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第1話 最悪の事故 管理

 夕方のオフィス街は、昼の熱を引きずったまま薄暗く沈み始めていた。  白瀬恒一は駅へ向かう人波から半歩だけ距離を取り、ネクタイを緩める。喉の奥が妙に熱い。息苦しいほどではない。けれど、いつもの疲労とは明らかに違っていた。  最悪だ。  営業先からの帰り道、今日は直帰にしてもよかった。だが提出前の数字を一度確認しておきたくて、会社へ戻る判断をしたのがまずかったのかもしれない。  額に滲んだ汗を手の甲で拭い、恒一は上着の内ポケットを探る。そこにあるはずの小さなケースの感触を確かめて、少しだけ安心する。  まだ大丈夫。  薬は持っている。少し休めば落ち着く。 「白瀬」  低く、よく通る声が背後から落ちてきて、恒一は露骨に眉をひそめた。振り返るまでもない。 「……何」  案の定、橘冬真が立っていた。同期入社、同じ営業部のエース。成績はいつも上位、顔もいい、そのくせ愛想は壊滅的。会議では必要以上に鋭い正論を投げてくる男だ。  恒一にとっては、できれば仕事以外で顔を合わせたくない相手だった。 「午後の先方、条件詰めたのか」 「詰めた。橘に報告する義理はないけど」 「言うと思った」  鼻で笑われて、恒一はむっとする。普段ならもう一言返していた。だが今日は舌がうまく回らない。喉が渇いて、視界の端がわずかに霞む。  冬真がわずかに目を細めた。 「顔色悪いな」 「平気」 「そうは見えない」 「お前に心配される筋合いないだろ」  突っぱねると、冬真はそれ以上追及してこなかった。ただ、何かを測るような視線だけが一瞬長く残る。  その視線を振り切るように、恒一は踵を返した。  早く、一人になりたい。  人目の少ないビル脇へ入ってから、恒一は壁に手をついた。指先が冷たい。なのに身体の奥だけがじわじわと熱を持っている。  急いでケースを取り出し、中を開く。  空だった。 「……は」  息が止まる。  そんなはずはない。朝、新しいシートを入れたはずだ。見間違いかと思って指先で探るが、中はからっぽのままだった。どこかで落としたのか、それとも入れたつもりで別のケースを掴んだのか。  どちらでも同じだ。今ないなら意味がない。  背中を冷たいものが這う。  胸の鼓動だけがやけに大きい。遠くの話し声、車の走る音、誰かの香水の匂いまで、嫌になるほど鮮明に入ってくる。  駄目だ。  ここで駄目になったら、本当に終わる。  恒一はポケットからスマホを取り出し、配車アプリを開こうとして、指が震えて画面をうまく押せない。舌打ちが漏れる。呼吸が浅い。腹の奥が灼けるみたいに熱い。  こんなところで、こんなタイミングで。  会社で隠し通してきた。  努力して、結果を出して、対等に立ってきた。  それがたった一度の失敗で崩れるなんて、笑えない。  ぐらりと視界が揺れて、恒一は膝を折りかけた。咄嗟に壁に肩を預ける。甘ったるい、自分でもわかる匂いが微かに立ちのぼった気がして、心臓が凍る。 「白瀬」  また、その声だった。  終わった、と思った。  反射的に顔を上げると、冬真がすぐ目の前にいた。険しい顔をしている。さっき別れたばかりなのに、どうしてここにいるのかもわからない。  恒一は一歩下がろうとして、足に力が入らなかった。 「来るな」 「無理して立つな」 「触るな……っ」  伸びてきた手を振り払おうとしたが、その前に身体が傾く。冬真の腕が背を支えた。スーツ越しの体温がやけに遠慮なく伝わってきて、恒一は息を詰める。  まずい。近い。  匂いで、わかる。  冬真は何も言わず、周囲を一度だけ素早く見回した。それから恒一の肩を支えたまま、低い声で言う。 「薬は」 「……関係ない」 「あるだろ。その状態で一人で帰れるわけがない」  その言い方で、悟った。  ただの体調不良としては見ていない。もう誤魔化せないところまで、ばれている。  恒一は唇を噛んだ。屈辱で頭がくらくらするのに、身体は冬真の腕から逃げられない。情けなくて、惨めで、泣きたくなるくらい最悪だ。 「誰にも、言うな……」  やっとのことでそれだけ絞り出す。  会社に知られたら終わる。築いてきたものが一瞬で色を変える。あいつはΩだから、と、そんな目で見られる。  それだけは、嫌だった。  冬真はしばらく黙っていた。  やがて自分のジャケットを脱ぎ、恒一の肩にかける。人目を遮るみたいに。 「言わない」  短く答えてから、冬真は恒一の顔を覗き込んだ。冷静すぎる声音が、逆に逃げ場をなくしていく。 「その代わり、今は俺の言うことを聞け」  拒める状況ではないと、恒一自身が一番よくわかっていた。 つづく

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