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XIII 夜明け

ガレーに、コグ船、三角形の帆を備えたキャラベル船。近年開拓されたルートを周航する定期船が、今日も次々にやってくる。 目指すは半島の先にある整備された港で、すでに地元漁師のボートと並び、帆を畳んだキャラック船も二隻、停泊している。 海と空、そして家々の屋根に〈青色〉を冠した、その名も高きガラノス(青色)の町だ。 よく晴れた広い空を背にした山の斜面は、豊かな緑色と鮮やかな果実の色に覆われているのが見える。 アクロの丘は階段状に切り拓かれ、オレンジ農場の下にはライム畑とレモン畑、蒼々とした葉のブドウ畑が帯状に広がっているのだ。 上陸した船乗りを歓迎するのは、太陽を受けた真っ白な石灰石とタイル貼りの明るい街並み、賑やかな人々の声、どこか懐かしさを感じさせる弦楽器の旋律だ。 開拓者にして英雄とも呼ぶべきたった一人の男の帰還によって、突然もたらされた革命。あれから五年の月日が流れた。 ガラノスの町はみるみる発展を遂げ、彼の大きすぎる野望を実現しつつある。今やそれは彼だけでなく、町に住む者たちの願いにすらなっていた。 役割を果たし、互いを必要とし合う事が、住民たちの繋がりをさらに強め、活気づけた。この町では、誰もが豊かに、生き生きと暮らしている。 さながら眠りから覚め、夜明けを迎えたように。 レストラン〈ピアティカ〉は、地元住民と船乗りのみならず、時には山や海を越えた旅行客が集まるまでになった。朗らかなマルティンとセラフィナ夫婦は、訪れる客との会話を楽しみながら、仕事に精を出している。 副料理長となったアントニオは、ダリアを妻に迎えた。 畑のブドウが初めて実った頃、互いの働きぶりが目に留まり、惹かれ合ったという。 が、奥手ですぐに赤面してしまうアントニオが活発なダリアに声を掛ける事ができたのは、“誰か”からの後押しがあったお陰だろうと誰もが思っていた。 かつて〈ブドウのおちびさん〉と呼ばれた彼女が立役者となったブドウ畑では、近々ルビー色をしたワインの生産も始める予定だ。 オレンジ売りのシモンは、今も毎週決まった曜日に、町にオレンジを運んでくる。ロバのマンチャも一緒だ。 店や市場に卸す中で変わったと言えば、出荷量と取り扱う種類がぐんと増えた事だ。 大きくなった農場で働く人手を雇い、ララジャ夫妻は子や孫が増えたようだと楽しく過ごしている。シモンとオレンジを転がして遊んでいた子供たちも、遊ぶようにその手伝いをしに来るようになった。 しかも、つい三ヶ月ほど前には、ある取引が貿易船〈エンポリアー号〉より持ち掛けられた。この上質なオレンジ、レモン、ライムを、海の向こうまで届けたいと言うのだ。 その指揮を執る事になったのは、イシードロでも、オラシオでもなく、二十一歳になったばかりのシモンだった。いつか提案された〈世界一のオレンジ売り〉への道程。その実現の一歩を、図らずも踏み出す事となった。 そんな農場の一人娘アレシアは、待望の第一子の出産を控えている。 市場にテントを張って店を出すと、さっそく一人の少女がやって来る。明るい茶髪と、淡い空色のぱっちりとした目をしていて、歳の頃は五つほどだ。 シモンは身を乗り出して、少女の顔を覗き込む。 「やあ、元気にしてるかい?」 「ハイ、シモン。げんきいっぱいよ。オレンジをふたつと、レモンをみっつちょうだい」 舌っ足らずではあるが、しっかりとした口調で答える。 「全部でいくつかな?」 「いつつよ」 「正解。よくできたね、おちびさん」 「あたし、おちびさんじゃないわ。てをつかわず、かぞえられるもの」 「そうだったね、お名前は?」 「アウローラ。おぼえてちょうだい、オレンジうりさん」 その名前を聞くだけで、シモンは笑みをこぼさずにいられない。 