貿易船の周航ルートにこの小さな港を加える提案まで出ていた。その真意は、もちろんリカルドの再訪を期待してのものだ。
だが残念ながら、離れていくのを誰より惜しまれた彼は、商人でもなく、またこの町の王でもなかった。
誰とも再会の約束など交わさず、ただ、生まれ故郷に愛を注いで、その発展を願い、できる事をすべて与えて去っていく〈放浪息子〉であった。
住民の多くが詰めかけた港での見送りでは、エウリーコが代表し、町に大きく貢献した〈英雄〉と握手と抱擁を交わした。
この町に革命を起こした彼と確執を持つマルティンがどのような心持ちでいるのかは、皆、察するしかない。
夫と長男が和解する事はなかった様子だが、セラフィナはベランダに上がり、人の集まる広場を見ていた。ただ、次男アントニオが見送りの場にいた事と、住民がそんな兄弟の仲を微笑ましく見守った事は、彼女のささやかな慰めになったかも知れない。
陽が傾く頃、英雄リカルドを乗せた〈エンポリアー号〉はついに大きな帆を張った。夕凪を抜けて、山の方から陸風が吹き始めたのだ。
逞しい腕の筋肉を盛り上げ、息を合わせてオールを漕ぐ船乗りの掛け声が続く。
人々の夢と希望、次の島への旅路に充分な食糧と資材、そしてこれからガラノスを世界へと知らしめる品々を積んだ帆船は、金色に輝く海面を滑り出した。
港に集まった者は、おのおの手にした布を振ったり、手を振ったりして、笑顔と涙を混じえて見送った。
そこに、シモンの姿はなかった。彼が人気者の〈片割れ〉であった事は、ここにいる誰も知らない。
オレンジ売りのシモンは、アクロの丘の上から船出を見ていた。
〈夕暮れのオレンジ農場〉の西にある小さな高原は、ほんの三日前に訪ねてきたリカルドが、イニゴとタシトと話をした場所だ。見晴らしの良いそこに、今はシモンだけがいる。
月曜日に町に出る用事はなく、農場ではオレンジのほか、オラシオが植えたレモンとライムの世話も必要だ。
タシトはオラシオに付いて学校に通う事が決まった。町に下り、靴職人の元で修行を始めるイニゴの身支度と、二人の代わりとなる人材も集めなければならない。
突然の提案にララジャ夫妻を戸惑わせた計画も動き出そうとしている。〈エンポリアー号〉の見送りが済み、明日になれば、町からはさっそく何人かがこの丘を登って来る手筈だ。農場の周囲の土地を切り拓き、栽培量を増やして、ガラノス産のオレンジを世界へと届けるために。
シモンは水平線に向けて遠ざかる〈エンポリアー号〉の姿を、いつまでも見ていたいと思った。
確実に変わり始めた周囲に対し、自分だけが置き去りにされている気がしてならなかったのだ。
リカルドは時間を持て余す者には役割を与え、場所を持て余す者には使い方を与えた。足の不自由な者には手仕事を、目の見えない者には歌と楽器の弾き方を、口のきけない者には知識の活かし方を教えた。
オレンジにまつわる逸話のひとつも知らなかったシモンにも、リカルドは大きすぎる物をもたらしていた。リカルドそのものが、シモンにとって大きすぎる存在となっていたのだ。
当のリカルドは、どのように考えているのだろうか。ふと、シモンはそんな風に思った。今更それを確かめる事はできない。
見送りに来て欲しいとわざわざアクロの丘を登って別れを告げにきた、彼の望みを叶えなかった。約束をやぶってしまったのだ。
海の向こうへ旅立った彼の望郷の中に、そんな自分は居られるのか。
「アディオス、リコ……」
言い慣れない別れをぽつりとつぶやく。
三日もすれば顔を合わせるのが当たり前のこの日常の中で、次に会うのがいつになるか分からない相手などいなかった。
追い風を受け、狭い港から広い外洋へと遠ざかっていく船のシルエットを青い眼に焼き付けておこうとしたが、それは早くも滲み始めていた。
この町では自分に正直になっても死ぬ事はない。そう、リカルドは確かに言った。
しかしそれを教えた彼を想うと、シモンはいっそ死んでしまいたくなるほどの寂寥に駆られる。
胸にぽっかりと穴が空いてしまうのとは比べものにならない。体を半分に引き裂かれるような痛みがするのだ。