アウローラと名乗った愛らしい少女は、ホセの一人目の娘だ。 父の親友が付けたその名は、〈暁〉つまり〈夜明け〉を表すと聞いた。ガラノスを治めるエウリーコにとっての初孫で、この町の発展が始まった頃に生まれた彼女に相応しいと、誰もが感じるだろう。 そんなアウローラは祖母が織った生地で作った小さな鞄から、代金と、野菜の葉の束を取り出した。 「マンチャにあげてもいい?」 「ああ、構わないよ」 許可を得ると、わくわくした様子でテントの日陰に入ってくる。膝を折って休むマンチャの鼻先へ持っていき、食べさせるのを、シモンは荷車に寄り掛かって見ていた。 と、道を行き交う人混みの中からホセが現れる。 隣には、赤い髪をきちんと整えたイニゴの姿もあった。職人街で暮らすようになり、農場にいた頃より肌の赤みが引いている。 「商売は順調か? オレンジ売りのシモン」 笑顔で尋ねてくるホセの調子は、市場が大きくなっても変わらない。口髭を生やし始めたのは、エウリーコの補佐役として町全体の運営に携わるようになった二年前からだ。 「見ての通りさ。おちびさんが一人でお使いに来てるよ」 シモンの視線を追ったホセは惚けたような笑顔になり、愛娘に近寄っていく。今朝も昨夜も顔を合わせているだろうに、思いがけず目にした事が嬉しくて堪らない様子だ。 残ったイニゴがシモンの顔を見上げて聞く。 「農場のみんなは元気?」 「もちろん。それに、イニゴのことを気にかけてる」 「元気だって伝えておいて。それから聞いて。親方から、次のシモンの靴はぼくが作るようにって」 十九になったイニゴは自身の手先の器用さを誇らしく思うようになり、少年期の不安そうな様子は、そばかすと一緒にすっかり消えた。 「本当に? それはすごい!」 シモンは喜び、一度、足元を見下ろす。サンダル履きで傷だらけだった足は、ひと回りもふた回りも大きくなったクロンプに守られている。 向き合って立つイニゴの片足は引きずられたままだが、使う杖は本人の背に合わせて会う度に伸び、模様もますます精巧になった。 そこで、シモンはふと思い出して提案する。 「そうだ! タシトがまた外国の詩を教えてくれた。次は裏にそれを彫ってよ」 異例の若さで山向こうの学校に通う事を認められたタシトは、十七歳になる今もオラシオに付き、さらなる学びを深めている。海の向こうから届いた貿易の申し出を翻訳し、返信を書いて、計画をまとめたのも彼だ。 週末は家庭教師さながらに、農場で働く老若男女に文字や文学を教えている。お陰でシモンは『オレンジ』以外の文字を読み、古代の哲学者が伝えた愛の詩にまで触れられるようになったのだ。 「足跡がつく度にそれを残していったら、おもしろそうじゃない?」 シモンの考えに、イニゴも賛成する。 「いい考えだね! 夕方、農場に帰る前に工房に寄って。買い出しを終えた最後でもいい」 「一番に行くさ! もしオレンジが余ったら、お土産にするよ」 嬉しそうに頷くと、イニゴは踵を返し、一人で職人街の方へと戻って行った。以前より人の往来が増えたもので、道すがら一緒になったホセは、彼が歩きやすいように付き添っていたのだろう。 そのホセが、肩を落としてテントの奥から戻ってくる。 「一人で帰るって聞かないんだ。マンチャにもっと早食いになるよう言ってくれよ」 「家はすぐそこじゃないか。お使いの度にお父さんがついて来たんじゃ意味がない」 シモンは苦笑し、その肩を叩いて窘める。 「イニゴも一人で戻って行ったよ。もう十九なんだ。今度、僕の靴を作ってくれるって」 途端に、ホセは目を輝かせ、口髭の中で歯を見せた。 「そうか、それは良い話じゃないか! 農場の三人は立派な男になった。もうおちびさんとは呼べないな」 おちびさんと言えば、と再びアウローラに目を向けるシモン。 「そっちのおちびさんが数を数えられるようになってびっくりだ」 「ソフィーも驚いてたよ。子供の成長はあっという間だ」 ホセの妻ソフィーは二人目の赤ん坊の世話の合間を縫って、長女と一緒に勉強をしているそうだ。 「──と、今日はこれを渡そうと思って来たんだ。少し、いいか?」 そう言って、ホセは小さな包みを取り出した。家に届けられた物を、わざわざ持ってきたのだろうか。 「荷物なら、いつもみたいに後で受け取りに行ったのに」 不思議に思って言うシモンだったが、 「うちに届いたんじゃなく、昨日来たキャラック船の積荷に紛れ込んでたんだ。人の手を介すと、きっと分からなくなる」 ホセはアウローラを見つけた時とは別人のような、真面目な面持ちで伝えてきた。 手渡された包みは小さな割に重みがあり、しっかりと梱包されている。航海の途中に傷が付かないようにするためだ。 町には流通していないはずの、しかしなぜか懐かしい香料が、かすかに香った気がした。 「エンポリアー号に乗っていたの?」 港の方を見て尋ねるシモン。ホセも一度同じ方向を確認し、首を振った。 「いいや、もう一隻の方だ。ガラノスに来たのは初めてらしい。けど、まるでオレが見つけるのを見越してたみたいだ」 白い歯を見せなくなったホセに促され、慎重に宛名を確認する。 『青い町の半分のオレンジへ』 文字を読める者であっても、その一文だけでは、何を表しているのか理解できないだろう。 だが、ホセがこうして届ける事ができたのは、そしてそれを読んだシモンの心臓が大きく跳ねたのは、五年前の出来事を忘れていないからだ。 これを送ってきた相手も同様に、この町で過ごした日々を憶えていたに違いない。 シモンははやる気持ちを押さえ、包みを開く。 現れたのは、見覚えのある装飾品だった。金のメダルを連ねたネックレス、じゃらじゃらと鳴る革のブレスレット、大きな宝石のついた指輪。 当時はどれも人目を引く輝きを放っていたはずだが、町全体が(まばゆ)い光に包まれた今になって見ると、どうにもそれが鈍くなったように思える。 メダルは潮に当てられてくすみ、革はちぎれそうなまですり切れ、宝石には細かい傷がついていた。 手紙の類いは見当たらない。ただ、その様相が、〈片割れ〉の手元へと届けられた意味を物語っている。 「シモン……」 二人で中身を確認していたが、ホセが眉根を寄せ、唇をきつく引き結ぶのが先だった。 「ああ、そんな……」 続いて、シモンがこぼす。 それらを身に付けていた肉体が、みずからを〈オレンジの片割れ〉と呼んだ半身が、もう二度と、この町には戻って来ないと確信したのだ。 そこへ、マンチャに野菜の葉を食べさせ終えたアウローラが戻ってきた。彼女の背丈では包みの中は見えないが、顔を伏せたシモンの表情なら見えてしまう。 「どうしたの?」 「……大した事じゃないさ。おいで、オレたちのアウローラ(夜明け)」 ホセは表情を歪め、無理やり笑顔を作ると、片手で娘を抱き上げた。 そして、もう片方の腕で弟分を抱き寄せる。五年前より背が伸びたシモンは、兄の胸ではなく、肩に顔を埋める形になった。 「やっぱりあいつは……何をするにも早すぎるんだ」 それが、シモンにかけられた唯一の慰めだった。 思い通りにならなかったと言って泣く事が許されていたのは、〈おちびさん〉と呼ばれた少年の頃までだからだ。 ガラノスを発展に導いた人物を失った当時の人々の悲しみは、見送りから五年が経った今でもよく憶えている。 彼は英雄扱いされる事も、また愛する故郷の人々を悲しませる事も望んではいなかった。だからこそ、これらは家族の元ではなく、シモンに託されたのだろう。 世界を相手取る一人の男へと成長したシモンには、起きてしまった出来事をただ受け入れるよりほかない。 アウローラが小さな手を伸ばし、シモンの金髪の頭を撫でる。 彼女は、夜明けを見ずに旅立ったその顔を知らない。

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