「ハイ、シモン?」
そんなシモンを呼ぶ声がした。
驚いて振り向くと、そこに居たのはホセだった。わざわざ町からこの丘への道を登り、農場を越えて、シモンを探しにきたようだ。
「ホセ! どうしてここに?」
シモンは慌てて目元を拭いながら聞いた。旅立つリカルドの親友であるはずの彼もまた、見送りに行かなかったのだ。
様子を見て、何かを察したらしいホセは、眉根を寄せた笑みを浮かべて歩み寄ってくる。
「リコに頼まれたんだ。お前の様子を見に行ってくれってな。どうせ、見送りには来ないだろうから」
それを聞いたシモンは、ますます胸が締め付けられるのを感じた。
リカルドには、やはり何もかも悟られているのかも知れない。
もしも心が通じ合っているとするならば、自分がリカルドの心を理解しきれないのは何故なのか。それも分からなかった。
隣に立ったホセは、夕日に染まったガラノスの町と海を見下ろした。
「おお……たまには登ってみるもんだ。素晴らしい眺め だな、ここは」
目の上に手を翳し、滅多に来る機会のない景勝を楽しんで続ける。
「沈んでいく夕陽が、大きなオレンジみたいじゃないか?」
「もう、半分しか見えないよ……」
項垂れたシモンは、力なく応じた。
リカルドを乗せた船が、水面に反射した強い光の中へと溶け込んでいく。その様子を見ていられなかった。
見送りに行かなかった理由は、もちろん農場の仕事だけではない。今この時まで、リカルドの旅立ちが気に食わなかったからだ。自分に正直になった結果、片割れを裏切ってしまった。
ホセはいつもの歯を見せた笑顔で返してくる。
「半分のオレンジでも、充分じゃないか。ほら、ちゃんと見てみろよ!」
シモンは思わず聞き返すように顔を上げるが、その横顔は何も特別な事などないという風だ。〈半分のオレンジ〉という言葉を使ったのも偶然に過ぎないのだろうか。
やはりそうではなかった。
ホセはシモンに一度目配せをし、それに、と続ける。
「もう半分は海に映ってる。明日が来れば、太陽はまたひとつのオレンジみたいに丸くなる。いつでも一緒だ」
それがホセからの慰めであり、また親友リカルドから預かった言伝であると、シモンは受け取った。
シモンは目を背けていた景色に、いよいよ目を向けた。心地よい風が吹き抜け、薄紫色のビロードのように空を包み始めた夕闇の向こうには、早くも星が透けている。
両手を腰に宛てたホセが、その様子を横目に見ながら呼びかける。
「なあ、シモン。リコを恨んでやるなよ? あいつをここに引き留めておくなんて事は、母親のセラですらできなかったんだ」
「恨んでなんかないよ……僕は……」
それ以上、シモンは言葉を続けられなかった。
涙が溢れ、小麦色の頬を伝い落ちる。
先程までは目を潤ませる程度だったそれを自覚し、ついにシモンは声を上げて泣き出した。
平穏で変化のない、この小さな町での幸せな日々では、涙を流す理由すらなくなっていたと言うのに、今は嗚咽が漏れて止められなかった。
世界の広さを知った後は、もう元には戻れない。それは、町の住民も感じている変化の兆しである。
だが、今この時、シモンの抱える苦悩は、彼らとは違う。愛する片割れと、もう二度と会う事はないという痛みだ。
それは、まだ十六の少年にとって受け止めがたい。これからどのように生きていけばいいのかさえも、分からなくなってしまった。
「僕は、男として失格だ。リコは立派な男になると期待してくれたのに……守れない約束なんか、するんじゃなかった……」
そんなシモンを、ホセは優しく、力強く包み込んだ。
リカルドに抱かれた時とはまったく違う、安心させるような兄らしい胸に抱かれ、シモンは小さな子供のように泣き続けた。
「これから町は忙しくなる。寂しがってる暇なんてなくなるさ。……ただ、今は、思いっきり泣いていい」
慰めの言葉をかけるホセの声も潤んでいるのに気が付く余裕など、今のシモンには無かった。
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